蛇に噛まれて朽ち縄に怖じる男達の例

ダンッ!

部屋に押し入るなり、机の上に乱暴に置かれた書簡に肩が跳ねる。
恐る恐る顔を上げれば案の定、絶対零度の笑みを浮かべる名前が立っていた。
決して扉からだけではない冷気に体が震える。

「昭が真面目に執務をこなすなんて、明日は槍でも降るのかしら」
「は、はは…元姫が煩いんで」
「そう。元姫殿には感謝しなくちゃね」

何せ私の代わりを務めてくれたのだから。

笑顔でそう付け加える彼女から迸る静かな怒り。
大方これは"明日から覚悟しろ"の意味だろう。ああ、心なしか胃が痛い。

「さて、昭。言い訳があるなら先に聞くわよ?」
「な…何の事です?」
「とぼけるのも大概になさいな」
「いえ、本当に俺は何も知りませんって」
「台所の机の上」
「っ、」

カツカツと床を踏み鳴らす姿にまずいと思った次の瞬間、母上に瓜二つだと評判の高い顔が眼前に迫ってきた。笑ってるのに目は笑ってない。
その顔の綺麗さも相まって怖さ倍増だ。

努めて冷静に装わなければ、命はない。

「素直に答えなさい昭。私の肉まんは、どこかしら?」

彼女にしてはあまりにも直球な問いに思わず目が泳ぐ。
てっきり兄上のものだと思っていたが、まさか姉上の物だったとはとんだ誤算だった。
しかし今はひたすら知らない振りを決め込むしかない。さもなくば死あるのみ、だ。

「あー…兄上じゃないですか?昨日も肉まん食べたいって言ってましたし」
「師が?」
「ええ、久しぶりに"姉上"の作った肉まんが食べたいって言ってたような気が…」
「そう。なら、つい先程目の色を変えて昭を探す師の姿は見間違いだったのかしら」
「は、はは…」

まさかの二人分…!いや、確かに食べ過ぎたけども…!
よりによってこの二人の分だとは誰も思わないだろ普通!うわあめんどくせ…。

数刻前の自分を必死に頭の中で殴り倒していると、ため息をついた彼女から何とも物騒な言葉が飛び出した。

「何処の誰かは知らないけど、見つけたら即刻息の根を止めなければね」

一瞬にして室内の温度が下がる。
俺にとっては当の昔に極寒地帯と化していたが、今ではもう心臓が苦しいレベルで寒い。やべえ死ぬかもしんない。
何とかこの状況を打破出来るものがあれば…!と拳を握りしめた、その時だった。

コンコン
「失礼します。司馬昭殿、この書簡の件で少々聞きたい事が…」

何とも間が悪い(運が悪いとも言う)人物は、姉上の姿を視界にとらえた途端目を見開いて後ずさった。言葉にせずともその顔にはでかでかと書いてある。
"やってしまった"と。

「っ、名前、殿…!っで、では私はこれで失礼しま」
「待ちなさい鍾会殿」

ピタリと制止する哀れな姿に思わず拍手を送りたくなる。
が、この流れは非常に不味い。
この国の情勢全てを完璧に把握する頭脳を持つ彼女なら、当然先日の話も耳にしているはずで。

「ふふ、久しぶりね。貴方の首の皮が繋がっていて何よりだわ」
「っ…!」

予想的中。微笑を浮かべて歩み寄って来る姉上に対し、鍾会は真っ青な顔で視線を彷徨わせている。ああ可哀想に、とは思うがこちらも助ける気はない。

「この家に私がいる事を忘れるなんて、とんだお馬鹿さんになったものね。その気になれば貴方を殺す事くらい簡単だってこと、もう忘れたのかしら」
「なっ…!?だっ、誰が馬鹿だと」
「口応えは結構よ。死にたくないのなら黙りなさい」
「っ…」
「そうそう、頭はそうやって賢く使うべきよね。…けど、今回は少々度が過ぎたようね。可哀想だけどお仕置きが必要だわ」
「くっ…!」
「さあ行きましょう。久々に鍛錬のお相手になって貰おうかしら」

ちゃっかりと得物を構えて微笑む彼女には例え英才教育を受けていようと太刀打ちできないらしい。しかし俺にとっては願っても無い好機なわけであって。

「(鍾会には悪いが、あいつには尊い犠牲になってもらうとして、その間に俺は)」
「ああそれから、昭は後で私の部屋に来なさい。もし自分の命が惜しいのなら、それまでの間よく頭を使って考える事ね」

名前様と司馬師様がいれば今後も司馬家は安泰だ、と言ったのは一体誰であっただろうか。確かに揺るぎない絶対王政は確立されるだろう。そこに影の権力者こと母上様と元姫が加われば、まさに向かうところ敵なし。司馬の天下はまず間違いない。
ただ、それが完全武力制圧という点に問題があるのであって。

「(俺と父上は一体どれだけ肩身の狭い思いをすればいいのやら)」

このまま窒息死(若しくは過労死)してしまうのではなかろうかと要らない心配をしてしまう程には冷静だった。
これから迎えるであろう地獄に対する恐怖心が逆に冷静さを呼び戻したようだ。
何にせよ、これからやる事は決まった。

まずは母上に頭を下げて肉まんを作ってもらって、その間に兄上に謝罪。(ちなみにこの絶体絶命と呼ぶに相応しい状況下に置かれた際、恥だ何だと気にする馬鹿はたった今尊い犠牲となった男くらいなものである)。それから姉上が気に入りそうな小物を元姫に市井で見繕ってもらって――いや、それよりも前に、だ。

「…甲冑と兜用意するか」

それも、大凡人間だとは思えない大技を繰り出す彼女を前にしても、絶対に壊れないような頑丈な装備を。

俺は遠くで鍾会の叫び声を聞きながら「めんどくせ」と呟くと立ち上がった。