終焉を待ち望む

ひっそりとした裏路地を歩くディオの耳に、聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。
耳をすませば、ゆったりとした微かな音に小さく空気を吐き出す音も混じっている。

「A pocket full of posies」

音を頼りに歩みを進めれば、それはすぐに見つかった。崩れかかった外壁に腰掛ける華奢な背中の後ろに立てば、細い雲のような煙が上がってじわりと空気に溶けていく。二人の間に吹いた風が、ディオに煙草の匂いを運んできた。

「Atishoo, Atishoo, We all fell down」
「そこはWe all “fall” downだ」

訂正する声に振り返った顔は、案の定赤く腫れあがっていた。痛々しく紫色に腫れ上がった瞼の奥でピントを合わせた彼女がへらりと力なく笑みを浮かべると、口に咥えた煙草からはらりと灰が落ちる。

「久しぶりだね。元気だった?」
「お前もしぶとく生きてるみたいだな」
「人間ってのは案外頑丈みたいだよ。骨は折れてもくっつくし、皮膚は切れても再生する」

微かに入り込んでくる太陽光にかざした手は赤や紫で染まり、とても自分と同じ体の一部だとは思えない。眉を顰めるディオとは反対に、少女は満足したように笑みを浮かべていた。どこかうっとりした表情で腕に広がる痣を撫でると再びディオに目を向ける。しかしそれもすぐに逸らされてしまう。

「今日はね、いつもより気分がいいの」
「ついに殺したか」
「物騒なこと言うのね。違うけれど、私は嬉しいの」

血の滲んだ唇がそう動くと、その隙間からゆっくりと細い煙が漏れた。相変わらず何を考えているのかわからないと思ったが、ディオがこの少女について知っていることと言えば、この周辺に住んでいることと、母親から頻繁に暴力を振るわれているということだけだった。
年も生まれも、名前すら知らない。しかしそれはこの世界では普通のことで、昨日まで生きていた人間が翌日には死体になっているというのもここでは日常の一部である。だからディオは少女に何も尋ねなかったし、少女もディオについて何か詮索することはなかった。それでもディオは同じ境遇にあるはずのこの少女が、自分以上に哀れで恵まれず、かわいそうな存在であるということをはっきりと認識していた。
いつからかディオは少女のことを”ミザリー”と呼んでいた。惨めで哀れな少女にはぴったりの名前だと思ったからだ。本人に直接伝えたことはなかったが、この少女以上にその名に相応しい人間はいないとすら思っていた。

少女は短くなった煙草を口から話すと、ぐりぐりと足元に押し付けた。続いてポケットから二本目を取り出すと、反対側のポケットからマッチ箱を取り出して慣れた手つきで火をつける。先端部分に赤く火が灯ったのを確認すると、再び口に咥えた。流れるような動作で煙草を吸う姿を見て、時々、もしかするとこの少女は自分よりももっと年上で、もっと大人の女なのではないかと錯覚することがある。

「それ、もう痛くないの?」
「それ?」
「前見た時はなかった気がするけど。私と違って、折角綺麗な顔なのにね」

少女の視線を辿るように自らの左頬に手を這わせたディオは、なるほどこれのことかと肩を竦めた。ディオの左頬に広がる青い痣は、数日前父親に殴られてできたものだった。腫れは引いたものの、痣となって色濃く頬に残っているそれを、端正な顔には不釣り合いだと少女は言っているらしい。
ディオは少女の言葉を否定する気はなかった。とは言えそれは自らの顔の話ではない。少女の痩せこけた痣だらけの顔は確かに綺麗だとは言えないからだ。
ただ煙草を咥えながら虚空を見つめる横顔だけは美しいと思っていた。
すると口を閉ざしたディオを見て、少女は煙を吐き出しながら呟いた。

「もうすぐね」
「…もうすぐ?」
「そう。もうすぐなの」
「何が」
「私の死期が、もうすぐそこまで来てるのよ」
「またお得意の予言か」
「うん、そうかも。…そうだといいね」

時々、少女は今のように不思議なことを言った。つい先日会った時に「死神に出会った」と呟いていたのを思い出す。彼女がいつもぼんやりとした表情で何気なく呟く言葉は、毎回ディオを困惑させる。

「死にたいのか」
「だったらこれは予言じゃなくて願望だね」

いっそ死んでしまった方が楽だという気持ちは理解できなくはない。しかし少女は曖昧に笑うだけだった。

「君はしっかり生きてね」
「お前なんかに言われなくても俺は生き延びてやるさ」
「そうだよね。私と違って君は賢いもんね」
「お前は逃げたいと思わないのか」
「私が逃げたら、あの人が一人になっちゃうじゃない」

言葉を詰まらせるディオを見て、少女が不思議そうに首を傾げた。
ディオはこの少女に特別興味を持っていたわけではなかったが、以前から疑問に思っていたことがある。それは、何故か少女はいつも母親からの暴力を甘んじて受け入れ、抵抗する素振りを見せないということである。むしろそれこそが母親からの愛情であり、自分の幸福だと言わんばかりに。

「…馬鹿馬鹿しい」

これ以上は話にならないと悟ったディオは少女に背を向けた。
ディオにとって、父親に抱く感情は憎悪だけである。
だからこそ少女の言っていることがまるで理解できなかったし、気味が悪いとすら感じた。
この地獄から抜け出そうなど、考えたことすらなかったのだろう。

「Ring a ring o' roses. A pocket full of posies」

路地を出たところで、再び聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。さっきよりもずっとはっきりとした発音だ。

「Atishoo, Atishoo,We all fell down」

やっぱり歌詞は間違えたままだったが、どこか心を落ち着かせる穏やかな音が静かに空気に溶けていった。


ロンドンの貧民街を中心に再びペストが猛威を振るったのは、ディオがジョースター家に引き取られてすぐのことだった。