03
「やばいやばいやばいやばい」
空が薄暗くなり始めたことに気づき、慌ててお店までの道を走る。
背負っているギターがガタガタと揺れ非常に走りにくい。
お店を開けるまではもう少し時間はあるし、小さな子供でもないのでこの時間まで出歩くことには何の問題もない。
しかし私は先ほどまで海と遊んでいたせいで全身びしょ濡れだった。
これがだめだ。
ジョンさんは私を入水自殺志願者と勘違いしている節がある。
そのためこんなびしょ濡れな姿を見られてしまっては、最悪海に近寄らせてもらえないかもしれない。
「っはぁ、はあ…」
しんどい。
非常にしんどい。
心臓はばくばく激しく動き、足が上がらなくなってきた。
さらには目眩までしてきた。
部活にも入らず、だらだらとした生活を送ってきたツケだろうか、がくがくと震えている膝に手をつく。
「運動しよ……」
走っては歩き、歩いては走ってを繰り返し、お店に戻ってきたころには息も絶え絶えといった様相になっていた。
カチャリ、とできるだけ音を抑えながらドアを開ける。
店内は薄暗く、物音もしない。
「………まだ、帰ってない?」
それならば今のうち着替えるしかない。
さっとドアを開けて中に入った瞬間。
「海は楽しかったかな?」
「ぅひゃああああ!?」
ドアの死角から声をかけられて体が跳ねる。
走ってきたすぐ後にこの驚きで私の心臓は大変大暴れしている。
ジョンさんは腕組をして仁王立ちという、まさにこれからお説教します、といった雰囲気を醸し出している。
薄暗い店内ということもあって怖さ倍増である。
「ジョンさん…」
「おかえり。ずいぶん楽しんだようだねぇ?」
「あはは…楽しかったです…」
本当に私はごまかすということができないようだ。
馬鹿正直に感想を述べてどうする。
火に油か。いや、ここで下手な言い訳をしたところでいずれは破綻するし、ジョンさんも納得しないだろう。
うん、よし。正直な感想を述べることはいいことだ。
「ちょっとだけ遊ぶつもりだったんですけど…いつの間にか夢中になっちゃって。あ、でも深いところには行ってませんよ!」
深いところには行ってないが、深い海の上で遊んではいた。
これは黙っておく。
「………」
ジョンさんは黙ったままこちらを見つめている。
「あの、ジョンさんが心配するようなことは何も…」
してないような。だって、私が立っていたのは海の上だから。海の中じゃないから。
そもそも海の中で息ができる私にとって溺死などありえないのだ。
はあ、とジョンさんはこれ見よがしにため息をつく。
「まあ、いいよ。何もなかったんだね?」
「はい!全然!なにもなかったです!」
「じゃあ、着替えて、お店を開ける準備をしようか」
拍子抜けするくらいジョンさんは何も追及してこなかった。
怒られたりするよりはずっといいので、深く考えないでおく。
***
あれから服を着替えてお店の手伝いをした。
今日も何事もなく終わり、今は最後の店内掃除をしているところだ。
お店はだいたい夜6時から深夜2時まで営業している。
厳密に時間が決まっているわけではなく、ジョンさんの都合で変動するらしい。
ふんふんと鼻歌を歌いながら窓際の細かいほこりもとっていく。
今までジョンさんはこういう細かいところの掃除はほどほどに終わらせていたようだ。
長年積もっていた埃がきれいになっていくのは気持ちがいい。
自分の部屋の掃除はめんどうに感じるのに、教室のモップがけやこういう場所の掃除が楽しく感じるのはなぜだろうか。
「そういえばギターはやってみたの?」
「あ、はい。自画自賛ですけど、一日目にしては指が動くようになったと思います」
「いいねーその調子で頑張りなよ。曲が弾けるようになると楽しいよー」
ジョンさんはお客さんを相手にしているときは渋いバーの店主、といった雰囲気なのに、ギターやバンドの話になるとにっこにこになるのだ。私もうれしくなって質問をする。
「一曲弾けるようになるまでどのくらいかかりますかねー」
「毎日触ってれば2週間あれば十分じゃない?」
それはないだろ。
2週間で曲を弾けるようになる人なんているのだろうか。
いや、センスのある人が一日中触ってたら違うのだろうか。
有名人で一日でベースをマスターしたという人がいたような、いなかったような…。
ちょっとした疑問は心の中にしまっておく。
明日ギターの練習付き合ってくださいよーなんて返しながら埃を集める。
「そういえば、明日うちで雇ってる歌手がくるよ」
「歌手?」
「バーとかレストランでさ、歌ってる人とか見たことない?うちにもそういう人いるんだよ」
ナマエより一回りくらい年上の女性でね。結構人気でさ、その子目当てにうちに来る人もいるんだ。
そういいながらジョンさんはグラスを拭いている。
バーで歌っている歌手。
すぐに頭に浮かんだのは豚が紅い飛行機に乗るアニメ映画の女性だ。
元の世界でバーに行ったことなどないし、歌手がいるようなレストランにも入ったことがない。
高校生なんだからしかたない。
「本物は見たことないです。明日すっごく楽しみです!」
***
鳥の声とカーテンから差し込む光で目が覚めた。
時計は9時を指している。
昨日ジョンさんとたわいのない会話を楽しんだ後、建物の2階に上がった。
一階がバーで、2階が住居スペースになっているため、私たちはそこで生活しているのだ。
夕方に走ったせいかひどく疲れていた私はシャワーの後、髪の毛を乾かすこともほどほどに、ベッドに横になった。
そこから記憶が途切れている。
「髪の毛ひどいことになってる…」
手櫛で適当に髪を整え、洋服に着替える。
リビングに入ったがまだジョンさんは起きてきていないようだ。
「チラシたまってるなー…」
新聞やチラシが重なり合って一か所に固まっている。
床に座りこみ、バサバサと新聞とチラシを分けて、端をそろえていく。
「あ……」
ポートガス・D・エース
彼の手配書があった。
私が初めて見た手配書。
この世界がどこか分かったきっかけ。
「………」
私は今ワンピースの世界にいる。
エースの賞金額が1億にも満たないことから、原作開始よりも前の時期だと分かる。
彼は主人公ルフィの兄で、メラメラの実の能力者。
確か裏切ったもと仲間を追ってグランドラインを逆走しているところでルフィと再会したのだ。
そのあと原作でエースが再登場し、盛り上がりを見せていたのは知っている。
途中までしか原作を読んでいないので、再登場した時のことまではわからない。
だけど今私にとって大切なことは原作の流れではない。
私がエースを知っているという事実が大切なのだ。
この世界に来た日。
私は海の中で、ここが今まで生きてきた世界と全く別の世界だとわかった。
ゆらゆらと海の中を漂いながら、漠然と理解した。
この世界で私は独りだ。
親もいない、友達もいない。
私の常識はこの世界の常識ではない。
空気も、水も、何もかも今までと違う。
陸にあがってからは、とにかく生きなければならない、生きなければ元の世界に戻れないと強く思った。
そんな思いから、人の好さそうなジョンさんに縋りついたのだ。
生きていくために。
海からお店に行く道すがら、ジョンさんと話せば話すほど元の世界との繋がりなんてないように感じた。
笑顔でジョンさんと話すとは裏腹に、絶望感がどんどん胸の中に広がっていた。
暗い暗い海の底にどこまでも沈んでいくような感覚に陥る。
そんなとき、エースの手配書がジョンさんの手元から落ちて、
私は一気に目の前が明るくなった。
まったく繋がりがないようなこの世界で、一方的ではあるが知っている人がいた。
エースが生きている。
この事実と、私の持っているワンピースについての知識がこの世界と元の世界をつないでいるのだ。
理屈として通っていないかもしれない。
それでもー
私は暗い海の底から引っ張りあげられたような気がしたんだ。