忠誠心と恋心


蜀の市井が一望できる小高い丘の上。腕を掴まれたまま、上質な緑の衣服を身に纏う少女が困った様に眉を寄せた。

「ねえ子龍、そろそろ離してほしいんだけど…」
「では、今後は絶対に城から逃げ出さないと約束できますか?」
「それは」
「ならば承知し兼ねます」
「…はあ」

返って来た答えに大きくため息をつく少女の名前は名前。劉備の娘であり、才色兼備と名高い蜀の有名人だ。そんな彼女を一瞬で黙らせたのは蜀が誇る五虎将軍の一人であり彼女の父の優秀な家臣、趙雲である。先程から同じ遣り取りを繰り返すものの一向に変化が見られない今の状況に名前からは再び溜息が洩れた。

「(もう、どうすればいいの…)」

心の中で呟きながら足元を見やるとそこにはぴくりとも動かない男たちが数人横たわっていた。最早同情してしまいそうな程の傷はただ一人の男によって負わされたものである。その原因である趙雲を見上げると彼は尚も厳しい顔で彼女を見ていた。胸の奥がチクリと痛むのを感じながら静かに口を開く。

「勝手に城を抜け出したのは謝るから…」
「名前様はこの前もそう仰っていました」
「でも、私ももう子供じゃないのよ?」
「余計に、です。貴女はもう少し殿の御息女という自覚をお持ちください。さっきだってこのような野蛮な輩に絡まれて…」
「だって」
「私が間に合わなければどうなっていたのか、名前様ならおわかりでしょう?」
「っ…」

押し黙る名前を見兼ねて趙雲が小さく息を吐く。

「お願いですから、これ以上心配させないで下さい。名前様に万が一の事があれば、私は」
「っ…それは、私が父上の娘だから?」
「え?」

思わず口走っていた言葉に趙雲の目が驚きに見開かれる。言った本人である名前も彼の反応に遅れて羞恥がせり上がって来るのを感じた。

「(ああ、私ってば何てことを)」

こんな台詞、絶対に誤解される。これじゃまるで私が“君主の娘”としてではなく”一人の女”として見てほしい、と言っているようなものじゃないか。

「(というかむしろここで肯定されたほうが傷つくと言うか何と言うか…)」

確かに彼は劉備の忠実な将だ。しかし幾ら忠実とはいえ、たかが君主の”娘”相手に過保護過ぎではないのか?と名前は悪態をつく。

「とにかく…私にばっかり構ってたら、折角のお話も破談になってしまうわ」
「!何故それを…」

誠実で誰にでも分け隔てなく優しくて、頼りがいがあって強くて。そんな彼が引く手数多なのは周知の事実である。
そしてつい最近「趙将軍が漸く身を固める決心をした」と、侍女たちから聞こえた噂に名前は涙が枯れる程に泣いた。まるで、今までの淡い恋心を諦めるかのように。そして今、その噂が本当であったのだと認めた彼に名前は目頭が熱くなるのを感じた。

「城の中じゃ有名な話よ?」

再び彼を見やれば掴まれた腕はそのままだった。そこから伝わる熱から今すぐにでも逃げ出したくなる。

「ですが、名前様が気に病むことは何も」
「もう幼子じゃないんだし、いい加減私を気にする必要なんてないわ。貴方が子守を命じられたのはまだ私が幼い頃の話なのよ?今はその任も解けたから…早く身を固めた方がいいんじゃないかしら」
「…私が名前様といたいから、では理由になりませんか?」

一瞬止まった息が喉の奥から乾いた音として外に漏れる。一体、何度こうして宥められたことか。

「子龍は、昔からそうやって私を煽てるのが上手だったわ」
「…侍女たちも困り果てておりました。名前様、何故…城を抜けられるのですか」

いつからか見慣れてしまった、彼の困ったような、それでいてどこか怒ったような顔。視線を彷徨わせていた名前は暫くすると諦めように溜息をついた。趙雲に背中を向けると長い髪を風に遊ばせながら目の前に広がる美しい街並みに視線を落とす。

「城に居ると、縁談の話ばかりなの」

ほんの一瞬、掴まれた腕に力が入った。彼女が大きく息を吸い込むと穏やかな風が二人の間をすり抜けていく。

「劉玄徳の娘として生まれた以上、この国の為にする事なんてわかってる。女だからそれくらいの事しか出来ないもの。だから、私一人の犠牲でこの国に住む人々が幸せになれるのであれば、両国の架け橋となる覚悟もできているわ。喜んでこの身を差しだすことだって…。頭ではそう理解しているのに…私の心が、それを拒んでいるの」
「…名前様には、意中の殿方でもいらっしゃるのですか?」

思わず弾かれたように趙雲を見上げる。彼を見つめる名前の瞳は困惑したように揺れていた。困った様に笑うその姿から彼女の気持ちが痛いほどに伝わってくる。

「本当に、子龍は何でもお見通しね」
「…名前様、私は」
「知っているわ。それ以上は言わないで」

彼が妻を迎えることも、その相手がとても綺麗で女性として、また妻として申し分ないことも。だからこそ私の気持ちに応えられないことも、何もかも。空いている手で反対側の腕を掴む。力を入れれば恐怖ではない何かで体が小さく震えている事に気がつく。

「私はこの世に生まれ落ちた瞬間から、周囲の理想通りに生きる人形だったのよ」

刹那、掴まれていた腕が勢いよく引かれる。思わず体勢を崩した名前が驚くも、ストンと収まった位置に目を瞬かせた。

「えっ、ちょ、子龍…!?」

逞しい胸の中で名前の頬に赤みが差す。予想もしなかった趙雲の行動に彼女は訳が分からないといった様子で見上げた。耳まで真っ赤に染める名前に思わず笑みを漏らした趙雲は穏やかに言葉を紡ぐ。

「名前様、ご存知ですか?」
「な、何を…?」
「貴女を娶りたいと名乗り出た、蜀の将を」
「…蜀の?」
「ご存じありませんか?」
「え、ええ…」

耳元でドクドクと煩い心臓の音を感じながら名前は硬直したまま彼の言葉に耳を傾けた。

「何でもその男は身分違いであると自覚していながら、日増しに美しくなられる姫様に心惹かれ、これまで護衛という肩書きを良い事に傍にいたらしいのです」
「え…?」

思いがけない言葉に名前の心臓が一際大きな音を立てる。

「しかし忠誠を誓った殿の娘にそのような感情を持つなど、褒められた行いではありません。あくまで自分は劉備殿に仕える身――そう言い聞かせて、何度もこの想いを諦めようとしました」
「…」
「ですが」
「っ、」

そっと壊れ物に触れるかのような手つきで無骨な指が頬を伝う。

「気が付けば、誰よりも愛おしい存在になっていました」
「子龍…」
「誰にも触れさせたくない、自分だけのものにしたい。…そんな欲望が生まれてきたのです」
「っ…」

政略結婚が当たり前の時代で純粋な恋が実るだなんて、一体誰が想像できただろうか。

「もし姫様さえよければ、もう一度お考えになってはいかがですか?」
「っ…そ、んなの、考えるまでもないでしょう…」
「後悔は、しませんか?」
「当り前じゃない…っ」

正妻だなんて夢でも無い限りそんなことあるわけないと思っていた。この想いが届く事は絶対にないと思っていたのに。名前の涙を掬った趙雲が、まるで騎士のように彼女の前に跪く。

「それでは名前様。この先一生かけて、私が貴方をお守りする事をお許しいただけますか?」