このひとときすら息苦しい


 趙国宰相・李牧が到着したことで、中の空気はより息苦しいものになる。
 改めて瑛藍は忌む相手である男を見やった。戦場で見た時よりも飄々とした態度だが、その内から滲み出るのはそんな生易しいものではなかった。

「(こんな猛々しい、武の雰囲気を出す奴が軍略家……? 笑えないっての…)」

 ピリピリとした空気を壊す最初の一声は、この騒動を引き起こした張本人であった。

「…いやはやしかし、少々強引な手を使ってしまったが…。ついに会えましたな、李牧宰相」
「お目にかかれてうれしく思います。呂不韋丞相」

 型通りの挨拶をした二人は、暫く視線を交わし合った後、互いに声を上げて笑った。
 しかし張り詰めた空気は変わらず、そのまま話の流れは邯鄲へ。呂不韋の口から出る話に相槌を打ちながら軽やかに返答する李牧だが、突き刺すような何かをここに入った時から感じていた。

 その何か・・を今すぐ確かめたかったが、今この呂不韋から一瞬でも目を離せば全て呑み込まれてしまう。それほどの大きさを李牧は感じ取っていた。

「………瑛藍」
「なに」
「殺気をしまえ。李牧にも気づかれているぞ」
「録鳴未こそ。鬼のような目つきをしてるくせに」
「二人とも頭を冷やせ」

 コソコソと録鳴未と言い合いをしていると、騰から静かなお叱りが降ってきた。はいはいとおざなりな返事をして瑛藍は深呼吸をすると、漏れ出していた殺気を内側に留めた。

「この話いつ終わんの?」
「口調」
「………この話っていつ終わるの」

 またもや咎められて言い直すと、「まだ本題にも入っていないぞ。もう少し我慢しろ」と言い方こそ棘があるが、瑛藍を気遣っている声色だった。こういう場に出席するのが初めての少女。できれば呂不韋陣営には目をつけられてほしくないのが正直なところだが。

 話の内容は邯鄲から李牧自身の話へ移る。あの王騎を策で殺した男は、辺境の地に戻り、仲間と共に土地を守り、家族を作って羊を飼って、ゆっくりと年をとっていく――などと、何とも平々凡々な生活を夢見ているらしい。

「はは…。ではそろそろ本題に入ろうか」

 (やっとかよ、このクソ野郎)心の中で悪態吐く瑛藍は、次の呂不韋の台詞に耳を疑った。

「やはり李牧殿にはここで死んでもらう」

 そんな気など全く無かったのに、あの男から発せられた台詞かと瑛藍は呂不韋を見た。しかし男は目を確と見開いたまま、口元には笑みが浮かんでいる。呂不韋は笑っているのではない――李牧を見極めているのだ。この状況をどう切り抜けるのか。

 不敵な表情を携える呂不韋に、李牧は「もちろん無策にここへとびこんでくるほど、度胸はありません」と返事をした。
 「我々が無事に帰れるよう、私は手土産を持参しました」李牧の手土産とは何か、秦国だけでなく彼の後ろに控える趙の者達も驚いている様子から見て、これは彼の独断なのだろう。唯一知らせていた部下に“手土産”を用意させる。現れたのは大きな地図だった。

「面白そうだ。だが、この手土産は当然そなたの首より重いものでなくては意味がないぞ」
「ええ、もちろん」

 さて、何が始まるのか。幾分か軽い気持ちで瑛藍は李牧の言葉を待った。

「では恐れながら、私はこれより、秦国の軍略家となって話をさせて頂きます」
「(………秦国うちの軍略家、ねぇ…)」

 しばらく語る李牧の話を聞いていくうちに、流れが奇妙なものへと変わっていくことにさすがの瑛藍も気がついた。中華全体の話から、秦がどの国を攻めるべきなのか。そこから始まった話だったはずなのに――。

「秦趙の間で同盟を結ぶということです」

 なぜ、同盟の話になるんだ。
 これに一番最初に怒気を見せたのが、隣に座る録鳴未だった。

「ふざけるなァ!! 何で俺達が貴様らなどと盟を結ばねばならんのだ、この下衆が!!」

 王騎の側近である録鳴未にとって、侮辱にも程がある話だった。

「茶番はもう十分だ。さっさと号令を下されよ、丞相。この録鳴未が一人でこ奴ら全員の首をたたき落としてみせる!」
「――うるさいなぁ」

 怒りに狂う録鳴未を遮ったのは、薄藍色の少女だった。――ここでようやく李牧は瑛藍を見て、そしてすぐに分かった。あの少女こそあの時・・・の者だと。
ならば彼女も王騎の側近であるはず。それなのに録鳴未を止める意図が、李牧にも分からなかった。

「今のが茶番に聞こえたのなら、さっさと出ていけ、録鳴未」
「何だと……!!」
「お前一人であいつらに――李牧に敵うって本気で思ってんの?」

 瑛藍の目は真っ直ぐ前だけを見据え、自分を見ていない。だが録鳴未には分かった。彼女が静かに怒っているのを。

「これ以上殿の――騰の顔に泥を塗るな」
「っ………」
「座れ、録鳴未」

 反論する気すら、もう起きなかった。録鳴未は力無くドスンッと座ると、深く息を吐き出して震える拳をぎゅっと強く握った。

「失礼致しました。話の続きをどうぞ」

 スッと微かに頭を下げると、呂不韋は「言いたいことを言われてしまったわ」と笑い飛ばした。瑛藍は再度深く頭を下げると、顔を上げ、背筋を伸ばす。そして彼女の紺藍色は李牧を射抜いた。
 一度交わる視線だが、呂不韋が話を再開したことでどちらからともなく逸らされる。けれど李牧は感じていた。今にも自分を包みそうな程の憎しみの炎を。

「まさか趙国側から同盟を持ちかけてこられるとは…」

 驚いたというが、呂不韋の声色に驚愕は含まれていなかった。ただ単にその感情を隠しているのか、それとも――。
 いや、ここであの男の感情を探っていたところで自分に分かるはずがない。一度頭を冷やそうと目を閉じた時だった。

「断る」

 まさかこれほど利益のある同盟を断るだなんて、いったい誰が思っただろうか。