能く自ら保ちて勝を全うす

浅井・朝倉攻略において小谷の戦での武功が認められた秀吉に与えられたのは、琵琶の海を一望できる旧浅井領だった。築城された長浜の城に特筆すべき点は無いが、秀吉独自の統治政策が施行された城下は賑わいを見せ、眼下に広がる琵琶の海の美しさはまさに眺望絶佳と呼ぶに相応しい。

晴れて一国一城の主となった秀吉の"好きに散策したらええ"という言葉を受けて城の中を見て回っていた翠は、廊下の奥から姿を現した人物を見ると思わず立ち止まった。

光に反射する綺麗な栗色の毛。綺麗に通った鼻筋に切れ長の目。そして髪色と同じ薄茶色の瞳。自分にはない美しさを持つその人を前にして、翠は途端に羞恥を覚えた。それと同時に秀吉の居城内だからと気を抜いて頭巾を外していたことを思い出す。

目の前で止まった小姓は切れ長の目で呆然と立ち尽くしたままの翠を見降ろすと、綺麗な柳眉を不愉快そうに歪めた。

「あ、あの」
「邪魔だ」
「…え?」
「邪魔だ、と言っている。先ほど秀吉様と話していただろう。言葉が分からないわけではあるまい」
「いや、あの…」
「それに先程から不躾に人の顔をじろじろと…無礼だとは思わないのか?」

思いのほか厳しい物言いに一瞬面食らう。

「ご、めんなさい」

勢いに押された翠が咄嗟に謝罪を口にすると、小姓はそれ以上何も言うことは無く通り過ぎていった。我に返った翠が振り返ってみたが、真っ直ぐ伸ばされた背は一度も振り返ることなく遠ざかっていった。

これまで見た目のことを影で囁かれることはあったが、態度を真っ向から非難されたのは初めてのことだった。翠の態度が余程気に障ったのだろうか。

「…びっくりした」

先日、近江まで鷹狩りに赴いた秀吉は立ち寄った観音寺で出会った寺小姓を痛く気に入ったらしい。聞けば三献の茶でもてなしたとか。その寺小姓を召し抱えたというのは半兵衛から聞いていたが、名は何と言ったか。





「そういえば翠、佐吉にはもう会った?」
「…佐吉」
「そうそう。うちの人が近江から連れ帰ってきたんだよ」

秀吉に謁見する半兵衛を待つ間、ねねに甘味を振舞われていた翠は彼女の口から出た聞き慣れない名前を反芻した。

「その御方なら、多分先ほどすれ違いました」
「どうだった?仲良くなれそう?」

身を乗り出したねねに苦笑を浮かべながら視線を手元に落とす。

「…努力はします」
「翠」
「仲良くします」

途端に厳しい顔になるねねを前に慌てて早口で言い切れば彼女は満足そうに頷いた。

「おねね様」
「ん?」
「あの方は、私と違ってとても綺麗な人ですね。…羨ましいです」

白い髪を一束手に取りながら呟く。中には秀吉や半兵衛、ねねのように初対面でも翠の容姿を気味悪がらない人間もいる。それでも大半の反応は、驚愕あるいは嫌悪するかのどちらかだ。きっと佐吉も翠をさぞかし気味の悪い人間だと思ったことだろう。この白い髪も雪のような…と言えば聞こえはいいが、実物はまるで色素が抜けた老婆のようだ。琥珀色の瞳だって人間というよりは動物のそれに近い。
その様子を見ていたねねは困ったような笑顔を浮かべた。

「佐吉に何か言われたの?」

ぶんぶんと首を振る。城下に出れば自然と視線が集中するのも、目を向けると途端に逸らされるのも慣れた。しかし年の近い美丈夫を前にして、払拭したはずの劣等感が再び頭を擡げたのだ。頭を撫でる優しい手の感触に顔を上げるとねねが優しい笑顔を浮かべていた。

「翠、ちょっとこっちにおいで」
「はい」

ねねが自分の隣の畳をとんとんと叩く。その動作を見て隣に座れば、彼女は笑みを携えたまま、豊満な胸元を漁った。

「人はね、どうしても自分と違うものを遠ざけるの。見た目の話だけじゃないよ。家柄や性格だってそう。私とうちの人が結婚するときなんて、周りは猛反対だったんだから」

婚姻関係を結ぶのは家同士の結束を強めるため。そこに両者の意思なんてものは存在しない。そんな時代にあって、ねねと秀吉は好き同士で結ばれた。彼女の言う通り、ねねよりも家柄が劣る秀吉と一緒になるということは周りから猛反対に遭っただろうに、まるでその声をはねのけるかのように秀吉は一歩ずつ、天下人となるまでの道のりを歩んでいる。

「理解が出来ないものは怖いから。賢い翠なら分かるでしょう?」

こくりと頷く。それは翠も同じだった。
少し見た目が違うというだけで自分を恐怖の対象として見る人々を、翠は理解ができなかった。ゆえに彼らの前に姿を現すのは恐怖であった。
城下に出たときのことを思い出して憂鬱になっていると髪に何かが差し込まれ、視線をあげるとねねが優しく笑って手鏡を差し出した。

「うん、やっぱりこの色だね」

綺麗な装飾が施された手鏡を受け取って覗き込む。真っ白な髪の中で、琥珀色の玉簪が存在を主張するかのようにきらきらと光っていた。

「きれい…」
「でしょ?この前城下に行った時に見つけたの。翠の瞳にそっくりで凄く綺麗だったからつい買っちゃった」

ねねは嬉しそうに言うと続いて鏡台の中から京紅と筆を取り出し、鮮やかな紅の上に筆を滑らせた。

「翠に対して心無いことを言う人もいるだろうけど、それは翠の魅力に気付いてないだけ。翠はすごく綺麗なんだからもっと自信持ちなさい。なんてったって、私の可愛い娘なんだもん」
「おねね様…」
「それに翠は嫌いだっていうけど、私はこの髪もその瞳もとっても好きだよ。髪なんてどこも傷んでない上にまるで絹みたいな手触りだし、その瞳は宝石みたいにキラキラしてるし、十分魅力的。きっと翠は天からの贈り物で、もっと大きくなったら天女様みたいに綺麗になるんだと思うな」

優しい言葉に視界が揺れる。目元に溜まった涙を落とさないよう慌てて目元を擦れば、ねねがぱん、と手を叩いた。

「それじゃ、早速始めるよ!」
「…え?」

ねねの声を合図に突然襖が開いたかと思えば、そこには彼女の侍女たちがずらっと控えている。一人ずつ異なる反物を手に持っているのを見て翠はこれから自分の身に起こることを悟り、今度は別の意味で泣きたくなった。





「そんじゃ、引き続き頼んだで」
「分かりました。秀吉様もあんまり無理はしないでくださいね」
「半兵衛もな」
「お前さん、もう話は終わった?」
「おっ、ねねか。おう、入ってもええで!」

半兵衛が秀吉への報告を終えたところで、障子の外からねねの声が聞こえた。顔を向ければ笑みを浮かべたねねがすぱんと障子を開ける。

「翠はどうした?」

秀吉が尋ねると、ねねは廊下の奥に向かって呼びかけた。

「ほら翠!早くこっちにおいで〜」
「気持ちは進んでるんですけど、体が思うように動かなくて」
「そんなんじゃお姫様になれないよ!」
「お姫様にはならないので平気です」
「ほらほら、早く二人に見せてあげて」

言いながらねねが手を引けば、前のめりになった翠が姿を現した。

「おお…これは驚いたのう」

細やかな刺繍が美しい辻が花の小袖を身に纏った翠に、秀吉が感嘆の声を上げる。華やかな小袖とは裏腹にその表情は随分と疲れ切っている。ねねの着せ替え人形になったことが安易に想像でき、半兵衛は苦笑いを浮かべた。

「どこのお姫様かと思った」
「世の姫君は大変ですね…」

身の回りで女性といえば身軽さを追求した忍装束のねねしか知らないのだから、仕方ないといえば仕方のないことではある。

「よう似合っとるぞ、翠」
「秀吉様、ありがとうございます」
「どうじゃ、そろそろ嫁に行く気は無いか?賢い翠なら引く手数多で」
「秀吉様」
「わーとるって!」

半兵衛の助けにより何とか乗り切れたことにほっと息をつく。十三も過ぎればいつ嫁入り話が出てもおかしくはない。ただ翠は半兵衛の元を離れる気は無いし、それは親として彼女を育ててきた半兵衛も同じだった。

「それにしても、そういう恰好すると本当に天の使いみたいだね。同じ人間とは思えない」
「半兵衛様、褒めてます?」
「これが貶しているとでも?」
「もっとわかりやすく仰っていただかないと分かりません」
「綺麗だよ、本当に。どこにも行けないようにずっと閉じ込めておきたいくらい」
「えっ…もう、半兵衛様ったら」
「そこ喜ぶところじゃないんだけどなぁ」
「半兵衛様のお側にいられるなんて、私にとってはご褒美です」
「それは嬉しいけど親としてはちょっと心配になるね」

少々心配になるほど半兵衛に傾倒しているところは今後の改善点でもある。二人のやり取りを微笑ましく見守っていた秀吉が、思い出したように手を打った。

「そうじゃ翠、佐吉にはもう会ったか?」
「はい。先程すれ違いました」
「そうか。お前さんと歳も近い子じゃ。仲良くしてやってくれ」
「、勿論です!」

隣からねねの視線を感じ、にっこりと頷く。半兵衛は何かに気付いたようだが、秀吉はその答えに満足したようだった。





「貴殿が竹中殿ですか」

“折角だからそのままで今日は帰りなさい!”というねねの言葉により、着飾った状態のまま秀吉の元を後にした翠と半兵衛が廊下を歩いていると、後ろから半兵衛を呼び止める声がした。

「そうだけど、君は?」
「秀吉様にお仕えすることになりました。佐吉と申します」
「ああ、君が例の」
「貴殿は秀吉様が信頼を置く優秀な軍師殿であると伺っております。いずれその軍略を拝聴させていただきたく」

無表情のまま真っ直ぐに半兵衛を見つめる佐吉。

「いいよ」
「誠ですか」
「うん。けど一つだけ条件が」
「条件、ですか」
「この子と仲良くしてあげてね」
「えっ」

半兵衛に腕を引かれたかと思えば、佐吉の目の前に押し出される。あまりにも突然のことで困惑する翠とは対照的に佐吉はじっと翠を見つめると表情を変えずに頷いた。驚愕に目を見張る翠から半兵衛に視線を移す。

「竹中殿のご息女でしょうか」
「そう。俺が手塩にかけて育てた娘だよ」
「そうですか。それにしては少々礼儀がなっていないように見受けられますが」

その言葉を聞いた半兵衛は一瞬きょとんとし、言葉の意味を理解すると声を上げて笑った。

「そうそう、まだ世間知らずなとこもあるから。そこは佐吉が教えてあげて」
「承知仕りました」

とても先ほど非難してきた人間とは思えない態度に拍子抜けしていれば、佐吉は頭を下げて歩いて行った。すれ違いざま、ぱちりと目が合う。一瞬体を強張らせたが、やはり彼は何も言わなかった。敵対視しているのは翠だけのようだ。

「…半兵衛様、気付いてますよね?」
「何が?」
「とぼけたって無駄です。私、さっきあの方に非難されたんですよ」
「でもそれって、翠の見た目じゃなくて態度の話でしょ?」
「それは、そうですけど…」
「じゃあそこは受け入れないと。あの佐吉って子、言葉は厳しいかもしれないけど判断能力は長けてると思うよ」
「そうですかねぇ…」
「ま、あの態度が原因で厄介事に巻き込まれそうな気配もするけど」

もう一度振り返る。
真っ直ぐ伸びた背と夕陽に赤く染まる栗色の髪は、やっぱり美しいと思った。