女に生まれた地獄

金糸入りの大きな牡丹が描かれた帯と漆塗りの上品な簪。髪に差された別の洒落た簪が耳元で涼やかな音を立てる。重くて暑い腹周りを持ち上げれば確実に動きを制限する俎板帯がだらりと垂れた。 仕掛なんてもう目が痛くなるくらい豪華なもので、恐らくこの先二度と着ることは無いのだろうと息を吐く。鏡に映る不機嫌そうに眉を寄せた芸妓の顔は、間違いなく二十数年間付き合ってきた自分の顔だった。

ちなみにこうなった原因は今朝土方さんが放った一言による。

『先の戦で敵方の勢力は大幅に削がれた。奴らにとって主戦力の来島や久坂を失ったのは大きいだろう―――だが、中には運良く生き延びた奴もいる。そこで萩野』
「はい」
『お前には特別任務だ』

渡された紙に記された揚屋の名前を見て、思わず固まったのが数刻前。残党の動向を探る為に揚屋に潜入しろというのはまだ頷ける。しかし芸妓になりきって、あわよくば不貞を働く浪士を手玉にとってこいというのは如何なものか。

というか問題はそこじゃない。今朝見た土方さんの顔を思い出し頭を抱える。あの顔は確実に翠のここまでの地道な努力を全て水の泡にするあくどい笑みだ。間違いない。だが、何故今?というか、何故こんな回りくどいやり方で?直接聞いてこないのは何か理由があるのか?いや、もしかしたら確信がないだけかもしれない。今回の任務が終わり次第質問攻め(と言う名の拷問)にあう可能性もなくは無い。それを考えると気が重いが、とりあえず与えられた仕事はこなさなければならない。
ふと私はいつからこんなに仕事人間になったのだろうと考えて、寡黙な彼の姿が浮かんだ。…間違いなく彼の影響だろう。

「(とりあえず情報だけ集めて帰るか)」

重い身体を引きずって廊下に出れば、閑散とした夜の闇が広がっている。遠くから聞こえる騒ぎに足を向けたその時、背後に微かな気配を感じた。

「!」

反射的に懐に手を忍ばせればそれよりも早く手首を掴まれ柱に縫いつけられた。まさか自分より早く動かれると思っていなかった翠は一瞬目を見開く。が、眩しいほどの黄金が視界に映った瞬間、自然と眉が寄っていくのを感じた。

「(なんっっでこんなところにいる!!?ありえないだろ!?)」

初回にして大魚が釣れてしまった。当然嬉しくは無い。むしろ大外れだ。向こうも多少の驚きはあったようで、有り得ない距離で翠の顔を眺めていた。と、思えば例の如く腹立たしい程自信に満ち溢れた表情を浮かべた。

『よもやこのような場所で再会を果たすとはな』
「旦那はん、どなたかと間違えてはるんやないです?」
『下手な芝居はよせ。気配でわかる』
「…どうもお久しぶり、でもないですね。お元気でしたか?先の戦には姿を見せたようですが」

どうやら質問に答える気は無いらしい。金無垢の瞳が獲物を見つけた喜び故か、嬉々として細められた。 避ける間もなく顎に手が掛かり、咄嗟に振り上げた右手が掴まれる。

「…相変わらず早いですね」
『これに気付かぬとは、幕府の犬は相当女に不自由してないと見える』
「はぁ」
『翠、俺の妻になる気はないか?』
『生憎女としては出来が悪くて。鬼の頭領様に釣り合わないのは目に見えているかと。まあ、ですが…お前に娶られるくらいなら、腹斬って死んでやる』

笑顔で拒絶の意を述べれば掴まれていた手首が解放された。風間は面白そうに笑っているがこっちは何も面白くない。全くもって癪に障る鬼である。

『以前相見えた時はそのような口調では無かったと記憶しているが』
「一国を治める長の風間様に向かって失礼を働いた事、お詫び申し上げます」
『お前の本当の言葉はどちらだ』
「あー畜生めんどくせぇ奴に遭遇しちゃったなー、と。生憎女らしさは過去に捨ててきたもので」

言いながら支度していた部屋の障子を開ける。こんな所で芸妓が客と二人きりなんて、どうぞ見てくださいと言っているようなものだ。生憎翠と風間はそんな間柄では無い。それに何より風間といるところを同じく潜入している隊士たちに見られたら色々と面倒だ。どうぞ、と溜息を零して入室を促せば少々驚いていたようだが、案外素直に従った。

座布団に座って正面に向かいあうと、彼は愉しげに口端を釣り上げた。ちなみに二回目だがこっちは何も面白くない。持っている情報だけ吐いてとっとと消えてほしい、というのが本音だ。

『俺を拒む理由がどこにある?』
「まだ言うか…あのな、そもそも私は鬼じゃない」
『鬼でなくとも、この俺と対等に渡り合えるだけの力を持つ貴様が妻ならば里の者も何も言うまい』
「それは…褒められていると受け取るのが正解?武士としては嬉しいけど女としてはあんまり喜べないな…」
『この俺にここまで言わせておきながら、貴様は何を望むというのだ』
「仮に私がそれを望んだところで風間さんは与えてくれると?…冗談じゃない」

蝶よ花よと育ったどこぞの国のお姫様じゃあるまいし、そんな扱い願い下げだ。生憎こっちは雑草のように踏まれても逞しく生き抜いてきた女だ。欲しいものと言えば戦とは無縁な平穏な生活くらいである。…いや、この場合最も贅沢な望みになるのか?

「そもそも、お前たちの仲間の郷里は人間の私利私欲の為に滅ぼされたんじゃないのか」
『何処からの知識かは知らぬが、随分と理解が早いな』
「あくまで憶測の域だけどな。ちなみに犬は主人の躾一つで馬鹿にでも利口にもなるもんだ」
『奴らは後者だと?』
「それは今後に期待といったところだろう」
『なるほど。それで今は大人しく奴らに飼われているというわけか』
「は、」

顔を上げたその瞬間、細められた金無垢と目が合う。しまった、と目を見開いたその瞬間、手首を引かれて見事に体勢を崩した翠は床に組み敷かれていた。

「っ…!?」

そしてすぐさま首元に突き刺すような痛みが走り反射的に足を振り上げる。が、重量のある着物で動きを制限された体は鬼の速さに追いつくはずもなく、繰り出した脚は呆気なく宙を舞った。

「何のつもりだ…!」
『今宵は面白いものを見せてもらった。翠、次会う時までに覚悟を決めておけ』
「断っっ固拒否する!!」
『いつまでその態度でいられるのか見物だな』

心底楽しそうに笑った風間が出て行くのを見た後、肺の空気を全て吐き出すような大きなため息をついた。これまで欲に溺れ下卑た目をした男なら何度か見てきた。しかし奴のあれは…完全に、興味のそれだ。感情としては、新しい玩具を与えられた子供のそれに近い。

「ったく、あの鬼は一体何がしたいんだか」

しかし、彼ら鬼と呼ばれる種族が、人間に私怨があるというのがわかった。いつ無能な人間に見切りをつけ掌を返すかわからないということも、念の為頭に入れておいた方がいいだろう。ということは、あの高慢な態度は対人間だからか?と考えてすぐさまその答えを否定した。奴なら間違いなく同族にも同じ態度だろう。 むしろあの性格があってこそ風間千景という鬼だろうとすら思ってしまう。兎に角、今は早くこの任務を終わらせて一刻も早く帰りたい。そして睡眠を貪りたい。

「…行くか」

立ち上がって乱れた裾を直し、今度こそ潜入を再開すべく広間から漏れてくる喧騒に足を向けた。





『報告を優先させろと言ったはずだが』

咎める声は最早聞き慣れたものとなり、いつしかその姿を目に移さずとも受け答えが出来るようになっていた。それにこの場で私を咎めるのはただ一人だ。しかし縁側に腰掛けて涼む時間くらいはくれてもいいだろうと思う。物事を急いては良い結果が出せない、というのが時論だ。

「今宵はまた随分と綺麗な夜空だったものですから」
『で、奴らに動きはあったのか』
「残念ながらこれと言って有力な情報は出ませんでした」

ほぼ八つ当たりのように報告をする。あの後幾つかの集まりに顔を出したが、長州と直接的な繋がりがある人間とは出会えなかった。風間がいたならば何かしらの情報を持った薩摩藩士がいるかと踏んでいたが、どうやら彼は完全に個人での用だったらしい。ちなみに一人で遊廓というのも変な話だが、あの鬼のすることは毎回私の予想を超えている為真意は分からない。正直わかりたくもない。
とどのつまり、今日のは完全な無駄足だ。わざわざ自分から風間に会いに行ったようなものである。それに何より、

「着物は重いし動きづらいし」
『まあだが、女物を着れないはずはねえだろうな』

どこか弾んだ声に顔を上げれば、案の定土方は確信めいた笑みを浮かべていた。

「ほんと、良い性格してますよね」
『お互い様だ』

溜息をつきながら空を仰げば、夜空に浮かぶ美しい満月が淡い光を纏ってその存在を主張している。ばれて困るものでもないが、わざわざ明かす事でも無いだろう。そう思ってはいたがいざ明かしてしまえば複雑な感情が胸に渦巻く。例えて言うなれば、小競り合いに負けた様な気分だった。

「千鶴ちゃんには負けてない自信あったんだけどなぁ」
『俺も確証はなかった』
「なら、立派な観察眼をお持ちですね」

流石鬼の副長様だ、と嫌味を含んで言うと眉を寄せた彼が言葉を続けた。

『天王山に向かう途中で出会った"鬼"が親切に教えてくれたんだよ。『あの女はいないのか』ってな。尤も、俺以外でその意味を理解した奴はいないだろうがな』
「あの鬼はほんと…」

巻き込むのだけは勘弁してくれ。つい数刻前に見た金髪を思い出して静かに怒りを燃やしていると、隣に腰掛けた彼が無礼にも早速尋ねてきた。

『萩野翠は偽名か?』
「本名です。親から頂いた由緒正しき名ですよ」
『俺たちの前で話したことは…』
「嘘をついた覚えはありません。家族がいないのも、各地を転々としているのも本当の話です。信じるか否かは貴方次第ですけど、最初にも言った通り俺は嘘をつくのが嫌いな性質なので」

何か言いたげにこちらを見てくる彼に気付かない振りをして、言葉を紡ぐ。

「私は家族を殺されました」
『!』
「あれからもう数年経ちますが、下手人は未だ分かっていません。父も母も姉も、他人の恨みを買うような人ではありませんでしたから。私は家族を殺した人間を許せない。だから刀を手に取り、血の滲むような努力をしてきた」
『…何故それを俺に話した?』
「気になっていたんでしょう?嘘偽りない、萩野翠という人間が。これで私の謎に包まれた生い立ちは洗いざらい話しましたよ」
『つまり、俺たちはお前に信用されたってことでいいのか』
「"助けたい""力になりたい"なんて言われれば心も動きますよ。ま、だからと言って貴方たちにどうこうしてほしいとかは全くないんですけど」
『…斎藤か』
「寡黙な年下に弱いんですよ私は。…じゃ、そろそろ部屋に戻ります。奴らの情報は近いうちにまた収集してきますから」

夜空と同色の髪が夜風に靡くのを見つめて言えば、こちらを見た彼が驚いたように名前を呼んだ。

『確かに俺は奴らの情報を探れと言ったが、まさか床入まで済ませてくるとはな』
「は?」

無防備にさらけ出した首筋に節のある手が触れ盛大に眉を顰める。一体何だというのだ、と彼を見れば自分の首で同じ位置を差し示し『誰につけられた?』と尋ねてきた。言われて思い出したのは、有り得ないような力で畳に押し倒された瞬間だった。確かに身に覚えがある。何故今まで忘れていたのか不思議なほどには衝撃的だった。

「流石に鬼の力には敵いませんでした」
『!風間がいたのか!?』
「直ぐに帰りましたけどね」
『他には』
「いえ、特に何も」

そう言えば彼は大きく息を吐いて離れていく。溜息をつきたいのはこちらのほうだというのに。

『念の為確認するが、お前はあいつらと何か関わりがあるわけじゃねぇよな?』
「当り前でしょう。むしろ今後も縁を結ぶ気はありませんよ」
『は?』
「…いえ、お気になさらず』

普通に口を衝いて出た言葉に思わず苦笑を漏らす。どうやら自分は相当毒されているらしい。