ナマエという女は誰よりも絶望を知っていた。
他の誰よりも孤独を知り、人間の醜さを知り、ちっぽけな存在であることを知り、囁かれる愛はそのほとんどが偽りであることを知っていた。
自分という存在に価値がないことも勿論知っていたし、人間という生き物がどれほど狡猾なものかも知っていた。
そのためこの世において絶対的な存在であるDIOに隷属する存在となれたのは、ナマエの人生において最大の幸福であった。
DIOへの忠誠心を肉の芽という形で意図的に植え付けられた人間以上にナマエはDIOに心酔し、吸血鬼として人間を凌駕した彼をまるで神のように崇拝していた。
栄養を摂取して空腹を満たすように。
男女が体を重ねて愛しあうように。
卵から孵った鳥が初めて見たものを親鳥だと認識するように。
それは運命でも偶然でもなく、ごく当たり前のことであった。
自分の心臓は彼に止めてもらうのだと、ナマエは信じて疑わなかった。
「ゆるして……お願い、たすけて……」
床に転がり、ひゅー、ひゅーと音を鳴らす喉には牙が突き立てられた跡が残る。
体中の血液を抜かれ、浅い息を繰り返す女をナマエは心底羨ましそうに見つめていた。
じっとその様子を見ていれば女の呼吸は徐々に浅くなり、目の焦点が定まらなくなっていく。
ゆっくりと、死の足音が近づいてくる。
「…私はあなたが羨ましい」
「…ぁ…た、す…け…」
「ねえ。あなたは世界一の幸せ者ね」
温度の無い瞳でナマエがそう呟くと、女はどこか一点を見つめたまま全ての動きを止めた。
ナマエにとってDIOとはまさに神であり、道であり、人生そのものであった。
その証拠に彼の手で奪われる命にさえ羨ましさを感じているのだから。
「DIO様」
「何だ」
「どうして私を殺してくれないのですか」
事切れた女を見下ろしながら呟くナマエに、DIOはまたその話かと言わんばかりに肩を竦めた。
何度懇願しても、ナマエの心臓は動いたままだった。
「それはできんな」
「どうしてですか」
「それがお前の幸福だからだ」
DIOは強く死を望むナマエを見抜いていた。
ナマエの最大の幸福とはDIO自らの手で死ぬことだと気付いていたのである。
「勝手に死ぬことは許さん。貴様はこのDIOと共に生き続けるのだ」
蠱惑的な唇がゆっくりと動くと、ナマエは驚いた様子で顔を上げた。
「DIO様…?」
「ナマエ。貴様には死という幸福ではなく、永遠という地獄をくれてやる」
「そ、んな…どうして…」
ナマエの望みは彼と共に生きることではない。
彼の手で自らの生を終わらせることなのだ。
力なく崩れ落ちるナマエをまるで鮮血のような赤い瞳が見下ろす。
「そう簡単には死なせるものか」
薄く笑ったDIOの手が後頭部に回った瞬間、ナマエの白い首筋に牙が刺さる。
痺れるような快感の中で、ナマエは全てを諦めたように目を閉じた。