禍を転じて福となす

―――殿、ここはお逃げください!っ大丈夫です、必ず生きて白帝城まで辿り着きます…!
―――すまない名前…どうか死なないでくれ…!
―――はい、勿論です!また後でお会いしましょう!





辺りを焼き尽くす耳障りな音も、どこに居ても聞こえてくる耳障りな怒号も、今は聞こえてこない。薄暗く足音が反響するその空間に思わず溜息が漏れそうになる。

「(ああ…)」

静かに閉じていた目を開けて飛び込んできた人物の顔に自分は捕らわれたのだと自覚する。手首につけられた鎖が重々しく音を立てた。

「お久しぶりですね、名前殿」

今までにも何度か対面した事がある男が私の名前を呼んだ。

「まさか、こんな形で話す事になるとは思いもしませんでしたが」
「それで陸遜殿は私をどうするつもり?何故殺さずに捕らえたの?…貴方達の目的は、一体何?」

脳裏に渦巻く最悪な答えに意識しなくても体が強張るのが分かった。そんな私を見た彼は安心させるように穏やかな笑みを浮かべる。

「それは聞かずとも貴女ならもうお分かりでしょう?優れた武と諸葛亮先生に認められるほどの知略、そして劉備殿への忠義。死なせるには惜しいと考えるのが普通です」
「随分な過大評価だこと」
「私は事実を述べたまでですよ」

憎らしいほど爽やかな笑みを浮かべた彼は私の目線に合わせて屈んだ。

「孫呉に降りませんか?」
「お断りするわ」

間髪入れずに返って来た答えに彼の目が細められる。

「理由を訊いても?」
「理由は三つ。まず、蜀を裏切る真似は絶対にしないと決めてるから。次に、蜀の武人として戦場で死にゆきたいから。そして最後――貴方達孫呉が大嫌いだから。いっそ殺してくれた方がいいわ」

冷静に怒りを燃やす私は畳み掛ける様に言った。

「私は絶対、孫呉には仕えない」
「…仕方ありませんね。では―――」

双剣を構えて歩み寄ってくる彼に死を覚悟して目を閉じる。顔馴染みの彼の手で死ねるならばそれもまたいいかもしれない。ただ一つだけ果たせなかった約束に心残りがないと言えば嘘になるが劉備様が無事ならそれでいい。

しかし、いつまで経っても一向に痛みがやってこない。疑問に思って目を開けると、にこりと穏やかに笑う彼と目があった。と、思えば戦ばかりで手入れを怠ったあまりにも長い私の髪の毛を掬い上げる。それを一思いに断ち切ると、私が驚きの声を発する間もなく髪は牢の冷たい石の上に散らばった。

「さて、蜀の名字名前は今ここで死にました」
「なっ…」
「今ここに残っている貴女は何のしがらみも無いただの女人です」
「…どう、して」
「理由なら先程教えたはずですよ。…でも勿体無いですね。折角綺麗な髪だったのに」
「っ…」

優しく髪を梳かれたと思えば突然頬に無骨な指が触れる。いくら自分と変わらない身長と言えど、相手は男。それを身を持って知った私はグッと拳を握った。

その時、頬に触れていた指がゆっくりと降下する。唇に触れたそれにびくりと身を震わせれば真剣な目をした彼と視線が交わった。

「…名前」


***


「―――…、…―名前?」

いつから声を掛けられていたのか、弾かれたように顔を上げると心配そうな表情を浮かべた彼がこちらを見ていた。

「珍しいですね、名前がうたた寝など…体調でも悪いのですか?」
「ううん…少し考え事をしていたの」
「考え事?」

微笑を浮かべながら頷くと彼はきょとんとした顔でこちらを見つめた。

「そう。夷陵のこと」

その瞬間、陸遜は困った様に眉を垂らした。

「…その様子だと、覚えているみたいですね」
「忘れるわけないじゃない。伯言は、あの頃から何も変わらないわね」
「褒め言葉として受け取っておきます。それにしても…本当に、あの時は困り果てたものです」


***


「私は絶対、孫呉には仕えない」

枯れる事の無い蜀への、劉備殿への忠誠心。裏切るなんて絶対にしない。その意志を持って陸遜を見つめると少し考える素振りを見せた彼は仕方ないと言った様子で溜息をついた。

「…仕方ありませんね」
「、え」

唇に添えていた手を顎に移動させ、くいっと軽く上に向ける。ゆっくりと近づいてくる端整な顔に私は呼吸も忘れて魅入っていた。刹那、私と同じくらいの熱を持った何かが唇に触れた。

「(……?え、ちょ、…ッ!)」

固まっていた私もその感覚でようやく意識を取り戻し、目を見開いて抵抗の意を示す。非難の言葉を紡ごうと口を開けた瞬間ぬるりとしたものが口内に侵入してきた。

「ぁ、んん…ッ、!や、」
「っ…」
「んぁ、ふっ…、」

ざらりとした感覚に身体を震わせながら与えられる快感をただ受け入れる。それはまるで背筋からぞわりと何かが襲ってくるような感覚で。ようやく唇が離れる頃には力が抜けてぐったりとしていた。

「な、に、して…っ、」

勧誘を蹴ったから代わりに慰み者になれということ…?いや、そのような事態に陥る前に自決してやる。
酸素の回らない頭でひたすら考えを巡らせていると彼は全てを理解しているかのように微笑んだ。

「安心してください、貴女を慰み者にはしませんよ」
「じゃ、じゃあ何故…」

頬に触れる柔らかな感触を認めると今度こそ全身が熱を持った。

「孫呉に仕えなくても結構です。その代わり、私の妻になってください」
「……え?」

今、この男は何と言ったのか。私の耳が正常であれば確かに今妻になれ、と……。

…妻?

「それ、は…人質ということで、」
「いいえ。私は貴方が欲しいんです、名前」

視線が逸らせないくらい真剣な彼を見つめていれば、自然とかああぁっと頬が熱を持つ。ドクドク煩い心臓の音を耳元で感じながら震える唇を噛み締めれば陸遜が言葉を続けた。

「そして恐らく蜀の人間達は、貴方が死ぬ事を望んでいない」
「…ッ!」

―――…どうか死なないでくれ…!

刹那、劉備様の悲痛な声が頭に響いた。殿は私を信じていた。最後まで私の身を案じていた。それが主君の命であれば、私がすることは一つしかない。

「…わかりました。私の力が必要だと仰るのであれば、この武と知、孫呉の為に使いましょう」
「…そう、ですか」

一瞬驚いたように目を見開いた彼だったが、次にはほっと安堵したように溜息をついた。そんな彼を見て私ははっきりと告げる。

「それと陸将軍の結婚の件ですが。―――謹んでお断りします」



聞けばその後、殿は無事白帝城に辿り着き私の降伏を聞いてすぐに息を引き取ったという。

「結局、裏切った事に変わりはないんだけどね。…蜀の皆に生きてて良かった、なんて言われる資格もないのに」
「気付いていないだけで、貴女には魅力があるんですよ。武将としても、軍略家としても…女性としても」

愛しい人を見るような穏やかな表情で見つめられた私は思わず顔を逸らす。時が経ち、彼の正妻の座に着こうとも彼の端麗な顔には慣れずにいた。

「っ…ど、どうして伯言は、あんな事を言ったの?」

敗北した敵将に何故あんな…妻になれ、なんてことを言ったのか。情けのつもりにしては些か優待遇すぎやしないか。

「…知らなかったんですか?」

すると心底意外だ、とでも言いたげな顔がこちらを向く。つられて私も首を傾げた。

「何が?」
「夷陵の戦より遥か前から…私は貴女の事、ずっと見てましたよ」
「!?」

語られる衝撃の事実に私は思わず大声を上げそうになり慌てて口元を押さえた。

「う、嘘…だってそんな…私は顔見知り程度にしか思ってなかったのに…」
「あの場でようやく手に入れる事が出来ると思ったんです。なのに私の心も露知らず、殺してほしいやら大嫌いやら、言いたい放題でしたね」
「う…」
「挙句の果てには求婚を拒む始末で、あの時は本気でどうしようかと頭を抱えたものです。甘寧殿や凌統殿にどれだけ笑われた事か…」
「それは本当にごめんなさい…」

私の考え無しの行動が彼の矜持を傷つけたのだと安易に想像できる。思わず眉を垂らすと彼は困ったように笑って頭を撫でた。

「これから先も名前が私の妻として隣にいてくれるのであれば、許して上げますよ」
「…当り前じゃない」

というか彼の言うそれは全くもって罰じゃない。むしろ褒美だ。

「…名前」
「ん?」
「今でも、私が許せませんか?」

そう尋ねる彼の瞳は不安そうに揺れていた。それを知った上で私は頷いて言葉を続ける。

「…伯言には申し訳ないけど、この先ずっと生きている間は、貴方達孫呉を許す事はないと思う。劉備殿は私を救ってくれて目をかけてくださったのに、あの方を敗走させて、さらに裏切ったという事実は、いつまでも私の中で燻ってるの。それでも…私は、陸伯言の妻だから。夫が仕えるこの国に、そんな思いをいつまでも抱くのは失礼だとわかってるわ。だから、許す事は出来ないけど、命を救ってくれた事に感謝して…その…この国を、好きになる努力はしているつもりよ」

尚も不安げな表情を浮かべる愛しの人に抱きつく。私の居場所は血に塗れた戦場ではなくいつからか彼の腕の中になってしまった。けれどそれを居心地が良いと思っている自分がいることのほうが、衝撃は大きかった。

「私は今でも不安になるんです。貴女がいつ、蜀に戻ってしまうのか…いつか戻りたいと涙する日が来るのか、と。そんな事ばかり考えてしまうのです」
「蜀を懐かしむ心があったとしても、一度他国に降った私は、例え戻りたいとの思いが強くても、蜀に戻る事は二度とないわ。それに―――今はもう、愛する旦那様以外に望むものなんて何もないから」
「…全く、貴女は本当に私を困らせる天才ですね」

困った様に笑った彼はしかし次の瞬間、策が成功した時のような清々しい笑顔を見せた。気付けば抱き締める力が異常なまでに強い。ってあれ、強いっていうかこれ拘束されてる?

そう思った次の瞬間、私の足は地面から浮いていた。

「さて、そこまで言うのであれば早速貴女の愛を受け取らせて貰いますね」
「あの、ちょっと待って伯言、何で寝台に向かって」
「名前の本音も聞けたことですし、子作りに励むのも悪くは無いかと」
「待って嘘でしょ、今まだお昼なんだけど…!?」
「大丈夫です、今日は軍議もありませんから」
「そういう問題じゃないってば…!」