開戦の準備は静かにあった


 山陽が平定され、その名は秦国の“東郡”と改変された。その頃には瑛藍も軍師学校へ足を運ぶことも減り、毎日の修練に励む毎日を送っていた。ある日戦場へ送り込まれた河了貂や蒙毅のことをたまに思い出しながら、今日も一日を終える前に高台へ登って城下を見渡す。

「そういえば、飛信隊の軍師になったって蒙毅が言ってたっけ」

 その蒙毅も、今は蒙恬の側にいるらしいのだが。
 ゴロンとその場で横になって、天井を見上げる。そっと目を閉じると、まだ酒を飲んでいる男達の声がここまで聞こえてきた。

「そろそろ風邪を引くぞ、莫迦」
「うるさいなあ、もう戻る予定でしたぁ」

 急に降ってきた声に驚きもせず、瑛藍は床から背を離して起き上がる。そこには予想通りとでも言うべきか、騰が此方を見下ろしていた。

「何かあった?」
「どうしてそう思う?」
「変な顔してるから」

 ぐんと伸びをしながら立ち上がると、柵を背に騰と身体ごと顔を合わせる。王騎が死んで三年が経ったが、目の前の少女は大きく成長したと騰は感じていた。

「殿が秦軍本営とは別の、独自の情報網を持っていたことは知っているな?」
「もちろん。それを騰が引き継いでることもね」
「なら話は早い」
「?」

 ゆるりと首を傾げれば、騰は「東金に行ってきてくれ」と言った。

「東金? あぁ、趙と楚、それから魏……だっけ」
「知っていたのか」
「さっきのご飯どきにその話してたの騰でしょ! 流石に覚えてる!」

 莫迦にしたような物言いにダンダンと足踏みする。そういうところは変わっていないなと思いながら、明日行って欲しいと告げた。

「急だね」
「録鳴未と干央にも言ってある」
「ふぅん……。東金って確か飛信隊と楽華隊もいたよね」
「あぁ。特に飛信隊の信にはよく話を聞いてこい」
「もう一ヶ月前になるのか……。李牧が楚と密会してたところを、飛信隊が見つけたのは」

 その情報は瞬く間に秦国内に広がり、警戒の色を強めた。かくいう騰も引き継いだ情報網で探りを入れつつ、周囲への牽制も図ってきた。

「頼んだぞ、瑛藍」
「頼まれた」

 ゴツンと力強く拳を合わせる。そんな二人を夜空に浮かぶ星々が見守っていた。







 馬を走らせること数時間、やっと東の前線基地・東金城に着いた。しかし瑛藍達は城内には入らず、そのまま東の山中に潜り込む。

「ここら辺でいいかな」
「あぁ。先程飛信隊の信を呼びに行かせた」
「わたし達を敵軍だと思わないかが心配だわ」
「………あり得る」
「でしょ」

 干央の同調に頷きながら待つこと数刻。やっといくつもの馬の足音が聞こえてきた。
 茂みの奥から姿を現したのは待っていた男で、瑛藍は構えていた姿勢を直して信と目を合わせる。

「ろっ録鳴未! 瑛藍、それに干央軍長!!」
「あっはは! 録鳴未、お前は軍長って呼ばれないんだね」
「………………、」
「顔こわっ。あれ、蒙恬もここに居たんだね」
「瑛藍!」

 信の他に蒙恬の姿も見つけ、瑛藍はいつぞやのように軽く手を振る。その一連の流れを信はガーンと軽くショックを受けながら見ていた。

「おい瑛藍!」
「うわっ、何」
「何でアイツは名前で呼んで、俺のことは呼ばねぇんだよ!」
「だって、お前が活躍してるところをあまりこの目で見たことないもの」
「じっじゃあ蒙恬とはどういう知り合いだ!? アイツだってずっと戦場に居たのに!」
「蒙恬とは別で知り合ったの」

 山陽平定戦での信の活躍は聞いているが、実際自分の目で見たわけではない。だから瑛藍は未だ信の名を呼んでいなかった。

「瑛藍」
「分かってるってば」
「そうだ、なんでお前らがこんなところに……。配属になったのか?」
「バカを言え。我々は趙・楚・魏一帯を探っていたのだ」

 このまま瑛藍に任せていては一向に話が進まないと、録鳴未はずいっと前に出てここに来た目的を話す。その横で馬に乗ったまま遠くを見つめた瑛藍は、信が李牧と楚の密会の様子、そしてその後の李牧の言動を覚えている限り詳しく話しているのを聞きながら、強く手のひらを握りしめた。

「――悪巧み?」

 ふと何かが引っかかったのか、今まで黙って聞いていた瑛藍がぽつりと呟いた。しかしその呟きが聞こえたのは蒙恬だけで、他の者は信の話に耳を傾けている。
 蒙恬は顎に手を当てて何かを考えている瑛藍をじっと見つめ、その姿を見守った。果たして今彼女は、一体何を考えているのか。

 信が全てを話し終えた後、シンとした静けさが辺りを包んだ。誰もがその沈黙を守る中、「――河了貂は、」と女の声が澄み渡る。

「最悪の事態を“楚趙同盟”だと思ったんだよね」
「あ、うん……」
「そして李牧は『重要なのは同盟自体ではなく、“目的”と“結果”』だと。そして『戦争の本当の恐ろしさを分かっていない』とも言っていた。――合ってる?」
「合ってるけど、それの意味が分かったのか!?」

食い気味に尋ねる河了貂に「完全に分かったわけではない、けど……」と少し言葉を濁す。

「趙が楚と盟を結ぶことで、その目的は恐らく“秦”。そしてその結果によって、次の目的とは一体何なのか…」

 ブツブツと考えを口に出してみたが、全く纏まらない。やがて「あーだめだ! 無理! やっぱり人伝に聞いただけじゃ分からん!」と頭を掻きむしった。

「ま、有益な情報をありがとう。これでまだ対策取れるよ。ね、録鳴未、干央」
「あぁ。早く騰様に知らせねば」
「ではな、信。――騰様は、王騎殿を失った馬陽以上の嵐が起きようとしていると思っているぞ」
「なっ………!」

 馬陽以上の嵐…!? 信が驚いている間に、瑛藍達はこの場から速やかに去った。


「どう見る、瑛藍」
「……本当にまだ憶測の域を出ないけど――多分、楚趙同盟だけじゃない」



 ――数日後。

 秦が楚との国境に築いた延々と連なる防衛壁・南虎塁。これは正に、秦の楚軍に対する“恐怖”の現れである。
 しかしこう構えられると、楚軍も安易に手を出すわけにはいかない。越えれば即大戦となる南虎塁に、楚軍は絶対・・に近づかないのである。
 ――だが。

 「………ついに来たか」高い崖から南虎塁を見下ろす騰は、眼前に広がる光景を見て呟いた。

 そう、そこには“楚”の旗を掲げた大軍が迫っていた。――絶対・・に近づかない、という安全神話は、今ここで突然叩き壊されたのだ。

「楚だァ!! 楚が攻めて来たぞォォ!!」

 始皇六年(紀元前241年)。

 この年の大戦は秦国奥深く・・・・・で行われるのである。