懐かしい地獄

八月十八日の政変以降失権し、政局の中心から追いやられていた長州。失地回復を図るという強硬論が叫ばれていた中での池田屋事件の発生は、長州藩士の怒りを買うには十分すぎるものだった。そして翌月の十九日、ついに彼らは京都奪取の決行に踏み切った。―――後に「禁門の変」と呼ばれる凄惨な戦が、幕を開けたのである。一方遅れて新選組も会津藩から正式な要請が下り、長州制圧のため出陣する。九条河原で予備兵として待機を命じられていた新選組は、翌朝響き渡る爆音を聞き御所へ駆けつけるが―――彼らが到着した時、戦は既に終結を迎えていた。

そして現在、土方から直々に蛤御門の守備を命ぜられた翠は、上層部に挨拶をすると言う山崎を見送り斎藤と共に状況確認の任に着いていた。 充満する火薬と、腐敗した人間が発する独特の臭いに自然と眉間に皺が寄ってしまう。辺りを見渡せば、至る所に無残な肉塊となった人間が転がり落ちている。想像を絶するような激戦が繰り広げられたのだと安易に想像できるその場から、翠は目を逸らした。

激戦が繰り広げられたであろう蛤御門へ来てみたものの、門を守備する会津薩摩の両藩は、手柄がどうとかで小競り合いが発生したらしい。

「予想はしてたけどさ」

先の英国との戦争で大敗を喫した薩摩だったが、やはり尚も会津とは相容れぬ存在らしい。少しばかりは大人しく引き下がるだろうと思っていたが、予想に反して彼らはいきがっているようだ。何とも図太い神経である。

「こんな時に、か」
『こんな時だからこそ、だろうな』
「…それもそうか。あーすまんがそこの御二人さん、」

すると翠達に気付いたのか、渦中に居た薩摩藩士は斎藤達を一瞥すると嘲るように笑った。

『何かと思えば新選組ではないか。こんな者どもまで召集していたとは、やはり会津藩は腑抜けばかりだな!浪人の手を借りねば戦うこともできんのか』
「(ああもう、挑発するなって)」

辺りの喧騒が止み、空気が固まった。会津藩士の愚直さはしばしば日本の美徳として語られるが、融通がきかないという点では扱いづらい事この上ない。

『世迷言に耳を貸すな。ただ己の務めを果たせ』

斎藤は隊士にそう告げると、引き続き状況確認の任に徹するよう促した。が、当然それだけで収まるはずもなく。

『おのれ、我ら会津を愚弄するつもりか!?』
「…ほら見ろ言わんこっちゃない」

声を荒げながら抜刀する会津藩士に、今度こそ翠からは溜息が洩れた。どう考えても挑発としか思えない言葉にまんまと引っ掛かるのは、若さ故か愚直故か―――確実に後者だろう。会津の殿様も大変なものである。
渋々翠が二人の間に入ろうと一歩進み出たところで、薩摩藩士の列を割って見覚えのある男が姿を現した。堂々たる体躯。整った容姿によく映える赤毛。静かに佇むその様ですら、無意識のうちに対峙する者に威圧感を与える。

「(…間違いない)」

それは池田屋の際、翠と対峙した男だった。

『貴様が相手になるか!』

突如として立ち塞がった男に、会津藩士の一人が斬りかかろうと右手を上げる。が、振り下ろされるよりも早く斎藤が双方の間に踏み入った。

『やめておけ。あんたとそいつじゃ腕が違いすぎる』

振り向き男の姿を間近に捉えた斎藤の横に翠が並ぶ。普段浮かべているいい加減な笑みは、この時ばかりは見当たらなかった。

『貴方は…』

相手も翠の顔に見覚えがあるのか、無表情のままに呟くと胸に手を当て恭しく頭を下げた。

『池田屋では御迷惑をかけましたな。確か…藤堂と言う名の青年にお相手頂きましたが。彼の額の傷は大丈夫でしたか?加減ができずにすまなかった、とお伝えください』
『平助を倒したのはあんたか…なるほど、それならば合点がいく―――大方、薩摩藩の密偵として、あの夜も長州勢の動きを探っていたのだろう』

言いながら抜刀した斎藤は、男の眉間に切っ先を向けた。必要以上の介入はすべきではないと判断を下した翠は、一歩引いて二人の遣り取りを見ていた。

『あんたは新選組に仇をなした。俺から見れば、平助の敵ということになる』
『しかし今の私には、君達新選組と戦う理由がありません』
『俺とて騒ぎを起こすつもりはない。あんたらとは目的を同じくしているはずだ。だが侮辱に侮辱を重ねるのであれば、我ら新選組も会津藩も動かざるを得まい』
『こちらが浅はかな言動をしたことは事実。代表して謝罪しよう』

頭を下げた彼を認めた斎藤が、鞘に愛刀を収める。

『私は天霧九寿と申す者だ。そちらが退いてくれたことに感謝を。それから、そちらの方』

突然呼びかけられた翠は山吹色を細めた。

『“彼”は貴方のことが気に入ったようです。どうぞ御用心ください』
「御忠告、感謝致します。早々に興味が薄れるのを願うばかりですが」
『しかし彼があれほどの執着を見せるのは珍しい。事を荒立てず、穏便に済ませるのが一番だと思います』
「既に喧嘩は売りました」

なんと、とでも言いたげな表情で僅かに目を見開いた天霧は、少し考えるような素振りを見せてから肩を竦めた。

『あまり刺激しない方がいい』
「身を持って実感しました。流石に二度目は御免被ります」
『それが得策でしょう。…次にまみえる時、互いが協力関係にあることを祈ります』

踵を返し遠ざかる背中を見つめていると、隣に来た斎藤が不思議そうに問うた。

『奴を知っているのか?』
「ああ、鬼の仲間だと認識している。だが報告した例の奴とは違って、話が通じる常識的な鬼だ」

しかし話が通じるとはいえ、薩摩が敵に回ればこの上なく厄介な相手となるのは間違いない。奴ら"鬼"を刺激するのはあまり得策ではない。先程翠に向けられた言葉は、自分も含めてのことだろう。

「ま、そんなことより。今は被害状況の確認と負傷者の手当てを優先すべきじゃないか?」

思わぬ鬼の登場で、野次馬も静かになったみたいだし?言いながら後ろに振り向けば、一人残らず鬼の殺気にあてられたらしい両藩の藩士が、揃って間抜け面を晒していた。



その後、長州の主戦力であった久坂、寺島らが天王山で自害するも、逃げ延びた者が市中に火を放ち民家や寺院が消失。二か所から上がった火は市中を焼き尽くす勢いで瞬く間に広まり、京の都は三日三晩黒煙を上げ続けた。こうして京の街は、後に「元治の大火」と呼ばれる火災に見舞われたのである。

そしてこの戦以降、長州は御所に発砲したことを理由に朝敵の烙印が押されることとなった。





「それで、唯一無事だったのがここってわけか」

斎藤と共に見回りに駆り出された翠は、焼け野原となった市中とは反対に、延焼を逃れ依然としてそこに位置する御所を見て肩を竦めた。

「ここまでの道すがら、元の姿で残っている建物は一戸として見当たらなかったのに」
『延焼を逃れたとは言え、戦の痕跡は残っているな』

言いながら彼は蛤御門の梁についた刀傷にそっと触れる。門の奥に広がる黒く焼け焦げた京の都を見て、翠が小さく呟いた。

「長州にとって、久坂や入江が抜けた穴は大きいだろうな」
『…ああ、そうだな』
「恐らく彼らは残される苦しみを知っている。にもかかわらず、死という道を選んだ。それが武士の在り方だと信じて、一切の疑念を抱くこともなく。どれが正解だと口を出すつもりはないが、少なくとも彼らには友人がいて、家族がいて、守るべき者がいた。死ぬ方は一瞬の痛みであの世に行けるが、残された者はその痛みを死ぬまで背負っていく。…悲しいことだ」

言いながら翠は自分の首を絞めている事に気が付き、思わず嘲笑を漏らした。彼女は今のところ死ぬ気などないが、戦いの中に身を置く斎藤が翠より死に近い場所にいるのは明白だ。そして誠を貫く彼は、間違いなく彼らと同じ最期を迎えるのだろう。

それまで一貫して翠の出自や素性その他の事柄において追求することはなかったが、先日、彼が初めて"萩野翠"という人間に踏み込むような発言をした。性質の悪いことにその整った容姿を最大限に活かして、だ。それも無自覚。
しかし翠が何よりも驚いたのは、それを嫌と思わなかった自分自身だ。名前を呼ばれたのが嬉しかったとは言え、まさか負の感情を凌駕してしまうとは。何より彼が真剣な表情で翠に言った言葉は、正直涙すら零してしまいそうなほど嬉しいものだった。

「(だって、まさかそんなことを言われるとは思わなかったから)」

普段冷酷な鬼の副長も、近藤さんに傾倒しているあの戦闘狂も、あんなに純粋な気持ちではなかったはずだ。まるで息を顰めて敵を狙う刺客のように、どこか疑うような視線を向けながら翠の正体を明かそうと目論んでいたのは気付いていた。その点、彼は正反対だった。安い挑発でも興味でもなく、純粋な心配。それが嫌でも伝わってしまうから、翠も上手いことかわすことができないのだ。

そして冷静な分析の結果、翠は一つの答えに辿り着く。

「(いや、ないだろ…うん、ない。そうだ、絶対ない。だってまさかそんな、それだけはないと自信を持って)」
『翠?大丈夫か?』
「!」

目の前に現れた端整な顔にびくりと肩が跳ねる。相変わらず彼の予測不能な行動は心臓に悪い。

「え、と」
『?』
「いや、その…」
『翠にしては珍しく歯切れが悪いようだが』

どうかしたのか?と真剣な表情で尋ねてくる斎藤に苦笑が漏れる。まかり間違ってもあんたのせいだよ、とは言えない。言ったら今度は何を問いただされるかわかったもんじゃない。

「そのー……は、はじめ君って、男色の気があるの?」

散々迷った末口を衝いて出た言葉に、彼はたっぷりと(それこそ永遠と感じる程の)間を開けて盛大に眉を顰めた。