繋がるえにしに絡め取られ


 秦趙同盟が結ばれてから数日。宣言通り録鳴未を徹底的に叩いたり、軍長達と演習に行ったりと充実した毎日を送っていた瑛藍だが、彼女は今手元にある木簡を首を傾げながら見ていた。

「何、これ」
「遣いを頼みたい」
「わたしに?」
「あぁ」

 相変わらず自分よりも圧倒的に背の高い騰を見上げると、「本当は隆国あたりに頼む予定だったが……」と呟く。その続きは言われなくても想像がついた。

「昨日の組み合いでもろにやっちゃってたもんね、足」
「……そんなわけで、お前に頼みに来たんだ」
「まあいいけど。録鳴未……は、前の騒動があるから暫くは出禁になっちゃったしね」

 先日の同盟で盛大に場を乱した録鳴未。彼は暫く正殿へ入ることを禁じられたのだ。今一度木簡に目を落として「分かったよ」と頷くと、誰に届ければいいのか尋ねた。

「…………、」
「………、騰?」
「昌平君」
「し……、?」
「昌平君。――呂不韋四柱の一人だ」







 一人馬に乗って言われた通りの道を辿っていくと、王宮並の立派な建物が聳え立っているのを遠目に確認出来た。近くにあった馬房に馬を預け、階段下にいる兵士に木簡を見せる。念入りに確認された後、やっと中に入ることを許された。

「殿にお取り継ぎ致しますので、しばしお待ち下さい」
「はい」

 長い廊下を歩いていると、ある大きな扉の前で一人ぽつんと残される。耳が痛くなるほどの静寂かと思われたが、微かに言い争う声が扉の向こうから聞こえて来た。何の話し合いをしているんだろう? 少し興味を持った瑛藍が扉に一歩近づこうとした時、ぴたりと閉じられた扉がゆっくりと音を立てながら開いた。

「どうぞ、お入りを」

 ムワッとした熱気が一気に襲ってきた。中には大人数の男が白熱した討論をしていたらしく、瑛藍の姿を認めると重圧感のある眼差しを向けた。
 しかしそれでも一切怯まない瑛藍は、一礼して遠慮なく中へ入る。背後で扉の閉まる音が聞こえた。

「突然申し訳ありません。王騎軍の騰より遣いを頼まれました、瑛藍です。本来は別の者を寄越すつもりだったのですが、都合上わたしが代理としてやって参りました」

 普段使わない敬語を使っているせいで、舌が回らない。危うく噛みそうになるのを何とか抑えつつもう一度頭を下げると、「其方……」と自分を指す台詞が聞こえてゆっくりと頭を上げる。すると奥の上座に座る三人の男のうち、真ん中に座る黒い長髪の男と目が合った。

「王騎将軍が連れてきていた……」
「……ああ! 殿を総大将に推薦した人! え、もしかして――…」

 昌平君の正体がやっと分かった瑛藍は、詳しい情報を一切教えてくれなかった騰にふつふつと怒りが湧いた。あの日のことを言ってくれればいくら情勢に疎い自分だって思い出したはずなのに。

「貴女は……!」
「はい? って……あれ? あの時李牧達に捕まってた人だ」

 昌平君の隣にいた少年は、馬陽での戦いの際、山奥にあった塔で縄で縛られていた人だった。自分が意識していないところで繋がっていた縁に内心驚きながら、とりあえず持っている木簡を昌平君に渡そうと瑛藍はやっと脚を進める。すると突き刺すような視線が自分を襲った。

「(……………)」

 けれど瑛藍は一切気にせず、上座に座る昌平君に木簡を差し出す。無言で受け取った昌平君は、きゅっと結ばれた紐を解いて目を通すと、目を閉じて「あい分かった、と伝えてくれ」と告げた。

「それでは、」
「瑛藍、と言ったな」
「はい」
「まだ時間はある。しばらく見ていけ」
「はい…………は?」

 今何と? 目をぱちくりとさせて何言ってんだコイツと思っていると、「騰からの木簡に書いてあった」とサラッと言われてさらに怒りが募る。何勝手にしてくれてんだあの男……!

 結局この場に残ることになってしまった瑛藍。再開された会議に手持ち無沙汰でぐるりと部屋を見渡していると、あの塔でもう一人縛られていた者を発見した。男のような格好をしているが、あれはどう見ても女だ。なんであんな不思議な格好をしているんだろうと思いながら、そろっと近づく。

「――で、この場合どうすればいいか分かるかい? 河了貂」
「えーーっと、ここは……」
「この場合、敵が後ろ側から挟み撃ちをしてくる可能性も考えられるから、左軍を後ろに回して本陣を囮にしたら、突然の援軍が来てもすぐに対処出来るんじゃない?」

 つい口を挟んでしまうと、一気に視線が此方を向く。当の本人は「でも本陣を囮にするのは危険度も高いからなぁ…。この場合最初の突撃を左軍にして、別働隊を使う手も有りかも」と考えを広げている。

「お前………」
「あ、ごめん。口挟んじゃった。お前ってあの時塔に居たよね?」
「え、あ、うんっ! えっと…オレは河了貂! よろしくな!」
「そう。軍師になるの?」
「う、うん……。オレ、アイツと一緒に戦いたくて」
「アイツ?」
「飛信隊の信って奴。知ってる?」
「あぁ、アイツかぁ」

 勿論、瑛藍はその名をよく知っていた。けれど特別語ることはせず、そのまま河了貂と途中で入ってきた蒙毅と話を続けた。

「それにしても、よく今の一瞬でここまで策を考えられましたね」
「まあ……戦に出れない分、殿からいつも教わってたから」
「あの王騎将軍から!? すごい……」

 彼女の軍略は王騎仕込みだ。まざまざと見せつけられたそれに、この場にいる軍略家達は皆彼女を見る目が変わった。今の今まで黙っていた蔡沢も、独特の笑みを浮かべる。

「どれ、こっちへ来なさい」
「……? はい…」

 楽しく談笑していた瑛藍は、初めて見る歳を重ねたおじいさんのような男に呼ばれ、首を傾げながらまた上座へ近づく。

「儂の名を知っておるかの?」
「………えーーっと」
「ヒョヒョヒョ! 王騎から聞いておらんのか?」

 蔡沢じゃ、と言われ、瑛藍は「あー! 聞いたことあります!」と大きく頷いた。王騎から軍略とともに各国の要人の名前は聞いていたのだが、普段出歩くことの少ない彼女は名前と顔が一致しないまま。しかし“蔡沢”という名は、王騎からよく聞いていた。

「まさか騰があの秘蔵っ子を送り込んでくるとは……」
「秘蔵っ子?」
「なんじゃ、知らんのか? あの王騎がひたすらに隠した狗――秦だけでなく、今や各国も皆お前さんの存在を気にかけておるぞィ」
「ふうん?」

 きょとりと紺藍色の瞳を瞬かせる。

「別に、わたしは気にされようが何されようが、どうでもいいけどね」

 心の底からの想いに、さすがの蔡沢も笑いを堪えられなかった。

「ヒョヒョヒョ、そうかそうか」
「………?」

 蔡沢が何を言いたかったのか、結局何も分からずじまいだが、その後は世間話を繰り広げる老人に瑛藍も渋々付き合い、気がつけばどっぷりと日が暮れていた。白熱していた討論も次第に熱を冷まし、一人、また一人と部屋から出て行く。その誰もが覇気を失った顔色で、瑛藍は気の毒そうに彼らを見送った。

「それでは、わたしもそろそろ城に帰りますね」
「そうじゃのう。――ほれ、お前も黙っておらんと何か言ってやれ」

 長い時間、ひたすら蔡沢と茶を飲みながら世間話を続けていた瑛藍。横に座る昌平君は話に寄らず、ひたすら生徒に指導をしていたのだ。
 蔡沢に促され、数時間ぶりに目が合った二人。何を言われるんだろうと思っていると、「――お前は、」とゆっくり口を開いた。

「お前は、何故あの会合の場でああも冷静にいられた?」
「……そう見えたのなら、わたしの勝ちですかね」
「?」
「実際あの時のわたしは、あの李牧を殺したくて殺したくて堪らなかった。わたしから殿を奪ったあの男の首を討ちたかった」

 それでも、それを擦り切れそうな理性が押しとどめたのだ。今ここであの男を殺して、それでどうなる? 王騎が帰ってくるのか? ――否、彼は帰ってこない。

「それに秦と趙の同盟は、秦側にとっても大きな利益をもたらす。録鳴未は頭に血が上って『茶番』と吐き捨てたけど、わたしはそうは思わなかった」

 けれど、と言葉をさらに重ねる。

「録鳴未の言う通り、二、三年後にはきっとその同盟も破られる。その時李牧の刃はきっとこちらに向かってくるのは予測できる事態。――そうしてわたしは、あの男の首を堂々と討ち取れる」

 爛々と輝く紺藍が、昌平君を射抜く。その奥に潜む焼けるほどの炎に、彼はやっと気がついた。
 あの会合の場も、冷静でいた訳ではなかった。冷静であの炎を隠していただけだった。

「それまでに、秦国内の争いは極力減らしてて下さいね。くだらない争いで周辺国の動きに気がつくのが遅れた――なんて、一番最悪ですから」

 ここ一番の皮肉に、蔡沢も昌平君も、そして側で聞いていた蒙毅や河了貂までもが言葉が出なかった。今大王側と呂不韋側での水面下の争いを『くだらない』の一言で片付けるとは思わなかったからだ。
 言いたいことを言い終えた瑛藍は、そんな彼らを置いて「それでは木簡、確かにお渡し致しました」と言うと、さっさと部屋を後にした。

 その後、昌平君に誘われて度々彼の軍師学校に足を運ぶことになるとは、この時はまだ知らなかった。