ぐるぐる回る時計のように


 夕闇は、この函谷関攻防戦の長い一日の終わりをようやく告げた。

「被害は李白軍が最大で六千、万極軍が三千、副将の軍が千のおよそ計一万。対する秦軍も、ほぼ同数の模様です」

 「ご苦労様でした」李牧は本陣のテントの中で集った武将達を労った。慶舎から戦場の様子を詳しく聞き終えると、彼は万極を討った飛信隊の信の姿を脳裏に浮かべた。
 秦趙同盟を結んだあの日、自分に向かって啖呵を切ってきた少年。それがまさかあの万極を討ってしまう程の力をつけているだなんて。あまりの成長速度に驚く他なかった。

 すると、楚から離れた位置にあるこの陣まで楚軍・汗明の声が闇夜に響いた。思えば楚軍は蒙武・騰連合軍が相手だったはず。ということは――。

「(あちらの戦場にあの少女が……)」

 一度しか会話をしたことがなかったが、二年経った今でも李牧は“あの少女”――瑛藍のことをしっかりと覚えていた。あの猛烈な炎を宿す者を早々忘れられるはずがなかった。

「この戦争中にいつか………」

 李牧は確信にも似た気持ちを抱いていた。この戦の間で、必ず瑛藍と再会すると。







 騰軍は、一際高い崖に登って座り込んでいた。その中にはもちろん瑛藍もいて、彼女は録鳴未の手当てをしていた。

「俺より他の、」
「もう終わってますー。後はお前だけだから黙ってて」
「口が悪いぞ……」
「あんな無茶したやつには言われたくない!」

 ギュッと包帯を締めると「アダダダッ!」と録鳴未は呻いた。「はいおしまい」と録鳴未から離れると、スッと目の前に盃を差し出された。見れば、騰が片手に持った酒をちゃぷん…と揺らして待っている。周りでは他の軍隊長達も皆同じ盃を持っていた。
 もう一度騰を見て、両手でそっと盃を受け取る。すかさず彼が酒を注いでいくのを見守り、一杯になった盃を零さないようにゆっくりと月に向かって掲げた。

「鱗坊に」

 穏やかな、とても穏やかな騰の声がいつまでも耳元で聞こえた気がした。


 酒を飲み干してしばらくその場で談笑していると、崖下に知った顔を見つけた。すると向こうも酒を飲んでいたらしく、瑛藍の視線を感じて顔を上げた。ヒラヒラと手を振られ、自分も同じように返す。その隣には自分の知らない男もいた。

「なんだ?」
「うん? あぁ、ほら、楽華隊の蒙恬がいたから」
「あの男、どうやらあの凄腕の狙撃手を倒したらしいぞ」
「うっそ! 通りであれから矢が飛んでこないと思ったら……、そっかあ」

 賭けてみてよかった。珍しく頬を緩めた瑛藍は、また酒を注いでぐいっと煽る。「行かないのか?」「行かないよ、面倒くさい」相変わらず通常運転だな、と騰は白けた目を少女に向けたが、当の本人はその目線に気づかずにもう一度月を見上げた。

「同金も、鱗坊も。……乾杯」

 囁くような声が、静かに溶けた。

 ――緊張の初戦を終え、その夜は両軍各々に夜営についた。対峙する敵の姿を互いに見ながらも、夜は静かにふけていった。



 そして、二日目。

「……楚軍元一軍だけなんて、一体向こうの将は何を考えてんの………」

 今回は前に出ず、本陣で待機している瑛藍隊。初日とはまるで違う凡戦に、だからこそ用心深く戦の流れを注視した。この裏に隠された意図を読み解くために。
 こちらが消耗した後に楚軍の第二軍が投入されるのか。その懸念が浮かんだが、結局それもないまま二日目が終了した。

 ――そして三日目も同様に過ぎたのである。

「………………、」

 三日目の夜。本陣のテントで駒と睨めっこをしているのは瑛藍だ。彼女は二日続いた消耗戦に何を思ったのか、こうして夜営が始まってから何も口にせずにただ盤上の地図と駒を睨んでいた。

「消耗戦が始まって二日……。もしもこれが明日も続くなら…」

 今は下ろしたままの紺藍色の髪がはらりと地図の上に影を落とす。さりげなくそれを耳にかけて、ぶつぶつと呟き始めた。

「考えろ、瑛藍。敵の思惑を――李牧の意図を」

 王騎を死に至らせた男、李牧。その姿を思い浮かべながら、瑛藍は今一度、地図全体に散らばる駒の配置を見渡した。

「(楚、韓、魏…………。どの国も消耗戦のためにあまり戦力を投入していない。今わたし達が戦ってる楚軍なんて、この二日間はずっと第一軍の残りだった。その意味は? 長期戦に持ち込めば、兵糧や背後にある離脱した“斉”の存在も意識しなければならないのに)」

 だがここで、瑛藍はある一つの違和感に気がついた。

「どの国も……将軍がいない?」

 その一言を皮切りに、ある一つの予想が立った。

「そうだ、この二日間、戦場に将軍がいなかったんだ! 初日に将を二人失った合従軍は、各国でバラバラに動くのをやめて統率を取った。いかにこちらの戦力を自分達の戦力を削がずに殺せるか。――なるほど、胸くそ悪いけどそう考えたら納得できる」

 そしてタイミングを見計らって、全軍でこちらを叩き潰す算法だろうか。もしもこの予測が当たっていれば、全軍が来た時がこの大戦の正念場となる。
 しかし、あくまでも予測。まだ確信が持てないこの状況で、他の誰かにこの考えを伝えることは憚れた。

「ンフフフ、素晴らしい考えですねェ、瑛藍」
「とっ…………ちょっと、趣味悪すぎるんだけど、騰」

 「殿って言いかけたじゃない!」と瑛藍が憤慨すれば、「蒙武には下手くそと言われた」と自分の物真似の評価を口にする。大戦が開幕する前に言われたらしいが、三日経った今でも覚えているということは案外根に持っているらしい。

「だが、その考えは意識しておいた方が良いかもしれん」
「うん……。じわじわとこっちの戦力が削がれてる現実があるからこそ、この可能性も捨てきれなくて。ただもしこれが李牧の描いた作戦なら、次の問題はあいつが見切りをつけるのがいつかっていうのが浮上してくる」

 その時・・・は必ずやってくる。けれどこちらはそれを予測する術がない。
 けれど騰はなんだそんなことかとでも言いたげに鼻を鳴らした。その態度にムッとして「なに」とぶっきらぼうに聞くと、「ここには歴戦の猛者達が揃っているんだぞ」と改めて告げる。

「知ってるよ。それが何………あぁ、なるほど」

 そういうことかと瑛藍も失念していたように笑った。

「わたしには分かるかな」
「殿の傍にいて、分からん方がおかしい。それに――お前は殿に育てられた狗だろう」

 面と向かって言われたのは、何度目か。“狗”という表現を、瑛藍は存外気に入っていた。
 あの人に、六将・王騎に育てられた狗。それがわたし。そんなプライドじみたものが瑛藍の中に渦巻いている。

「………ふふ」

 背筋を伸ばして柔らかく笑う。けれど騰が瞬きをした瞬間には、既に好戦的な鋭い眼差しを携えていた。

「なら、狗は狗らしく吠えようか」

 そう言った少女は、まるで獰猛な獣のようだった。