対峙するのは人間か怪物か


 迷いなく断った呂不韋に、彼の陣営ですら耳を疑った。この話を持ってきた李牧も、ここへきて冷や汗を一筋流す。

「同盟を持って来た李牧殿はさすがとしか言いようがない。今、この時期に趙と盟を結ぶことは国に大きな利益を生む」

 しかし、と男は続けた。

「これを持って来た李牧という人間。やはり間違いなくそなたは趙国の唯一無二の宝だ。その李牧殿の首と今回の同盟の話の値踏みをしてみたところ――ほんのわずかだが、そなたの首の方が値が張ると儂は見た」

 黙って話を聞きながら、瑛藍は呂不韋がなぜあれほど大きく見えたのかが少しだけ分かった気がした。

 呂不韋は「だがごくわずかだ」と言うと、そのわずかの差を埋めるために城を一つ付けろと言い出した。これには両国共に驚き、思わず腰を上げてしまう。瑛藍はちらりと隣の騰を見れば、彼はこの状況にも関わらず飄々とした表情を崩さず、ただジッと座っていた。

 結果として李牧は呂不韋の申し出を値切る・・・ことが出来ず、趙南西部に位置する城・ 韓皋かんこうを明け渡した。
 ――これをもって秦趙同盟は成立したのだった。




 本殿での会合が終わると、場所は副殿に移った。瑛藍は来た時と同様に騰達と向かうと、入り口で武器を預けて中に入る。そこでは秦趙同盟を祝して、きらびやかな宴が催されることになった。

 品のある音楽に、豪勢に盛られた食事。普段目にしない豪奢な風景に、瑛藍の心も自然と踊る。ついて行った騰の隣に自分が、そしてその横に録鳴未が座る。先程のやり取りがあったからか、瑛藍は未だ録鳴未も目も合わせない。録鳴未自身今もなんとか我慢しているらしく、目が血走っていた。

 しかしそんな者は少なくない。文官も武官、どちらもピリピリとした雰囲気を醸し出していて、たった今同盟が結ばれたと言われても到底信じられなかった。

「ねえ、あいつ」
「ん? ……何してるんだ、あれは」
「さあ? 自分の座る場所を知らないんじゃない」

 瑛藍が指差したのは、信が呂不韋の席に座ったところだった。(バカだあいつ)と思いながら、盃に酒が満たされていくのを見ていると、信の目の前に李牧が現れた。突然現れた男に信は無意識に後ろへ下がり、腰元へ手をかける。その武器を取ろうとする姿に、李牧の側近であるカイネが目を鋭く細めて威嚇した。

「……やっぱりバカ」
「お前も変わらんだろう」
「今日はちょっと頑張ってるじゃん!」

 こんな時でも自分を揶揄ってくる騰に言い返していると、いつの間にか隣にいたはずの録鳴未が立ち上がっていた。

「下らん!!」

ビクッと肩を跳ねさせ、次いでまたかとでも言いたげな目で彼を見やる。さっき言ったことをもう忘れたのか。そんな瑛藍に気づかず、録鳴未はまたもやこの会合の場で吼えた。

「こんな宴に何の意味がある! 同盟など、どうせ二、三年で破られる代物だろうが!」
「……録鳴未」
「つき合ってられぬわ! 俺達は帰るぞ!」

 瑛藍の声すら耳に入らないらしい。止めに入った文官の胸倉を掴み、卓上の上に投げ捨てた。
 「……騰」「任せる」王騎の真似か、ココココ…と口では笑いながらもその目は笑っていない。一つ溜め息を落とすと、瑛藍は立ち上がって暴れる録鳴未に近づいた。その姿を遠くから李牧や信は見つけ、自然と目で追っていく。

「録鳴未」
「何―――」
「もういい加減黙れ、鬱陶しい」

 録鳴未に掴まれる前に顎下を的確に蹴り上げる。すると目を回した録鳴未はそのまま気を失い、倒れそうになる。その身体を難なく受け止めると、扉まで彼を引きずって近くの兵に「こいつ、外に放り出しといて」とまるで荷物のように渡した。

 元の席に戻ると、皆の注目を集めていることなどどうでもいいのか「城に帰ったらあいつ一回締める……」と不穏なことを呟きながら、盃を手に取った。

「もう飲んでもいいの?」
「あぁ。蒙武はもう飲んだぞ」
「はや! 何、あの人樽で飲んだの?」
「酒が尽きたから帰ったらしい」
「ふぅん……。てことは、飲んだら帰っていいってこと?」
「帰りたいのか?」
「そりゃあ……」

 目を李牧に向けると、彼は信と話をしていた。たった三百将の男と言えど、信はあの王騎から矛を受け取った人物。李牧にも彼の名と隊の名は耳に入っていたらしい。
 その二人を見ながら盃に入った酒を一気に飲み干すと、信の語りに耳を貸さずに立ち上がった。

「瑛藍?」
「ちょっと外の空気吸ってくる」
「腹は空いてないのか?」
「ここのご飯を食べるくらいなら、城のご飯食べるからいい」

 ひらひらと手を振って会合から出て行く。少し離れた廊下で立ち止まると、風が自分を包んでくれる。遠くから聞こえる喧騒を聞き流しながら、瑛藍は手摺りに片手を置いて眼前に広がる光景を見渡した。

 どれほどそうしていたのだろうか。少しずつ傾く陽に、そろそろ戻らないと騰にまた小言を言われると思って踵を返すと、そこにはカイネを連れた李牧がいた。全く気配すら感じなかった自分を盛大に心の中で罵倒しつつ、武器を構えようとした自分を必死に律した。

「……何の用でしょうか。宰相殿」

 口調口調、と繰り返し脳内で唱えながら尋ねる。

「――貴女ですよね。一年前の馬陽での戦の時、唯一我々を待っていたのは」

 一年前の馬陽。それは李牧の名を中華全土に知らしめるきっかけともなった戦でもあり、王騎が命を落とした戦でもあった。
 その際、王騎の感じ取った違和感の正体を掴んだ瑛藍は、王騎と鳳煖との一騎討ちを背に必ず来る敵側の援軍を待ち構えていたのだ。あの時のことを李牧は今でもすぐに思い出せるくらい、この少女に会いたかった。

「あの時わたしが待っていたのは、全部殿が感じた違和感を“本当”にするため。わたしの存在が貴方を――お前を翻弄したのなら、それはわたしじゃなくて殿がそうさせたんだよ」

 自分を射抜く瞳は、ただただ美しかった。

「殿の感じる違和感が、ただの勘違いなわけがなかった。隠れた存在は必ずいると思ったから」
「それは何故ですか?」
「だって――わたしがそうだったから」

 現にお前は知らなかったでしょう?
 そう言って笑う少女に、李牧は目が離せなかった。

 なぜかずっと会いたくて、話したかった。それほどまでにあの戦場で、あの台詞で、強烈なインパクトを与えられたから。

「……貴女は、残念に思わなかったんですか? ここで私が死ななくて」
「はぁ?」
「貴女が諌めていたあの武官の言うことも一理ありますよね。今回の同盟だって、所詮二、三年のものだって。その間貴女達はわたしを殺すことはできない。王騎軍に属している貴女にとって、今はわたしを殺す絶好のチャンスなのに、それが出来ないなんて――」
「馬鹿にしないでくれる」

 李牧の言葉を遮った瑛藍。その表情に変化はなかったが、声色には怒気が孕んでいた。

「殿を殺したお前が、こんなところで死ぬわけがない」

 奇しくもそれは、信が吐いた台詞と似ていた。

「どれだけ過去に戻ったって、きっと殿は何度だってあの選択を取るし、わたしだってきっと同じ行動をする」

 だって、彼は死ぬ間際まで――自分の選択に後悔していなかったから。

「そしてこの場に殿がいたら、きっとこう言うはず」

 強い風が吹いて、薄藍色の髪を空に巻き上げる。露わになった彼女の風貌に、李牧も、そして後ろに控えるカイネもぞくりとした“何か”を感じた。

「お前と決着をつけるのは、戦場いくさばだって」

 呂不韋に抱いた思いを、この少女にも抱いた。――身長も低く、見た目は小さい印象を受けるのに。

 この少女は、王騎に引けを取らないくらい大きかった。

「……貴女の名前は?」
「――自分で探れば? そういう役職でしょう」
「貴様っ! せっかく李牧様が聞いてやってるのに!」
「別に、わたしはお前達に知られたくないもの」

 ここで信なら高々と自分の名を口にしたことだろう。いや、つい先程宣言までしていたのだ。
 こういうところも普通の武将とは違うなと苦笑しながら、李牧は「では、」と話を続ける。

「次に戦場に会った時は、貴女の名前を呼ばせてもらうとしましょう」
「あっそ。別にわたしはお前の名前なんて呼ばないけどね」

 それきり話は終わりだと、李牧とカイネの横を通って会合の場へ戻る。しかし何を思ったのか、一度くるりと二人に振り返った。

「お前が何を抱えて、何を思って趙の宰相なんてしているのかは知らないけど――お前の首は必ずわたしが獲る。それまでその首、大事に守っていてよね」

 瑛藍としては、王騎に『首を獲って戻ってくる』と言ったことを実現させようと思って吐いた言葉だった。だが李牧は――。

「…ふ、ふふ」
「り、李牧様?」
「ちょっと、何笑って……」
「――えぇ、はい。待っています。貴女がこの李牧の前に現れるのを」

 その嘘偽りのない笑みの裏に隠された想いとは。いくら考えたって分かるはずもなく、瑛藍はそれ以上何も言わずに騰の元へ戻った。
 その場に残った李牧は、カイネの窺うような視線を感じながらもどこか満ち足りた気分だった。彼女ならば、本当に。

「……あの女が気になるんですか? 李牧様」
「そうですね……」

 ――とても彼女が欲しくなりました。
 普段欲を言わない李牧にそこまで言わせるとは。カイネは半ば信じられない気持ちで、消えた瑛藍の後を目で追いかけた。


 宴はぎこちないながらもそれなりの盛り上がりを見せて、終盤、人質の春平君の話になった。春平君を連れて帰らねばならぬ趙側に対し、呂不韋の配下が「では、韓皋をもらい受けるまで別の人質を」と発言。よって、平都候へいとこうという趙国財界の大物が身代わりに人質になることになった。

 かくして、今回の一連の騒動は――一滴の血も流すことなく決着したのである。