用意された地獄へようこそ


 ドドドド、と馬の足音が鈍く地響きを鳴らす。それぞれの武器を手に、彼らはただひたすらに戦場を走る。

「南虎塁が抜かれてひたすら北上してるってことは、今頃野仙やせんまで来てるかな」
「ああ。そろそろ敵の姿が見える頃だろう。飛ばすぞ」
「了解!」

 騰、瑛藍、同金、鱗坊――王騎残党軍、もとい騰軍――は、五千の兵を引き連れてただ走る。そして騰の予想通り、砂塵が舞い上がる先には楚軍第一軍がすぐそこまで迫っていた。

「瑛藍、同金、鱗坊。この南部防衛は一刻を争う状況だ。――故に一刻かせぐは大きな益を生む」
「分かってる」
「「ハ!」」

 「行くぞ」騰の静かな激が、士気を高めた。


 五千と五万。どちらが有利かと言われれば、皆が口を揃えて『五万』と言うだろう。無謀だと蔑まれるだろう。だが引けなかった。
 ここで自分達が行かなければ、南部防衛に配置されていた蒙武と張唐の軍が間に合わない。それはつまり、この南部を素通りさせることと同義だった。

 相対すると楚軍の流れは止まり、そのまま乱戦へ。向かい来る敵を斬馬刀で一刀両断していく瑛藍だが、すぐそばで味方が確実に矢を眉間に打ち込まれ、倒れた。手練れの技だ。即座に周囲に警戒しつつ、着実にその数を減らしていく。

「騰達は、死んでないっ……よね!」

 返り血が甲冑を赤く染めることすら気にする暇がない。しかし視界の端で同金が敵兵と対峙している姿が見えた。瑛藍は相手の男を一目認めた瞬間、思わず「同金……!」と叫ぶ。――だが、彼は敵の武器によって容赦なく頭を潰された。

同金!!

 喉奥から絞り出されるような悲鳴は、騰にも聞こえた。だが仲間の死を悼む時間などない。それに自分が知っている彼女は――。

「っ、……っアァァ!」

 嘆き悲しむだけの女ではないと、よく知っている。
 瑛藍は涙こそ流しはしないが、キッと紺藍の瞳を釣り上げながら敵を屠る。同金を殺した男を今すぐ殺してやりたいが、自分達の今回の目的は“時間稼ぎ”。高く結った薄藍色の髪の毛を戦場で靡かせながら、瑛藍はただただ刃を振るった。



 夜、野営を立てて静かに同金を見送る。遺体こそないけれど、皆の心には確かに彼が居た。

「瑛藍、そろそろ中に入れ」
「ん……分かった」

 しばらく外に居た瑛藍は、騰に呼ばれて本陣のテントに入る。中には既に各軍隊長達が揃っていた。

「先程早馬が届いた」
「!」
「どうやら動いたのは楚だけではないようだ」
「それって……」
「先日警戒していた趙、魏は元より――燕、韓、斉も秦国へ進軍しているらしい」
「なっ!」
「がっ……合従軍……!?」

 とんでもない情報に目を瞠る。楚趙同盟だけではないと思ってはいたが、まさか六国の合従軍まで考えが及ばなかった。

「(だめだ、冷静になれわたし。事態に呑み込まれるな――)」

 深く深呼吸し、きゅっと下唇を噛み締める。今頃本営は混乱して思考が停止している可能性もあるが、あそこには昌平君がいる。少なくとも完全に停止はしない筈だ。
 ――その翌日、“斉”が合従軍から離脱したと知らせが入った。


 騰が咸陽に呼び出され、数人の兵を連れて前線から離れた。その間瑛藍は出来るだけ被害を最小限に抑えつつ、彼に代わって指揮を取っていた。
 盤上に駒を配置させ、穴のないよう隅々まで目を巡らせる。時折入ってくる急報に即座に対応しながら何とかやり過ごしていた。

「瑛藍様!」
「今度は何!」
「てっ……撤廃です!」
「………は?」

 急に何を言っているんだと言いたげな目を兵に向ければ、男は「咸陽までの防衛線は撤廃せよとの早馬が届きました!」と告げた。
 恐らく、昌平君達本営で論じた策が動き始めたのだろう。すぐにその意味を飲み込むと、「全軍に伝えて。すぐに撤退の準備を!」と声を張り上げた。

「(咸陽までの防衛線を撤廃ってことは、敵を咸陽まで進軍させるということ。……なるほど、決戦の地はそこ・・か!)」

 鈍い光を紺藍に携え、瑛藍は馬に乗る。「全軍、全速力で咸陽へ!」「「「オオォォォ!!」」」怒涛のごとき足音を轟かせながら、騰軍は咸陽に向かって馬を走らせた。







「――騰!」
「瑛藍、録鳴未達……。思ったより速かったな」
「瑛藍が全速力で走らせたもので」
「ちんたら走ってたら間に合わないでしょう。それより作戦は?」

 やっと騰と合流を果たした騰軍。瑛藍は彼を見つけると、すぐに作戦の内容を尋ねる。すると自分の想像通り、ここ――函谷関で敵を迎え撃つらしい。
 今一度周囲を見渡して敵味方の配置を確認した瑛藍。自分達の敵が楚軍だと認めると、ギッと奥歯を歯噛みした。

「楚軍十五万に対して、騰軍うちが三万、蒙武軍が六万か」
「兵力差はこれ以上埋まらん」
「分かってるってば! でもまぁ……いいんじゃない?」

 つつつ…と愛刀の柄を指先で撫でながら、目だけはしっかりと前を見据える。

「この兵力差で負ける楚軍の顔が見れるって思ったら、頑張れるよ」

 そう言った瑛藍の表情は、笑っていなかった。

「同金の仇、必ず取ってやる」


 ――その時、この戦場に大声が響いた。

「楚軍総大将・汗明より全楚兵に告ぐ!! 我ら楚軍は此度の合従軍の盟主也。この大戦の栄えある開戦の一刃を楚軍が承った!」

 「クソでかい声出してんじゃねーよ」舌打ちでもしそうな勢いでそう言った瑛藍に、「口が悪いぞ」と咎める騰。

「この戦で秦は滅ぶ!! この戦はァ! 深く! 歴史に刻まれること間違いない!! この大戦の口火を切る誉れ高き者は、我が絶大な信頼を得る第一の猛将・臨武君、貴様だァ!!」
「オオ! 我が名は楚の副将・臨武君!」

 その名にぴくりと反応したのは騰軍だ。皆が血走った目を巡らせ、今大声で馬鹿みたいに叫んでいる男を確と見つけた。

「(臨武君…)」
「(そこか、同金の仇は――…!)」

 騰軍の想いは、口にせずとも重なった。

「地を揺るがすのは誰か!?」
「「「楚軍!!」」」
「天を震わすのは誰か!?」
「「「楚軍!!」」」
「沈め、秦軍!!」
「「「オオ!!」」」
「全軍っ――」
突撃じゃぁ!!!

 臨武君の号令を奪ったのは、秦軍・ 麃公ひょうこうだった。彼に続いて麃公軍は、言葉通り一気に敵軍“趙”に向かって突撃した。

 これが、後に語られる大戦の幕開けとなったのである。