■ ■ ■
『あのー名前さんの弟さん?』
都会のビル群が暖色の光を控えめに放つ中、四車線の闇を無数の車が入り乱れる。ヘッドライトの残光を引きながら目の前を過ぎていくその中に目当ての車の姿を探していると、ジャージのポケットの中が震えた。取り出して、それが電話の通知だと認識した後耳に押し当てれば、聞こえてきたのは耳慣れない女の人の声だった。
不審に思ったものの、画面に表示された"姉さん"の文字を改めて確認してから、取り敢えず質問に「はい」と答える。すると電話越しにほっと微かに息を吐く音がした。
『お姉さん飲みすぎちゃったみたいなのよ。誰かに送らせようかとも思ったんだけど、彼女が弟呼んでくれーって聞かなくって』
耳障りのいい落ち着いた声はそう簡潔に告げると、姉弟で仲がよろしいのねと小さく笑った。何が可笑しいのかはよく分からないが、取り敢えず姉より随分と丁寧な喋りに幾分年上なのかと想像する。職場の上司だろうか。
そう言えば、遠征帰りは必ず迎えに来てくれる姉が今回ばかりは用事があるからと、代理人を寄越してきたことをふと思い出した。慌てて頭を切り替え、代理人の愛車である銀のクーペを探せば、路肩に見覚えのあるそれが止まっていた。何時からいたのだろうか。中に乗っている人間の性格を考えると、自分が道路の脇で待ちぼうけを食らったようにうろうろしている姿を見てずっと笑っていたのかも知れない。腹立つ。
『もちろんお時間があればでいいのだけど、お姉さんを迎えに来て頂けませんか?』
「あ、はい。分かりました」
首肯しつつ短く答えれば、相手は心底安心したように再び笑って、それじゃあお願い致しますと締め括ったのを最後に通話は切れた。それから暫くして、全国展開の居酒屋の場所が記された地図が姉の名義で送られてきた。幸い最寄りの駅から二駅先らしく、走れば15分で着くだろう。
30メートルほど離れた場所で無言を貫く銀のクーペに駆け寄り、運転席のガラスを軽く叩けばウィーンと呑気に窓が開く。中から顔を覗かせた人物に事の旨と「行ってくるんで」と決定事項を告げてから、返事も聞かずに地を蹴った。重いボストンバッグが腰を叩く音に紛れて、背後から追いかけてきた自分の名前を呼ぶ声は生憎聞こえなかった。
***
ホームに駆け込むや否や発車しようとする電車に運良く滑り込むことができたからか、思ったより早く目的地に着くことができた。息も上がらないうちに目に入ってきた光彩を放つ看板の下に、人影が見えた。
「もしかして名前ちゃんの弟さん?」
電話と同じ声に本能的に首肯する。母より一回り年下くらいの、声と同様落ち着いた雰囲気の女性だ。低い位置で括った髪を揺らしながら「そっくりなのね」と朗らかに笑ったその人は、「よく言われます」と飛雄が答えると更にクスクスと楽しそうに笑った。やっぱり何が可笑しいのか分からない。
小さな背に付いて行けば、店の奥まった空間の座敷に姉はいた。飲み会なのか、酒に強いはずの姉がべろんべろんに酔って、隣の同期と思しき女性に寄りかかっている。その周囲では姉を気遣う様子を見せる男性陣や、姉同様潰れた様子の人がちらほら。むわっとした慣れない酒の匂いが鼻をつき、少し顔を歪めた直後。手前にいた見知らぬ女性と目があった。
「なんで影山飛雄がいんのぉーー?!」
突然大声を上げられ、思わずビクリと体が揺れる。女性の人差し指は、酔って回らない呂律とは裏腹に真っ直ぐこちらを示している。
それを皮切りに、座敷の視線が一斉に此方を向いた。「影山とびおって誰?」「バレー選手だよ!ほら、最近及川徹とよく一緒にテレビ出てる……」沸き起こる会話に飛雄は困惑した。おまけに女性陣の大半が認知しているのか、彼女たちのアルコールにふやかされた理性も相まって、悲鳴にも似た甲高い声が上がった。
「あら、有名な方だったの?」と例の電話相手に問われたものの、飛雄自身状況が上手く呑み込めない。
念願叶って日本代表に選ばれてから早1年。何処から情報が漏れたのか同じく代表選手の及川と同郷、しかも中学時代の先輩後輩であるという事実がメディアに知られてからと言うもの、整ったルックスの助力もあって、飛雄と及川はセットで情報メディアに引っ張りだことなった。半年経った今もその熱は収まる所を知らない。
とは言え、飛雄のテレビ出演の機会は口の達者な及川ほど無い。キリッとした顔の割に頭の弱い飛雄を危惧して、マネジメント側がある程度規制をかけているのだ。雑誌の取材も殆ど及川が答えているし、基本飛雄の仕事はじっと座っているか、立ってカメラのレンズを睨みつけるかの何方か。その所為か、自分の顔が全国に出回っているという自覚が飛雄には明らかに足りていないのだ。
「ほーら、お姉さんを迎えに来てくれたんだから通して頂戴」
「え……お姉さん?」
込み入った座敷を進んでいく上司に続いて姉の元へと向かう日本代表の姿を、無数の視線が追う。
「お姉さんって、もしかして影山さんのことですか?!」
すーすーと静かに寝息を立てている姉の肩に触れた瞬間、向かいに座っていた若い女性が素っ頓狂な声を上げた。酒に強いのか、手元には無数のグラスと大ジョッキが林立している。量の割に意識はしっかりしているのだろうが、何せ酔っ払い特有の大声はよく響く。
「え、本当に?!」
「確かにそっくりー!! えー凄い!」
再び騒めく場に若干の気まずさを覚えた飛雄は、眠る姉の身体を背負い直ぐさまその場を後にしようと立ち上がった。電話をくれた女性に一言二言お礼を言ってから、「影山さん、今度詳しくお話し聞かせてくださいよーー!!」と名残惜しげに響く声を背に店を出る。人が密集している空間から一歩外に出れば、冷えた外気が頬を撫でた。騒がしい音は閉まった扉の中に消え、シンとした空気の中で姉の長い髪だけが揺れている。
「飛雄、来てくれたんだ」
はぁと息を吐く音がした後、耳元でそう小さく囁かれた。聞き慣れた姉の声はアルコールを含んだ所為か、少しだけ掠れている。
「あ? 起きてんのかよ……」
「うん、だいぶ前から起きてた」
って言うか寝てない。そう続けた姉は力なく垂れていた腕を飛雄の首に巻きつけながらケラケラ笑う。起きているとはいえ、背中から降りて自ら歩くつもりは微塵も無いらしい。無言の意思表示に飛雄は少々の不満を抱きつつも、身長の割には軽いであろう姉の身体を背負い直す。重たいボストンバッグが腰を叩いた。
「なんかさ、今日は自分で帰るの面倒でね? 誰か迎えに来てくれる人いないかなーって思ったら、真っ先に思いついたのが飛雄だったのよ」
「は? 意味わかんねぇ」
「今日こっちに帰ってくる予定だったでしょ? 解散場所もここら辺だったと思って、そしたらどうしてもアンタに迎えに来て欲しくなったから、潰れたフリでもしようかなーって」
笠木さんには迷惑かけちゃったけど。
上司の顔を思い浮かべながら申し訳なさそうに笑った姉の顔は、飛雄からは見えない。
「あの人呼べよ。俺じゃなくて」
そう言えば、あれから銀のクーペはどうしただろうか。自分の目的地をあの人に伝えたか否かもうまく思い出せない上に、唯一の連絡手段である携帯さえあれから一度も開いていない。もしかしたら夥しい量のメールやら電話やらが来ているかもしれない。そうは思ったものの、生憎携帯を取るための手は姉の身体を支える為に駆り出されている。
「イヤよ。面倒」
姉の短い返答に飛雄は面喰らった。恋人という存在が一般的にどういうものか、20年近い時間をバレーの為にひたすら費やしてきた飛雄には、その正しい姿というものが分からなかったが、それでも姉とあの人の関係が一般的なそれに当てはまらないことくらいは飛雄にも分かった。どうしてこの二人が付き合っているのかも、それが10年近く続いている理由も、ましてやお互いに好きなのかさえも。二人にまつわる全てが謎に包まれている。
飛雄には理解できなかった。酔った姉を連れて帰るのは弟よりも恋人の方がしっくりくるし、車を運転しない飛雄より車を持っているあの人の方がこの仕事には適任だ。そう思った。
「だって、飛雄は弟だからいいけど……アイツは違うから面倒じゃない」
「? どういう意味だ?」
「そのまんまの意味」
飛雄には分かんないかなーと言葉を切った姉が自分を馬鹿にしていることだけは何となく分かったが、その言外に含まれた真意を知るには飛雄は素直すぎた。
口を尖らせうんうん唸りながら考え込む飛雄の背中で、姉はクスクスと笑う。一歩一歩前に進むたびに揺れる長い髪が、からかう様に飛雄の頬をくすぐった。
「恋人に頼るって口で言うほど簡単じゃないの。それに相手の顔が世間に知られてるってなったら尚更」
「……?」
「今は分かんなくていいけど、飛雄も彼女できたら気を付けなよ? その内愛想つかされちゃうかも」
姉は、もしかしてあの人に愛想を尽かしているんだろうか。飛雄は単純に姉の言葉をそう受け取って、眉間にしわを寄せた。その様子から何かを察したらしい姉は、驚いた様に目を見開いた後、カラカラと軽快に笑って私は違うわよと飛雄の背を力一杯叩いた。違うのよ、大丈夫。そう続けた声は、やっぱり掠れていた。
「プロポーズされたの」
「……は?」
突然のカミングアウトに飛雄の足は動きを止める。プロポーズという浮世離れした単語が、バレーに埋め尽くされた飛雄の頭の中をぐるぐる回り、姉に「進め」と叱咤されるまで足が動かなかった。
「3回もプロポーズされた」
「……は、え……結婚すんのか?」
「さあ、どうしよ」
3回プロポーズってなんだ。そんな疑問がなかったこともないのだが、そこを突っ込むのは何だか違う気がして、でも多分そうでなくても飛雄は混乱していた。姉がプロポーズをされたという事実に、そしてそれを受けるかどうか悩んでいるという姉の心境に。
「どうしたらいい?」
「……知るか」
「いいの? 飛雄のお兄さんになる人のことよ?」
「……」
「あ、今最悪って思ったでしょ」
顔を覗き込んできた姉に図星を突かれた飛雄は、取り繕うそぶりも見せずに頷く。
「あはは! そりゃそうだ! あんな兄は私も嫌だ」
それなら何であんな性格の悪い男と付き合っているのか飛雄は疑問に思ったが、考えたところで満足な答えが出ないことは、すでにもう何度も試したことだ。
「飛雄」
「何だよ」
「私、及川と結婚する」
姉の声ははっきりしていた。