空高く燃えさかる雄叫びよ


 猛烈な突撃を見せた麃公軍を眺めていると、また汗明が声を張り上げた。懲りない男だなと瑛藍は斬馬刀で肩をトントンと叩き、苛立ちを露わにする。

「噂通りだ! 愚将の極みだな、麃公とやら! 守る貴様らが何を出しゃばる!」

 ぴたりと肩を叩いていた手が止まる。

「我ら楚軍の顔に! 栄誉に! 泥をぬられたぞ! この汚れは秦の血の海でしかぬぐい落とせぬ! ――臨武君!」
「オォ! お任せあれ!」

 騰軍の目つきが変わり、臨武君ただ一人を標的に絞る。後方で控えていた楽華隊や玉鳳隊は騰軍が纏うオーラに無意識に圧倒された。

「秦兵を皆殺しにし、この大地を奴らの血で染めてみせましょうぞ! 行くぞ、楚の勇士達よォ! 出陣だァ!!」
「「「オオオ!!」」」

 やっと始まった。瑛藍はゆっくりと斬馬刀を下ろして今一度髪を結い直す。土煙を上げながらこちらに向かってくる楚軍を前に、瞳をゆるりと細めた。

 ――この時瑛藍は、同金が殺され、今までにない大戦が開幕されたことですっかり忘れていた。
 この戦場には、秦国の武将全てが揃っている。――つまりあの人・・・もいることを、彼女は失念していた。

紀元前241年 合従軍 対 秦軍
函谷関攻防戦――開幕







 函谷関前で激戦が繰り広げられる中、その左。連なる山に隔てられているため、李牧らも目視の利かぬ隣の戦場も熱が上がってきた。
 そこは――蒙武・騰連合軍九万 対 楚軍十五万の、最大規模の戦が展開する。

 瑛藍はその場でじっと眼下を見下ろしながら、改めて自分の後ろにいる自分の隊の存在を意識した。三千の将になって、初めての戦。だが瑛藍は萎縮せず、鱗坊隊が出たのを確認してバッと斬馬刀“隗月かいげつ”を天高く掲げた。

「瑛藍隊よ! 長らく待たせた!」

 その声は、開幕の合図を告げた臨武君や、そして離れたところにいる李牧にも聞こえた。

「産声を上げろ! 前を見据えろ! 敵の首を容赦なく屠れ!」

 そしてスゥ、と大きく息を吸った。

――瑛藍隊、出るぞ!
「「「オオォ!!」」」

 怒涛の勢いで前に出た瑛藍を、騰はしっかりと見つめた。

「(……殿、見ておられますか。あんなに小さかった瑛藍が、隊を率いて戦場を駆けております)」

 遠い昔、“彼”の脚に隠れていた幼い少女が、あんなにも逞しく、強く育つなんて。
 嗚呼、貴方にも見せたかった。



 向かい来る敵を圧倒的な力で捩伏せながら、楚軍の波を止めて前へ進む。

「瑛藍様!」
「何!」
「録鳴未軍長が敵将・臨武君と一騎打ちを!」
「録鳴未が…?」
「それと遅れて鱗坊軍長も!」
「鱗坊まで……よし、わたし達も急ぐよ!」

 二人掛かりなら勝機も上がるし、何より同金の仇を討つところをこの目で見なければ怒りが収まらない。あわよくば自分も二人に混じって臨武君の首を獲りたい。
 そんな思いで“隗月”を振るいながら馬を急がせ、ようやくその中心の姿を見つけた。「録鳴未! 鱗坊!」つい瑛藍が二人の名を呼んだ。

 ――だが、目の前で鱗坊の頭に矢が突き刺さった。

「鱗坊!!」

 目の前が真っ赤に染まり、頭に血が登る。今すぐその身に駆け寄って泣き叫びたい。今やもう骸となってしまった彼の身体を抱きしめ、あのぬるま湯のような日々を共に過ごした我らの城でゆっくりと弔ってやりたい。
 けれど、それでも足を止めるわけにはいかなかった。悲しみに暮れるのも後だ。今は――。

「ッ、このっ……」
「瑛藍!」
「馬鹿力がァ!!」

 一瞬鱗坊に目を取られた録鳴未を、臨武君の武器が迫っていた瞬間に馬を滑り込ませ、“隗月”で受け止めてはじき返す。思い切り後ろへ下がってしまったが、すぐに体制を整えて録鳴未を見れば無事な姿があった。
 ホッとしたのも束の間、自分と録鳴未との間に力強い矢が通り過ぎ、味方の兵の急所をしっかりと貫いた。(さっきの一矢はまぐれじゃない…!)瑛藍はすぐに視線を走らせて矢の狙撃手を探す。

「余計な真似はするな! 白麗!」

 臨武君が狙撃手に向けて声を張り上げる。しかし矢は止まらず、じわじわとこちらの戦力を削いできた。

 これだと士気に関わると、瑛藍はその白麗とやらの元へ行こうかと考えるが、すぐにそれを取り下げる。この場を録鳴未一人に任せるわけにはいかないし、おそらく別の隊が狙撃手の存在に気がついて向かってくれているはずだ。
 確信は持てなかったが、今はその可能性に賭けるしかなかった。

「軍長ォ!」

 「ブハァ!」と血を吐く録鳴未。その横をするりとすり抜けて上から斬馬刀を振り下ろした。突然の攻撃だが臨武君も素早く対応し、ギリギリと刃を受け流す。最後に弾かれる寸前で敵の巨体を大きく後ろへ仰け反らせ、胸元の懐に飛び込んだ。

「なっ……!」

 速い、と臨武君は素直に思った。その瞬間自分の胸から血が噴き出し、辺りを真っ赤に染める。けれどそれで落ちる自分ではない。臨武君はガギリ、と歯をくいしばると「オオオオオ!」と雄叫びを上げながら武器を両手で横から薙いだ。
 まだ体制が整えきれていない瑛藍は、何とか斬馬刀で受け止めたが力が敵わず、薙ぎ倒された。

「瑛藍!」
「うるっ………さい! わたしの心配より前見ろばか!」

 自分も満身創痍のくせに、わたしの心配なんてしなくていい。瑛藍はその一心で録鳴未に対して怒鳴りながら、ビリビリと痛む肩の具合を軽く確かめる。

「(大丈夫、まだいける……)」
「瑛藍様、」
「何ともない。すぐに隊列を組み直して、あの野郎を仕留めるよ」

 馬鹿みたいに『将軍の意味』についてベラベラと喋っている男を睨み上げた。だが、その次に男の口から吐き出された科白に頭が真っ白になった。

残党共・・・よ。この俺とまともに戦いたかったら、あの六将・王騎でも墓から引っ張りだして来るべきだったなァ!」
「なっ……」
「ワーッハハハ!」
――黙れ
「ハハ…………ハ?」

 臨武君が気がついた時にはもう遅い。眼前には斬馬刀の刃が迫っていた。何とか後ろに仰け反って避けたが、右肩が縦に大きく斬り裂かれた。ぼたぼたと滴り落ちる血をそのままに、肩に手を当てて瑛藍を睨むが、彼女はもう怒りを隠してはいなかった。

「……まえ、………きが」
「アァ!?」
「お前ごときが、殿の名を汚してんじゃねぇ!」
「――その通りだ」

 その声に瑛藍は怒りで染まる視界が、少しだけ穏やかなものに変化したことを感じた。どうやら冷静さを欠いていたらしい。
 “ファルファルファル”と、あの独特な音を響かせながら剣を振るう男の存在が近づいている。それが誰かなんて、目で見て確認せずとも分かる。そしてこの場を任せることが出来るのは、悔しいがその男しかいないことも、瑛藍には嫌というほど分かってしまった。ならば自分がやるべきことは一つしかない。

 臨武君が騰に気を取られている隙に、周囲の敵を一気に屠り道を作る。そしてついに二人の刃が交わった。

「瑛藍」
「分かってる」

 ただ名前を呼ばれただけだが、騰が何を言いたいのか瑛藍には分かっていた。彼女は「瑛藍隊、下がるぞ!」と即座に命令する。兵士達は戸惑ったが隊長の命に逆らうわけにもいかず、次々と彼女の後を追う。

「瑛藍様! いいんですか!?」
「うん」
「でしたら、我々はどこに!」
「とりあえず、今の戦況を把握して策を立てる!」



 瑛藍が脱出した後、騰は臨武君に猛攻撃を仕掛ける。防戦一方の楚将だが、やられっぱなしは性に合わない。力の限りで武器を騰の顔目掛けて振りかざした。

「騰様……大丈夫でしょうか」
「何の心配してんの」
「ですが、」
「わたしは、殿の傍にずっといた騰を知ってる」

 ――あの人を何年も傍で支え続けてきた騰の強さが、あんな男に負けるわけがない。
 前だけを見つめながら、瑛藍はそう断言した。


 現に臨武君は騰に押されていた。それは側から見てもはっきりと分かるくらいで。

「バカな…、なぜ俺の力が通じぬ。身をさらし、難敵とぶつかり合い叩き上げられた俺の力が、たかが王騎の傘の下で戦ってきただけの男に!」
「……………」

 どんな敵でも、力の限りを尽くしてその命を奪ってここまで上り詰めた。それなのに、なぜずっと副官の地位に収まっていた男にこれほどまで押されているのか、臨武君には分からなかった。

「その傘を支え続けることの凄さは考えぬのか」
「?」
「お前は、修羅場をくぐってきた己の力に絶対の自信があるのだろうが、私には――中華をまたにかけた大将軍・王騎の傍らで支え続けた自負がある」

 それは紛れもなく騰自身の誇りであり、強さだった。

「………、そんな自負がどうした。秦人風情が…そもそも王騎を天下の大将軍とすることがふざけている」

 今の科白を瑛藍が聞けば、間違いなく怒り狂っていただろうなと騰は場違いにも思った。

「時代が同じなら、その男は俺に討たれていた…。何度も言っておろうが! 天下の大将軍足るのは、楚将だけだァ!!」
それは違う

 お前にそんな器はない。
 迷わず否定した騰は、“ファル!”とあの音を立てながら臨武君の首を裂いた。

「ここに瑛藍がいなくて良かったな。もしも先程のお前の科白を聞いていたなら……お前はあいつに殺されていた」

 どのみち自分が殺したのだが。騰はそう思っていると、周囲に雄叫びが走る。

 楚軍 第一将軍・臨武君 討ち死に――。
 それは初日早々に起こった、衝撃の大番狂わせであった。