飛ぶための翼を磨いていた


 ――始皇四年。
 王騎の死から一年の月日が流れていた。前線各地では相変わらず激しい戦いが続いている。
中でも一際躍動する場所があった。――飛信隊だ。彼らの活躍は王騎の城にいる瑛藍の耳にまで届いていた。

「あれから一年、か……。どれくらい強くなったんだろう――飛信隊」

 どの軍にも直属せず、援軍扱いで戦場を駆け回っているらしい。その功績もあってか、飛信隊は三百人にまで増強された。

「瑛藍」
「騰。どうしたの?」

 王騎軍を任された騰は以前より忙しい身分らしいが、もともとそこまで前線に行っていた訳ではないため、あまり戦に赴く事はない。そんな彼だが、こうしてわざわざ自分に会いにこの高台に来ることは滅多になかった。
 彼自身高台に来たのは久しぶりらしく、ぐるりと城下を見渡してからすぐに本題を告げた。

「趙の宰相が、ここに来朝するようだ」
「……趙?」

 その国の名は忌まわしい記憶と共に瑛藍の脳内に色濃く残っていた。訝しげに眉を顰めた少女に、騰は一度こくりと頷き、

「趙の今の宰相は――李牧だ」

 因縁とも言える名を口にした。

「どうして急に秦に……」
「呂不韋」
「ハ?」
「あの男がこの騒動を引き起こした張本人だ」

 ここであの丞相の名を聞くことになるとは思わなかった瑛藍は、ぽかんと呆けた顔を晒した。自分と呂不韋の初対面と言えば、一年前の馬陽防衛戦の際に正殿へ赴いた時だ。あの時は皆が王騎の存在に驚いて自分のことなど一瞬で終わってしまったが、あの戦が終わった後、瑛藍は一度正殿に呼ばれていたのだ。
 あの李牧の存在を早々に察知したことや、たった一人で遊軍を相手にしたことなど、その他もろもろが讃えられたのである。

 初めは断ろうとしていた瑛藍だが、それを騰が止めた。お前にとっては不名誉なことかもしれないが、ここで位の一つでも取っておかないとお前の目指す目標など程遠いぞ、と。
その挑発的な台詞もあってか、瑛藍は三千の将にまで地位を上げた。

 しかしこの一年間戦にも出ず、ひたすらこの地で修行を重ねていた瑛藍にとって、大王はおろか呂不韋のこと――両陣営が争っていることさえも知らずにいた。
 もちろんそれをよく知っている騰は、馬鹿にしたような目で少女を見下し、けれど面白そうに「王宮へ行くか?」と尋ねた。

 その時の瑛藍の表情といったら。思い出しただけで騰は暫く笑っていた。



「人質ぃ!?」
「趙王の寵愛を受ける、春平君しゅんぺいくんという者を呂不韋が拉致したらしい。そして趙王に脅迫し、宰相が迎えに来るという流れになったそうだ」
「ふぅん……。呂不韋ってやつ、相当頭が切れるんだね」
「でないと丞相にはなれんだろう」

 軍隊長を連れて、騰と瑛藍は正殿へ馬を走らせる。見えてきた大きな建物を前に、騰は城を出る前に再三口にした約束事を今一度伝える。

「いいか、大王や呂不韋の前では――」
「口の利き方に気をつけろ、でしょう? 嫌ってほど聞いたから分かってるってば」

 げんなりとした顔を隠すことなく見せる瑛藍に、本当に大丈夫かと少し不安になる騰。だがいざとなれば自分が止めればいいだけの話だと思い直すと、馬房の側で馬を止めて労わるように軽くポンポンと背を叩いた後、中へ入れる。瑛藍も「また後でね」と愛馬に声を掛けると、軽く身なりを整えた。

「李牧を前にして暴走するなよ、瑛藍」
「うるさいなあ。それを言うなら録鳴未にでしょ。殺気が漏れてる」
「フン。俺はお前のように我を忘れたりせぬわ」
「あ?」
「それをやめろと言っているんだ……」

 隆国の呆れた声に「はいはい分かりましたよ!」と投げやりに返事をしながら、歩き始めた騰に着いて行く。長い階段に足をかけた彼の横に並び、ちらりと顔を見上げた。そこには口元だけ弧を描いた表情があった。
 もう軽口を言い合うつもりはないらしい。すぐに悟った瑛藍もすぐに口を閉じる。すると階段の中程に見知った顔を見つけた。

「(あれって……飛信隊の信だ。それに副将の……確か蚩尤の女。何であの二人までここに?)」

 うん? と首を傾げたが、すぐにどうでもいいかと考えることを早々にやめる。向こうも自分達に気づいたようで、「騰と瑛藍、それから軍長達!!」と声を上げたが、全く反応を示さずに通り過ぎた。
 重厚な扉を開いて中へ入ると、既に空気はピンと張り詰めていた。重苦しい雰囲気だが瑛藍は呑まれることなく進み、決められた定位置で止まる。

「ねえ、騰」
「何だ」
「さっきした約束事だけどさ。――李牧の前では無理かもしれない」

 先程隆国にからかわれた時は投げやりに返したが、この部屋に足を踏み入れた瞬間から笑い事ではなくなってきたと自覚した瑛藍。そう言われて騰が隣の彼女を見れば、静かに佇む瞳の奥に隠しきれない憤怒があった。

「……責任はこの私が持つ。好きにしろ」
「――ありがとう、騰」


 そして、その時はやって来る。