メメント・モリ

ナマエは幼い頃から、死期が近い人間を判別することができた。

そう言うと超能力のような何か特殊な才能を持っているように聞こえるが、決してそういうわけではなく、近いうちに死ぬ運命にある人間から香る独特の”匂い”を認知できるというものだった。
はじめは風に乗ってふわりと香ってくる不思議な匂いの正体がよく分からなかったが、より強い香りを放つ人間が相次いで命を落としたことを知ると、徐々にそれが「死の匂い」なのだと認識していった。

では果たして死の匂いとはどのような匂いか。
これがまた難問で、なんとも形容し難い香りなのである。
病院に充満するエタノールのような匂いでもなければ、鉄分の匂いが鼻をつく血液でも、白檀の芳しい香りでもない。ガソリンのような油臭さとも、果物が腐った臭いともまた違う。
一番近い匂いを挙げるとすれば恐らく、美しい海の香りだとナマエは思う。
ブルーサファイアのような美しい海が運んできた貝殻を拾い集めて瓶詰めにしてから、1ヶ月ほど放置したとする。次に瓶を開けた瞬間、そこから香り立つ磯や塩やプランクトンが混ぜこぜになった匂いが、きっと一番近い匂いなのだとナマエは考えていた。

これは彼女が物心ついた頃から備わっている不思議な力だったが、毎回特定の人物を指さして「死の匂いがする」と繰り返す娘を両親は大層不気味に思ったようで、二度と口にするなと強く叱咤された。
それ以降彼女はわざわざ口に出すことはなくなったが、それから数年を経て高校生となった現在でも、街中に出れば1日に数回はその香りを感じていた。
例えば今エステサロンから出てきた、豊満な胸の美しい女性。
自販機の下で何かを探している学生服の中学生。
それから頭頂部にだけ髪を生やしたジャケットの男。
この街にはなぜか、死の匂いがそこら中に蔓延していた。

そしてその中でも一際強い海の香りが鼻を掠めた瞬間、ナマエは反射的に顔を上げていた。それは、恐らくこれまで香ってきた中で、最も不気味な死の匂い。
匂いの原因はすぐに見つかったが、目の前から歩いてくる男は一見何の変哲もないサラリーマンだった。全身から漂う気品と美しいブロンドの髪を除けば、どこにでもいそうな至って普通の男。しかしそこから香る死の匂いは、嗅ぎなれているはずのナマエですら顔を顰めてしまうほど色濃いものだった。
一体何をどうすればここまで強い香りが出るのかナマエには皆目見当がつかないが、恐らく相当悲惨な死に方をするということだけは薄らと感じ取ることができた。これはあくまでナマエの勘だったが。
何と言っても、ナマエと男は全く面識がないのである。
もしかしたら彼は快楽殺人を繰り返す凶悪犯かもしれないし、重そうな荷物を持つ老人に手を貸す善良な市民かもしれない。とは言え、いくら想像したところでやはりナマエは彼のことを何一つ知らないし、今この瞬間すれ違ってしまえば恐らく今後の人生で二度と出会うこともない赤の他人なのだ。ただこの場において、一つだけはっきりしていることがある。それは、どんな身分の人間にも、男にも女にも、老いも若きも、悪人にも善人にも、
死は必ず全ての生物に平等にやってくるということだ。

男は真横をすれ違ったナマエを気に留めることもなく、しっかりとした足取りで歩みを進める。そしてナマエも、明日になれば彼の存在すら忘れているのだ。

「ナマエ、どうかした?」

歩みを止めたナマエに、先を歩いていた友人が首を傾げた。

「ううん、なんでもない。それより何の話してたっけ?」
「もーだからァ、この前広瀬くんと一緒に日直だったんだけど、影から物凄い視線を感じたのよ。何かと思えば隣のクラスの山岸さんが鬼のような形相でこっち見ててさぁ。マジで殺されるかと思ったわ」
「山岸さん、広瀬くんのこと大好きだもんね」
「あれでまだ付き合ってないとか冗談でしょ。ていうか、いくら好きだって言ってもフツーあそこまで監視する?拉致して監禁してたって噂もあるくらいだし」
「それはちょっと怖いけど…でも山岸さん、すごく幸せそうだよね。恋する女の子って感じで」
「それは否定しないけど。そういえば、『ピンクダークの少年』って結局どうなってるの?まだ休載してる?」
「うん…岸辺先生って滅多に休載しないことで有名だったのにね」
「急病だっけ?」
「そうみたい。噂では全治一か月の大怪我したってのもあるけど、それも本当かどうかわかんないし」
「岸辺露伴って杜王町に住んでるんでしょ?ここ最近何かと事件多くない?」
「サンマートで立てこもり事件もあったもんね」
「それもそうだけど…ほら、昨日のあれ」
「昨日?」
「知らないの?杜王町で手首だけが切り取られた女性の変死体が発見された事件。犯人はまだ見つかってないみたいだけど、どうも異常性癖の持ち主の犯行だろうって。…うちらも女だから、気を付けようね」

カメユーデパートに勤めるサラリーマンが救急車に巻き込まれて事故死したというニュースがテレビから流れてきたのは、友人とそんな会話を交わした一か月後の夕方のことだった。