きょうあい


「許せなかったんです、あの人のこと」

彼女はそう言って、笑いながら血の涙を流した。彼女の中の孤独な世界にただ一人存在していた男。
彼を想って感情を露わにする彼女はまるで獣のようだった。あまりにも孤独で、残酷で、醜悪で。それでいて酷く美しく、あまりにも眩しいと思った。

「ずっとずっと憎かった。私、何度もこの手であの男を殺す夢を見たんです。何度も何度もやめてくれと懇願するその姿を見下ろしながら、私は笑っていました。お前のせいで私がどんな目に遭ったかわかるかと、罵りながら笑うんです。虫の息のあの男に、神経の昂りを感じながら得物を振り下ろすんです。…なのに、」

はらり、はらり。
真っ赤な涙が血の気の無い肌をゆっくりと伝う。獣が咆哮するように彼女は憎しみの嗚咽を漏らす。溜めこんでいた愛情を吐き出すように彼女は身体を震わせた。

「なのに…あの男は呆気なく死んでしまった。私一人だけを、この世界に残して」

それはまるで呼吸が出来ない動物のように。
水を奪われた魚のように。
半身を亡くした片割れのように。彼女は激しく彼を求めていた。

彼女の唯一の生きる意味。彼女の世界の全て。
そんな"彼"は呼吸であり、水であり、また命でもあった。
血が流れる艶やかな唇からは彼への想いがとめどなく溢れる。
悲しみ、絶望、憤り、私怨、狂気、殺意。
それら全てであって、反対にどれも当てはまらない彼女の孤独な世界。

「私から何もかもを奪ったあの男を殺すのは、私だったはずなんです。私が、私の手が、あの男の息の根を止めるはずだった。彼の体に触れるのも、苦しそうな声を聞くのも、心臓の音を止めるのも。全部全部、私がするはずだったんです。私じゃない人の手で逝くなんて、死んでも許さない。嗚呼、憎い憎い憎い憎いあの男が憎い…!ふふ、どうして私に何も言わず逝ってしまったんでしょうね?お陰で私はもうこの世界を生きたいと思わないのです。今すぐに死んで早くあの男に会いたい。地獄で会ったら次こそは私の手で殺すんです

―――ねえ軍師様。とても素敵なお話でしょう?」

今日初めて顔を上げた彼女は、恐ろしいほど綺麗に笑っていた。
声を奪われ、舌を切られ、手足を切断されて尚、彼女の世界は回り続けるのだろう。

例え本物の獣となりどれだけ堕ちようとも、彼女は闇の中でただ一人だけを見つけて、ただ一人だけに牙を剥く。
骨を砕かれ、内臓を抉られ、息絶える寸前でも、彼女は彼を見つければ命を擲ってでも襲いかかる。

そうやって彼への憎しみだけで成り立った世界で、彼女はこれからもずっと、死にながら生き続けるのだ。

「あの男の元へ行くのは、今からでも遅くありませんか?」

恍惚の表情で得物を首筋に当てる姿は、狂気を具体化したそれと等しい。
光を無くした瞳に映るのは最後まであの男だ。

ああ、やはり、と。
その狂気的な姿に確信せざるを得ない。
例え彼女に理性があろうが無かろうが、彼女はあの男が死んでも尚、彼が中心であった頃の世界を生きていく事しか出来ないのだ。ならば、せめて私は。

「全ては、愚かな貴女の望み通りに」
「軍師様は残酷ですね。でも、とっても素敵」

愚かにも最期まで彼を愛した女の孤独な世界が終わる、最後の瞬間を貰う事にしよう。