メローネとアラクネー

シルビアがパソコンに向かって仕事をしていると、静かな部屋にノックの音が響いた。

「どうぞ」
「ただいまシルビア。報告書持ってきたよ」
「おかえりメローネ。珍しく早いね」
「俺だってやればできるんだよ」

いつもそうだとありがたいのに、という意味も込めて肩を竦めたところでシルビアはメローネの隣に立つ人型のスタンド―ベイビィフェイスの存在に気付いた。大きな目がじっとシルビアを見つめる。

「ベイビィフェイス、彼女がシルビアだ。さっき教えただろ?」
「…シルビア。あなたは攻撃対象外の人間です」
「そうだ、偉いぞベイビィフェイス」

メローネの後ろについて近寄ってきたベイビィフェイスの頭を撫でる。

「よく学習できてるみたいで何より」
「良い母胎を見つけたんだ。今日は運が良かったよ」
「それは良かった。ベイビィフェイスもお疲れ様」
「対象の殺害完了。ミッションコンプリートです」

メローネの言う通り母胎との相性が良かったのか、それとも彼の教育が良かったのか。近年稀に見る従順なベイビィフェイスの頭を感謝の意味も込めて撫でていたシルビアは、隣から突き刺さるような視線を感じて手を止めた。

「…なに?」
「ベイビィフェイスばっかりずるくないか?俺も撫でてくれよ」
「メローネもお疲れ様。今後も報告書は早めに出してね」
「おいおいシルビア、さすがにそれはないだろ。俺は十日間も奴らのアジトに張り込んで毎日朝から晩まで動向を探ってたんだぜ?少しくらいご褒美を貰ったってバチは当たらないと思うんだが」
「……」
「そんな顔しなくてもいいだろ」

前科持ちが一体何を言っているんだ、と言わんばかりに全力で顔を歪めたシルビアにメローネがやれやれと手を上げた。そうしたいのはシルビアである。

「(とは言われても…)」

先日不意打ちで指を舐められてからというもの、シルビアはメローネに対する警戒を強めていた。勿論それに本人が気づかないはずもなく、これ幸いとばかりに距離を詰めるとシルビアの前で懇願するように手を合わせる。

「ほんとに何もしないって。約束するからさ」
「本当に?」
「ああ」
「…仕方ないなぁ」

やけに真っ直ぐな目で見つめてくるメローネに折れて立ち上がる。するとそれまで撫でられていたベイビィフェイスはシルビアから離れて部屋の隅にあるソファに座り、メローネから与えられた絵本を開いた。
その様子を横目に見ながら腕を伸ばしてメローネの頭に手を置いたシルビアだったが、やはりその手つきはどこかぎこちない。

「よしよし、お疲れ様メローネ」
「うん、ありがとう」
「…」
「…」
「…もういい?」
「え、キスは?」
「…」
「あ、今俺のこと面倒くさいって思っただろ」
「分かってるならやめなよ…」

とは言え、本当にそれ以上何もする様子のないメローネに拍子抜けしたシルビアは再び席に着くとパソコンの画面に目を向けた。どうやらつい一分前に新着メッセージを受信していたようだ。
メールボックスを確認するシルビアを見ながら、現在は空席となっているリゾットの席にメローネが座る。

「誰から?」
「ギアッチョ。あっちもなんとか終わったって」
「他は?」
「全員順調だって。スタンド使いも今のところいないっぽいし。ただ…」
「ただ?」
「思ってたより数が多かったみたい」

ギアッチョから届いた怒りのメールに苦笑を浮かべれば、メローネも思い当たる節があるのか頷いた。

「カルローニの奴ら、本格的にネアポリス進出を狙ってるのかやけに人が集まってたからな。所詮はストリートギャングの集まりみたいなもんだから殺すのは簡単だったが、早めに殲滅しないとあっちが動くのも時間の問題だろ」
「問題はそこなんだよね」

手を打たれる前にさっさと殺してしまうのが一番だが、何せ相手は大手企業の役員だ。下手に動いて気付かれると自分たちの首を締めることにも繋がる。そのため歯痒いが、確実に殺せるという確信が持てるまでは水面下で動いて時期を待つしかないのだ。
相当フラストレーションが溜まっているらしいギアッチョへの返信を終えたところで、向かいに座るメローネが机の上に片肘をついてその上に顎をのせた。

「そういえばリゾットは?」
「朝からジョルノに呼ばれて本部の方に行ってる。もうそろそろ帰ってくると思うけど」
「シルビアじゃなくてリゾットが呼ばれるなんて珍しくない?」
「私も朝は仕事があったから代わりに行ってもらったの」
「なるほどね」

それきり口を閉じたメローネは頬杖をつきながら目の前で作業するシルビアをじっと見つめた。部屋にはシルビアがタイピングする音と時々ベイビィフェイスが絵本を捲る音だけが響く。

「…」
「…」

メローネの視線を無視して日報を作成していたシルビアだったが、真正面からの突き刺さるような視線に耐え切れずにちらりと視線を上げた。

「まだ何かあるの?」
「いや…何て言うかさ、仕事するシルビアって普段俺たちは見られないだろ?リゾットはその顔を毎日ここで見てるんだと思ったら羨ましくて」
「リゾットはそこまで凝視してないよ」
「シルビアがそう思ってるだけで実際はどうかわからないぜ?リゾットってどことなくムッツリっぽいし」
「良かったね今本人が不在で…」

本人が聞いたら確実にメタリカの刑に処されるであろう発言をするメローネに溜息をつく。

「でも実際そういうのを抜きに考えてもリゾットと一緒にいる時間は長いだろ?」
「まあ、私が来た時からお世話になってるからね」
「リゾットだけじゃなくてプロシュートとも”仲良く”してるみたいだし」
「念のために言っておくけど、二人とはメローネが想像するような関係じゃないからね」
「もちろんわかってるさ。確かにシルビアが古株の二人に懐いてるのは仕方ないが、もう少し俺に優しくしてくれてもいいんじゃないか?」

椅子から立ち上がって身を乗り出してきたメローネに本題はそれか、と再び画面に視線を戻す。

「十分優しくしてるつもりなんだけど」
「具体的に」
「スタンド攻撃してないでしょ」
「それだよそれ!普段の扱いが雑すぎるんだよ!」
「じゃあまずは自分の行動を改めなよ…」

少なくともマトモな人間は許可なしに他人の―それも異性の指を舐めないし、女性の生脚を見て舌舐めずりをしたり突然好きなキスの仕方を聞いたりしない。
うんざりと溜息をついて立ち上がったシルビアはプリントアウトした日報を手に取るとパソコンの電源を落とし、ファイルが大量に並んだ棚の前に立った。そこから取り出した分厚いファイルを左手で支えながら差し込み、表紙を閉じて元の位置に戻す。すると背後でガタンと音を立ててメローネが椅子から立ち上がった。驚いたシルビアが振り返るよりも早く背後から抱きしめられる。
びくりと体を硬直させたシルビアはそのままの体勢で恨めしそうに呟いた。

「嘘つき…」
「んー?まだ何もしてないだろ」

ただの仕事仲間にこの行為は十分”何かする”に値しているだろう。
今日はベイビィフェイスもいるのに…とソファに視線を向ければ、二人の様子には特に興味がないらしく食い入るように絵本を読んでいた。今回のベイビィは随分と勉強熱心である。

「この前も言ったけど、シルビアの指って好きなんだよな。白くて細くて綺麗で…舐めたくなる」

ファイルに伸ばされたままの手を見ながら背後でぺろりと舌なめずりをしたメローネにシルビアは咄嗟に手を引っ込めた。しかしメローネがその隙を逃すはずもなく、体が縮こまったのをいいことに完全に腕の中に閉じ込められてしまう。
メローネの髪が首筋に当たってくすぐったい。そして何より暑苦しい。

「ちょっとメローネ」
「シルビアさ、俺がここに来たときのこと覚えてる?」
「お…ぼえてるけど」

確かに覚えてはいるが、もう何年も昔の話だ。突然何なんだと眉を顰めるシルビアをよそにメローネは当時を懐かしむように言葉を続けた。

「俺、最初の頃はシルビアのこと苦手だったんだよ。年下の女の子なのに俺より全然強いし、滅多に失敗しないし、隙がないし。あと俺にだけやたらと冷たいし」

それはメローネのせいなのでは…という言葉を飲み込んで記憶を掘り起こす。
メローネがまだここに来たばかりの頃、彼の指導を任されたのはシルビアだった。リゾットとプロシュートに次いで所属歴が長いシルビアは多くのメンバーの指導役になってきたが、用心深くあまり他人と関わりを持ちたがらない性格のせいか苦手意識を持たれることも少なくなかった。中でもギアッチョとはまともな会話すらできずに苦労したのをよく覚えている。
それを考えると、確かにメローネとも距離を置いていたから苦手意識を持たれていたのかもしれない。しかしメローネにはギアッチョほど露骨に嫌われていた記憶はない、とシルビアは思う。

「気付いてないかもしれないけど、昔のシルビアってリゾットとプロシュートの前ではよく笑ってたんだよ」
「…そうだっけ?」
「そうだよ。二人の前では笑うのに、俺には全然笑顔を向けてくれないのが悔しくて。だからそのうち絶対俺の前でも笑わせてやるって思った」
「うん」
「多分その時には、もうシルビアを好きになってたんだろうな」

思わず振り返ったシルビアが見たのは、いつものふざけた表情ではなく真剣な表情のメローネだった。

「だからシルビアに冷たくされると、俺も結構傷付くんだぜ?」
「そう、なんだ」
「ああ」

額にキスを落とされたシルビアが言葉を詰まらせると、それまで大人しく絵本を読んでいたベイビィフェイスが突然首を動かして大きな目でじっと二人を見つめた。

「メローネはシルビアのことが好きなんですか?」
「ああ、俺はシルビアを愛しているんだ」
「…その教育は必要ないでしょ」
「いてっ」

ぴんっと額を弾いたシルビアは隙を見てメローネの腕から抜け出すと、仕事部屋を出てリビングに向かった。そのすぐ後ろをカルガモの親子みたいにメローネとベイビィフェイスが着いてくる。

「もしかしてシルビア、照れてるのか?」
「そろそろ夕飯の準備しないとね。メローネも疲れてるだろうし今日はもう部屋で寝たら?」
「十日間もシルビアと離れてたから少しでも一緒にいたいんだ」
「…好きにしていいけど、邪魔だけはしないでね」

照れてはいないが、あまりにも真っ直ぐに想いを伝えられて困惑しているのは事実である。小さく息を吐いたシルビアはキッチンに入ると、腕につけていたゴムで簡単に髪をまとめてエプロンを付けた。冷蔵庫の中から材料を取り出してシンクの上に並べていく。

「今日のメニューは?」
「んー…この材料だとアクアパッツァかな」
「やった!俺アクアパッツァ好きなんだよな」
「そうだったっけ?」
「ていうかシルビアが作る料理ならなんでも好き。もちろんシルビアも好きだけど」
「はいはい、Grazie.」
「照れるシルビアも可愛いな」
「邪魔はしないって約束でしょ」
「わかったよ」

食材を移動させて調理器具を取り出しながらうんざりと答えるシルビアに降参だと手を上げたメローネだったが、ふとあることに気付くと眉を顰めた。

「ちょっと待ってシルビア、俺今凄いことに気付いたんだけど」
「今度はなに?」

呆れたシルビアが腰に手を当てながら振り返ると、いつの間に距離を詰めたのかメローネがすぐそばに立っていた。あまりの至近距離に驚いて咄嗟にスタンドを発現させようとしたシルビアだったが、それよりも早くメローネが腰を引き寄せた。ふに、と何かが自分の胸を触る感触に思わず動きを止める。

「やっぱり。また成長してるじゃあないか」

真剣な表情でむにむにと胸を揉むメローネに、シルビアはスタンドを呼ぶ声も止めて石化したように固まった。

「ただい…、…何してるんだメローネ」

―殺らねば。
シルビアがそうはっきりと認識したところで扉が開き、リゾットが本部から帰宅した。

「あ、リゾットお帰り。いや、シルビアの胸がまた成長してさぁ」

手を離すことなく馬鹿正直に答えたメローネの口から大量の剃刀と血液が飛び出すまで、あと3秒。