06
ばちんっ
破裂音とともに左頬に痛みが走る。
私を叩いたキャシーさんは怒りでわなわなと震えている。
美人が怒ると迫力があるとはよく言ったものだ。
普段きらきらと輝いている彼女の猫目は今や怒りと悲しみの色に染まっている。
じんじんと痛む頬に手を当て、ぼんやりと彼女を見つめる。
彼女をここまで怒らせた原因は私であるため、しょうがないと思う反面、憧れの人に叩かれた衝撃は大きい。
彼女を怒らせるに原因は私が中途半端な覚悟で彼女の領域に入ってしまったことにある。
***
きっかけは私が気まぐれな提案をした日。
その日、バーには珍しくひどく荒れた様子のお客さんがいた。
長年付き合っていて、結婚も考えていた彼女に振られたとのことだった。
「お客さん…飲みすぎだよ、そろそろお水飲みなよ」
そういってお水の入ったグラスを置いたジョンさんに、
「もう少しだけいいじゃないか…俺、自分なりに彼女を大事にしてたつもりだったけど、最後に言われたんだ…彼女をないがしろにしすぎだって…」
暴れるわけでもなく、次々とお酒を煽っている。
全てを失ってしまったかのようにひどく悲しんでいる様を見ると、とてもじゃないが出て行ってもらうよう言えず、ジョンさんと私、さらにはお客さんすら彼をどう扱ってよいか悩んでいた。
そこで私はなんとかこの気まずい空気を変えたいと思い、ある提案をした。
「あー…なんか歌いましょうか?あんまり人様にお聞かせできるほどの腕前でも歌唱力でもないんですけど」
そしてこの提案にここぞとばかりに周囲の人間が食いついたのだ。
「おーナマエちゃん!弾き語りできるようになったんだ!聞いてあげるよー」
「まーだギター始めてすぐのやつが何言ってるんだよ、どうせ下手だろ。俺が指導してやるよ」
「下手な歌でさらに彼がないちゃったりしてー」
「ナマエのギター歴考えたらもう弾き語りできるなんてすごいことだよ!こんなやつのことなんか気にせずやってみ!今常連しかいないからさ!」
そうやってやんややんやと常連のお客さんに言われながらマイクとギターをセットする。
このときは本当に、ただ落ち込んだお客さんを慰めたいとか、この気まずい空気をなんとかしたいとしか考えていなかった。
これで私がなんとも言えないギターと歌を披露して、常連さんからの指導が入り、いつもの空気になると思っていた。
「えー…じゃあ、何歌いましょうか」
アップテンポの曲が良いのか、それともしっとりした曲が良いのか…
うーん、と考えたところで一つ歌詞が彼にぴったりのものがあった。
これを歌ったところで彼が元気になるかはわからない。
むしろさらに心の傷を抉ることになるかもしれない。
でも決めた。
この曲歌いたいから。
「Just a Dream、歌います」
元の曲はラップ調なので適当にアコギで弾けるようにアレンジする。
イントロを弾きながら息を吸う。
「彼女のことと、自分のことを考えてた
俺たちのことを、俺たちがどうなっていくのについて考えた
これからどうなるのか想像してた
でも目が覚めて気が付いたんだ、それがすべて夢だったことに」
練習もなく弾き始めたわりにちゃんと曲になっている。
一度曲になればあとはそれらしく聞こえるのがアコギの良いところだ。
ギターをかき鳴らしながら歌に集中する。
かわいい自慢の彼女が、将来自分のお嫁さんになると信じていたのに、彼女がほかの男を作って出て行ってしまった。
彼女のことが好きで好きでしょうがなかったけど、彼女に甘えて大事にできなかった自分が間違っていたんだ。
自分には彼女しかいないって知ってほしい。
だけど彼女はもう次に進むって決めたみたいだ。
本当に好きだった。
だけど今はそれもただの夢のように感じられる。
ジャーン、と最後の音を引いたところで顔を上げると皆が唖然とこちらを見ていることに気づいた。
歌い終わったのに誰も何も反応しないため、静寂がバーを包む。
「あの…終わりました…」
なんか、てっきり歌い終わったら野次や感想とともに拍手とかもらえるものだと思っていたけれど。
なんでこんなに静かなんだ。
そしてなんでそんな驚いたような顔をしてるんだみんな。
なんだがいたたまれなくなってまた下を向く。
調子に乗って歌まで披露するんじゃなかった…。
後悔と悲しい気持ちがじわりじわりと大きくなっていた時。
「う…うぅ…ひぐぅっ…!」
控えめに言ってすすり泣きなんてとてもじゃないが言えない嗚咽のようなものが聞こえてきた。
「え…」
声のほうを見れば失恋した男性が大粒の涙を流している。
しゃくりあげ、そのうち過呼吸を起こしてしまいそうな勢いで泣きじゃくっている。
「ちょっと…」
大丈夫ですか、と言いかけたところで目の前の席からも鼻をすする音が聞こえたのでそちらにも反応する。
「ズ…信じられねぇ…なんで、こんな…」
いつも私のギターに駄目だしばかりしている常連さんが泣いていた。
嫌味のような言葉ばかりを言いつつ、誰よりも私のギターについて親身になってくれているお客さんである。
よく見ると彼だけでなく、バーにいるお客さんの大半が涙を流している。
唖然とマイクの横に立ったままこの異様な光景を眺めているとジョンさんがこちらにすごい勢いで移動してきた。
「すごいよナマエ!なんてすばらしい才能を持っていたんだ!今までこんな歌は聞いたことがないよ!」
ジョンさんの賞賛を機にどっと皆から大きな拍手が上がる。
ジョンさんに肩を抱かれながら皆の感想を聞こうとするも、皆興奮して好き勝手感想を言っているためはっきりと聞き取れないが、とにかく私の歌を褒めてくれているようだ。
次々と賞賛の声がかけられる中、カウンターに座る男性の方を見る。
薄暗いバーでもはっきり見えた。
目を真っ赤に腫らしながら、それでも何か吹っ切れたような顔で笑みを浮かべ、拍手をしている彼の姿が。
その姿を見てなんとも言えない満足感に満たされた。
その日から時々私はお客さんの前で弾き語りをするようになった。
***
「ねえ!聞いてよ、今島に歌手のスカウトをしに有名なプロデューサーが来てるらしいの!」
キャシーさんがお店に入ってくるなり、カウンターにいるジョンさんと私に話しかけてきた。
「歌手のスカウト…ですか?キャシーさんはもう歌手なんですよね?そのプロデューサーはなんか特別なんですか?」
「あなた音楽の島は知ってる?音楽するなら知っておいた方がいいわよ。その島には音楽についてあらゆるものや情報、人が集まるの。
それでその島では5年に一度大きなコンテストが開かれるの。
そのコンテストは世界的に有名で、コンテストで有名になるイコール世界的に有名になるってことなの。
それで、そのコンテストに出られるのは何か月も前からやっているオーディションを勝ち抜くか、プロデューサーの推薦がある人だけなの」
「えーじゃあプロデューサーにコネがある人は有利ですね」
率直に意見を述べるとあなた何もわかってないわねという顔をされた。
美人はどんな顔をしても様になるのがずるいと思う。
「コネだってなんだって使ってでも出場したいのがこのコンテストよ!
私はオーディションをやっている島まで行く旅費が出せなくて諦めたけど、プロデューサーがこの島に来ているなら何としてでも知り合いたいわ!
こんなチャンスないもの!」
テンション高く語るキャシーさんを可愛いなあ、と思いながら見つめる。
最近お客さんの事情か、キャシーさんのお仕事が減ってきているようなのだ。
この島では随一の歌手であるし、夢を語るキャシーさんはきらきらしている。
是非ともそのプロデューサーとやらの目に留まって欲しいものである。
「そういえばナマエ?あなた最近弾き語りをするようになったらしいじゃない。
ここに出入りしてるお客さんから聞いたわよ。しかもべた褒め。
もうそんなにギター上達したのね」
「あ、はい。本当に最近のことですけど。そういえば私が歌うときはキャシーさんがいない時でしたね。
…まあキャシーさんのようなプロの歌手がいる前でとてもじゃないですけど披露するには気が引けるというか…」
弾き語りについて言及され、ごにょごにょと返事をする。
お客さんから私の歌は大変好評であるが、やはり歌手を前にして私も歌ってるんですとは言いづらい。
「だれだって最初は未熟なものよ。私もナマエの歌聞いてみたいわ。」
「いやいやいや、本当にお客さんの少ない時しか披露してないですし、プロの前でなんてとても…」
「何よ、私には聞かせたくないっていうの?」
「えー!いや、そんなつもりで言ったわけではなく…」
あわあわと困っていると、カランカランとお店のドアが開く音がした。
これ幸いと入ってきたお客さんに声をかける。
「いらっしゃいませー」
入ってきたお客さんはそのままするするとカウンター席に来て、
「適当にウイスキーとおつまみを」
というのですぐにお酒とおつまみのナッツをお客さんの前に置く。
白いシャツに薄いピンクのカーディガンを羽織、胸元で袖を縛っている。
いわゆるプロデューサー巻きといった着方だけど、まさか。
「実はここにいい歌手がいると聞いてきたんですよ」
おもむろにそのお客さんはジョンさんに話しかける。
「おや、お客さんいいタイミングで来ましたね。今日まさにその歌手が来ていますよ」
「そうなんですか!いやあ、ラッキーだなあ、私、実は今度音楽の島でやるコンテストに出場する歌手を探していましてね…
町でここにいい歌手がいると聞いたものですから」
まさに、さっきまで話していたプロデューサーだ。
思わずキャシーさんと目を合わせる。
キャシーさんの目はこれでもかというくらい輝きを放っている。
いそいそと歌う準備をはじめるキャシーさんを眺めながら、ジョンさんとプロデューサーさんの会話に耳を傾ける。
「どうしても歌手を見つけないといけない、というわけではないんですが、今年のオーディションを見る限りつまらなそうだなと思いまして。
こうしてわざわざ他の島まで足を延ばして逸材を探しているんです」
「つまらなそう…ですか」
「ええ、皆コンテストに出場する以上一流の腕を持っています。だけどそれだけなんです。何かが足りない。」
「それでこんな小さな島まで来られるとは、プロデューサーさんも大変ですね」
「私のコレは半分趣味のようなものです。ただ私はよい音楽に出会いたい。
それこそ体に衝撃が走るような。もうコンテストまで時間がないので、今日までに見つけられなかったら帰るつもりでした。
でもラッキーなことにこのお店にとても感動する歌声を持つ歌手がいると聞いて…噂通りだといいけれど」
ピアノの前に座ったキャシーさんが準備OKの合図を送り、それにうなずき返す。
それを受けて彼女は歌い始める。
いつ聞いてもキャシーさんの歌は良い。
会話しているときとは違い、少しハスキーな声がバーに響き渡る。
低いキーから高いキーまで彼女は安定して歌い上げる。
しっとりと歌い上げるとお店に拍手が鳴り響く。
彼の反応はどうだろうかと様子を伺うと、微笑み、頷きながら拍手をしている。
良い感触じゃないだろうか。
いそいそと戻ってきたキャシーさんが彼に話しかける。
「はじめまして、私キャサリンと言います。どうでしたか、私の歌は」
「はじめまして、どうやらあなたは知っているようだけれど、私はマイケル・ポール。
今度音楽の島で開催されるコンテストのプロデューサーをしている」
その挨拶はキャシーさんだけでなく、私とジョンさんにも向けられていたので簡単にお辞儀を返す。
彼は続けて話し始めた。
「あなたの歌はとても素晴らしかった。とてものびやかで、心に沁み渡るような歌声だった」
彼の講評に彼女の顔が明るくなる。
「私、コンテストに出たくて…でもオーディションに出られなかったの。もし、よかったら…」
そう言いかけた彼女をマイケルさんが人指し指を立ててさえぎる。
「君の歌は素晴らしい。だけど、君は私が求めている歌手ではなかった。
私が持つコンテストへのチケットは君にはあげられない。すまない」
歌を褒められ、一瞬でも期待した分、ショックも大きいのだろう。
彼女の顔は引きつったまま固まっている。
「それに私が町の噂で聞いた歌姫はギターを弾くんだ。ピアノじゃない」
その一言で傍観者と化していた私の心臓がドクリと音を立て、体が固まる。
キャシーさんとジョンさんが同時に私を見ると、その動きを見てポールさんもこちらを見る。
「君が噂の歌姫?」
縋るようにキャシーさんとジョンさんの顔を見るも、二人とも驚きで固まっている。
どうにか絞り出すように「いいえ」と答える。
「でも…ギターは弾くんだよね?指にタコができてるよ。」
さっと自分の指を隠すように握る。
この4か月、いやほぼ5か月になるが、毎日ギターを弾いているせいで私の指にはタコができていた。
「噂の歌姫はね、ギターの弾き語りをするらしい。そしてこのお店でしか歌っているところを見たことがないらしい。
彼女はタイミングよくこのお店に来ていると言ったけど、それはつまり他の場所でも活動しているんだろう?
そうすると彼女ではないんだろうなと最初から思っていた」
たたみかけるようにそう話す彼の目は鋭い。
周りをよく見ているし、情報収集能力も高いのだろう。
敏腕プロデューサーと言われるだけある。
「歌ってみてよ」
黙り込む私に声をかけたのはキャシーさんだった。
はっと彼女の顔をみると硬い表情でこちらを見ていた。
「でも…」
「私もあなたのこと聞いたって言ったでしょ。あなたの事を話す人は皆あなたの歌を絶賛してた。そこまで言われる歌を私も聞きたい」
真剣な顔でそんな風に言われてしまったら断れない。
私は黙ったままカウンター裏に置いてあるギターを手に取り、マイクの方へ向かう。
ギターを抱え、マイクの前に立つ。
ここで手を抜いて歌えばポールさんはキャシーさんをコンテストに推薦するのだろうか。
いや、彼ははっきり「彼女ではない」と言い切ってしまっていた。
ここで私が手を抜こうがキャシーさんはコンテストには出られない。
カウンターを見ると3人が真剣な表情でこちらを見ていた。
手を抜くとかそんなことを考えること自体間違っていた。
本気で歌ったところでポールさんが私の歌を気に入るともわからないし、今は真摯な対応をしよう。
そう思い、息を吐いてから歌い始めた。
歌い終わるとお客さんから大きな拍手が返ってきた。
お辞儀をし、カウンターに戻るなりポールさんに声をかけられる。
「君を探していた!僕が探していたのは君なんだ!僕と一緒に来てくれ!」
手を強く握られ、まくしたてられる。
本当に彼が探していたのは私だったのか、と驚いたけれどそれよりも私はキャシーさんの反応の方が気になった。
プロの歌手である彼女を差し置いて、こんなひよっこが敏腕プロデューサーに気に入られるなんて。
「悔しいけど…あなたの歌、素晴らしかったわ」
ポールさんになんの返事もしない私に対して彼女が声をかけてきた。
彼女の美しい顔は泣きそうに歪んでいる。
「そんな…私なんてひよっこで…キャシーさんの方がずっとずっと歌は上手です。歌の評価なんて、聞いた人の好みで左右されます」
「何を言うんだ。君の歌は素晴らしい!確かにギターや声の出し方の技術はまだまだ粗削りだ。
それを言うなら確かにキャサリンくんの方が断然歌はうまい」
私のとっさのフォローに口を挟んだのはキャシーさんではなくポールさんであった。
彼女の方が歌が上手いと言い切った彼に対して思わず反論する。
「キャシーさんの方が歌が上手いと認めるなら、なぜ彼女に一緒に行こうと言わないんですか。
ギターも歌の技術も未熟な私を連れていくよりずっと彼女の方がいいはずです」
「いい歌手とは、歌の上手い下手ではないんだよ。いかに歌に気持ちが込められるか、またその気持ちが観客に伝わるかどうかだ。
確かに君の技術はまだ未熟ではあるが、それは今後どうにでも伸びる。」
「だとしても…」
「君が彼女に気を遣っているようだからはっきり言わせてもらおう。彼女は歌はうまいがそれだけだ。
音符を正確に歌い上げているだけで、何一つこちらに気持ちが伝わってこない。
それに比べて君は声の出し方が若干不安定なところがあるが、人を感動させる歌い方ができる。」
あんまりな言い方に思わず絶句してしまった。
「なんてことを…」
「断言する。君がコンテストに出場すれば必ず入賞できる。もしかしたら優勝もありえるかもしれない。
敏腕プロデューサーと言われた僕が補償する。島への旅費も、島についてからの滞在費も気にしなくていい。僕が出す」
「待ってください、私コンテストに出るなんて考えてないです」
「ここまで彼に言われてなんでそんなことが言えるの!?」
キャシーさんがほぼ悲鳴に近い声を上げる。
彼女を見るとその顔は怒りに染まっていた。
「だってキャシーさんを差し置いて出るなんて…嫌です…」
「そんな事言ってる場合じゃないわよ。あなたコンテストに出ることがどれだけ名誉な事か分かってる?」
「名誉って言われても…そもそも私は本気で歌手になりたいなんて思って」
ない、と言いかけたそれは彼女のビンタで遮られた。
ここまでが私が彼女を怒らせた経緯である。
「あなた…どこまで私を馬鹿にしてるの?」
怒りに震える彼女に馬鹿になんてしてない、と言いたかったが私の言動は彼女を馬鹿にしている以外の何物でもなかった。
自分の歌が周囲に評価されていることを素直に受け止めず、下手なフォローをした結果彼女に恥をかかせた。
その上歌手として真剣に生きている彼女に向かって、自分はなんとなく歌っていただけで評価されただけだからと言い放ったのだ。
自分の最低さに気づき吐き気がした。
このやり取りでお店のお客さんもざわつき始める。
ざわざわとした声が大きくなるなかで、キャシーさんは言う。
「それで、あなたはどうしたいの」
私はどうしたいんだろう。
歌を歌うのは好きだけど、人前で歌うのはあまり好きじゃない。
だけどこんな騒ぎを起こしてしまって、今後ここで平穏に過ごせるのだろうか。
私は生きたい。
生きて元の世界に戻りたい。
だけど戻る手がかりが見つからなくて、もうここで生活していくしかないのかなって、そう思い始めていた。
歌手として有名になれば、何かしら情報が得られるかもしれない。
それこそ元の世界で有名な曲を歌えば、もし、元の世界の人間が私のほかにいるならば反応があるかもしれない。
ここまでを一瞬で考える。
私はどこまで打算的な人間なんだと心の中で笑う。
「私、ポールさんについていきます。それで歌手として有名になってみせます」
真摯な対応をしよう、なんてさっき歌いだすときは考えていたけど、一番真摯じゃないのは私だ。
「ジョンさん、短い間でしたけどお世話になりました。」
怒涛の展開に驚いているジョンさんに頭を下げる。
荷物をまとめてきます、と言ってその場を離れる。
荷物といっても私物なんで服と簡単なメイク道具以外ないので、カバンひとつにすぐまとめられた。
机の上に飾ってあったエースの手配書は一瞬持っていくか迷ったけれど、お守り替わりとして持っていくことにした。
お店に戻ってジョンさんとキャシーさんに向き合う。
「ジョンさん、改めて、今まで大変お世話になりました。最後がこんなお別れになってしまい大変申し訳ありません。
ジョンさんから頂いたご恩を何一つ返せないまま…。私、必ず有名になってみせます。そうしたらその時、今までかかった費用をお送りします。」
一息に言い切り、今度は横にいるキャシーさんの目を見つめる。
「キャシーさん。私あなたに憧れていました。綺麗で、歌が上手くて、あなたみたいに歌えたらって思ってました。
今更私に何を言われたって馬鹿にしているように聞こえるかもしれませんが」
キャシーさんは無表情で私を見つめている。
その瞳からは彼女が何を考えているのか読み取れない。
「ナマエ。」
言いたいことだけ言って荷物を持つ私をジョンさんが引き留めた。
「ナマエ。いきなりの展開で驚いたけど…君はいい歌手になれるよ。今までかかった費用なんて気にしないで。
逆に君がお店にいてくれたおかげで本当に助かってた。お客さんも喜んでいたし。」
そういって抱きしめてくれたジョンさんに思わず涙が滲む。
こんな突然やってきて、突然去ろうとしている人間にジョンさんはどこまで優しくしてくれるんだろう。
「体には気を付けて。また知り合いがいなくなってしまうけれど、ナマエはいい子だからきっとすぐに友人ができるよ。
今回みたいにね。…有名になって彼に気づいてもらえるといいね」
ジョンさんの指す彼とはエースの事だろう。
有名になったら彼と会えることもあるのだろうか。
想像もできないけれど。
最後にこちらからもぎゅっと抱きしめ返し、深々とお辞儀をしてポールさんとお店をでた。
こうしてあっという間に私の平穏な生活は幕を閉じたのである。