甘くない真夜中の逢瀬にて


 四日目も五日目も六日目も、いずれの戦場も対局は動かず。前線は激しい戦いを繰り広げるも、合従軍各軍の本軍は静観を続けた。
 戦況が動いたのは七日目だった。突然この男――韓軍総大将・成恢せいかい本隊を率いて前に出てきた。

 成恢本隊、彼らはこうも呼ばれていた。――“毒兵器部隊”。
 この時代、毒兵器は存在していたが、一般的ではなかった。そんな中成恢はあらゆる毒に手を伸ばし、それらを日夜研究して独自の様々な猛毒兵器を作り出した。

 しかし、勿論代償はあった。毒兵器の研究はその過程で自らも毒に体を冒され、本来は美男子だったはずの彼は今やそれとは程遠い容姿となっている。まず常人では耐えられない苦痛を経て、成恢はその域に達したのだ。

 成恢は数人がかりで放つ大きな矢を用意させると、“丹丸”と呼ばれる丸い大きな球を設置する。「――射て」静かに号令を下すと、矢は一直線に放たれ、秦将・張唐がいる近くに大きな槍のような物が突き刺さった。そこからモヤァ…と煙が上がり、張唐は咄嗟に自分の口元を腕で覆う。
 煙が晴れ、眼下を見下ろすと、そこには不敵な笑みを携えた成恢が此方を見上げていた。目が合ったのはその一瞬。成恢はすぐに秦軍に背を向け、本陣の位置まで下がるように告げた。

 果たしてこれがどういう意味を持つのか。まだこの時には誰も分からなかった。



 結局七日目も、本隊が動いたのは全戦場で韓軍だけであり、他は全てここ数日同様に大局の動かぬ削り合いで終わった。
 八日目も変わらずの消耗戦で一日が過ぎ――十四日目の夜。瑛藍は騰軍本陣のテントの中にいた。

「………、明日か」

 台の上に広げた地図を見つめながら呟く。纏めていない薄藍色の髪が肩から滑り落ち、彼女の顔に影を落とす。地図の隅から隅へ目を通すと、一度大きく息を吐いてぐんと伸びをした。
 テントから顔を出すと、騰が敵軍の方向を険しい顔つきで見ていた。もう小一時間は経っている。そろそろ声でも掛けようかと思ったが、彼から滲み出る雰囲気にそっと目を閉じてまたテントに戻った。

「(……やっと、)」

 やっとあの男の首を堂々と獲りに行ける。この三年がとても長かった。王騎の死から三年、あの男が現れてから三年――。

「やっと、約束が果たせる」

 約束。それは、王騎と交わしたものだった。


「貴女が後ろにいないのは、少し寂しくなりますねェ」
「少しの間だよ。違和感の正体――向こうの軍師の正体を掴んだら、すぐにその首を獲って戻ってくるから」



 あの時は本当に言葉通り、すぐに敵を倒して戻るつもりだった。けれどまさか、狙っていた首がこんな大戦を引き起こすことの出来る人物だなんて思いもしなかった。
 強く唇を噛み、内から湧いてくるふつふつとした感情を抑え込むと、本陣のテントから出て少し離れている自分のテントに入った。

「明日はきっとどの場所も激化するだろうけど……、一番気になるのはやっぱり函谷関だよね」

 七日目にあった韓の総大将・成恢の突飛な行動。あの煙の正体が未だ掴めていないが、毒に関係する何かであろうとは早々に予想がついていた。だがその調合された毒が何なのかが分からず、今のところ経過を見るしかないのが現状だ。

「そういえば……函谷関にいる武将が誰なのか、騰に詳しく聞くの忘れてた……」

 ガーン、と落ち込む瑛藍。戦が始まる前に一応聞いたのだが、名だたる武将が数人配置されているだとか、それより持ち場の武将の名前を覚えろだとか言われて、結局誰が函谷関に居るのか分からずじまいだったのだ。

「んー、聞いた方がいいのかなぁ」

 今は目の前の戦いに必死で、正直他の場所まで気が回らないのが本音。しかし函谷関が落ちれば、文字通り秦は滅んでしまうのだ。気にならないといえば嘘になる。

「……………あーダメだ! 寝れない!」

 とりあえず横になってみたものの、一向に眠気は訪れない。こんな気が張った状態じゃあ当たり前かと自分自身に言い聞かせるが、それで大人しく眠気がくるかと言われれば、それもそれで難しい。

 しばらく目を閉じると、瑛藍は勢いよく立ち上がって外に出た。――散歩に行こう。



 外に出ると、見張り以外は皆テントの中に入ったらしく、あまり人影はない。足音を立てないように歩き、野営から少し離れたところにある崖先まで行くと、そこに腰を下ろして足をぶらりと遊ばせた。
 夜の風は心地よく凪ぎ、瑛藍の薄藍色の髪を攫っていく。深緑の服に身を包んだ彼女は、やがて呟くように音を口に乗せた。

「こんな時間に何の用?」
「……やはり、二度目は出し抜けませんか」
「こんなピリピリした夜に出し抜こうだなんて、そっちの方が無謀でしょう――李牧」

 瑛藍の後ろから足音すら立てずに近づいて来たのは、今回の戦を引き起こした張本人、李牧だった。彼は自分の隣まで足を進めると、何の断りもなくそこに腰を下ろした。
 敵将と、しかもあの李牧と何故肩を並べ合わなければならないのか。普段と同じように噛みつこうと思ったが、すっかり夜も更けた時間帯では周りの迷惑になるし、皆に余計な混乱をもたらしてしまう。結局瑛藍は一度も隣を見ずに、眼前に広がる暗闇を眺めることにした。

「気がついているんですよね? ――勝負は、明日だと」
「わざわざ教えに来てくれたの? それならどうもアリガトウ」

 嫌味ったらしく礼を言うと、苦笑を返される。

「貴女はどうして、武将になったんですか?」
「急に来ておいて、聞くことってそれ? 随分余裕なのね」
「今、この時でしか貴女と話をすることは出来ないと思ったので」
「……なにそれ」

 いよいよ李牧の考えが分からない。ここでやっと彼の顔を見れば、彼は揺らぐことなく自分を見ていた。

「教えて下さい。貴女は何故武将になったんですか?」

 どうやら、彼は本当にそれを訊きに来たらしい。こんな何の生産性もない話を、危険を冒してまで。
 迷った時間は数分にも満たない、たったの数秒だったに違いない。短い溜め息を吐くと、李牧から目をそらしてまた暗闇を見つめた。

「一番最初に憧れた人が、武将だったから」
「……それは王騎ですか?」
「殿は言うまでもなく当たり前。わたしの憧れでもあり、親でもある。あの人が居なかったら、あの人がわたしを受け入れてくれなかったら、きっと今のわたしはいなかった」

 李牧はクッと顔を顰めた。彼女の言い方だと、まるで他にも自分に影響を与えた人がいるかのようだ。だが今日こんにちまで彼女のことを調べていたが、王騎や騰達以外の人物は浮上してこなかった。
 彼女を武に至らしめた存在。果たしてそれは――。

「わたしを武将にしたのは殿。けれど、その縁を繋いでくれたのは別の人」
「それは一体……」
「言うわけないでしょう。もう今や騰以外知らないんだから。でも――そうだね、端的に言うなら……」

 ――神様みたいな人。
 そう言った彼女の横顔は、初めて見るものだった。

「さてと」
「? ――――っ!」
「やっぱり躱すか……。余程の手練れだよね、李牧って。そんな奴が軍略家に収まってるだなんて、世も末だ」
「貴女にそう言ってもらえるとは、光栄ですね」
「何それ、皮肉?」

 刃と刃が弾く音が暗闇を走る。李牧は腰蓑にぶら下げていた剣を、瑛藍は胸元に忍ばせていた短刀を互いに構え、鈍い光を瞳に宿す。

「このまま貴女とやり合いたい所ですが……生憎と、この首はそう安安とあげられるほど安くないもので」
「ここまで来ておいて、あんなくだらない質問だけで終わるだなんて冗談でしょ? 今ここでお前の首を獲ったら、この大戦も終わりの一途を辿る」
「いいえ。終わるのは、我々が函谷関の地を踏んだその時です」
「函谷関を守るのは腕利きの武将達。お前達がどうやったって絶対に守りきるし、そもそもわたし達が行かせない」

 最早先程の穏やかな空気はなく、張り詰めた冷たいものが漂う。

「そうですね。しかし張唐将軍は成恢将軍の毒によって、恐らく近いうちに戦線離脱。蒙驁もうごう将軍は恐るべき猛将ではないし、残る桓騎将軍だって彼独自の戦法をさせなければ良いだけの話」
「――――え………」
「もう貴女方は詰んで……っ!?」

 突然距離を詰められ、胸倉を掴まれる。その速さはやはり李牧であっても目を見張るものだった。だが問題はそこではない。何故少女はいきなりこんな暴挙に? そもそも何故こんなに冷静さを欠いている?

「何っ――」
「今の、本当なの……」
「今のって、」
「あの人が、桓騎将軍が函谷関を守ってるって!」
「えぇ、本当ですが……どうして今さらそんなことを? 初日から桓騎将軍は函谷関の守護に当たっていましたが」
「っ……だからか…!」

 漸く分かった。何故騰が函谷関に配置された武将を教えてくれなかったのか。まさか、まさか――まさか。

 バッと乱暴に李牧の胸倉を離すと、そのまま彼に背を向けて歩き出す。何も言わずに去ろうとする彼女を、李牧は呼び止めた。

「待ってください」
「…………」
「桓騎将軍が何かあるんですか?」
「…………」
「待ってください………――瑛藍」
「!」

 初めて李牧が自分の名を呼んだ。そのことに思わず瑛藍は足を止めてしまった。睨むように後ろを振り返れば、李牧は先程の位置から一歩も動いていない。

「なに」
「もう私は止まりません、止まれません。私にも目的があるので」
「そう。ならその目的とやらをわたしが止める」
「……ふはっ」
「何で笑うの!」
「いえ、すみませっ……。ふ、ふふ、…はぁ……。いつぶりでしょう、こんなに笑うのは」
「知らん! さっさと陣地に帰れば!」

 本格的に怒ってしまった瑛藍を見ても、李牧はやはり口元を緩めて笑う。

「いいんですか? ここで私を殺さなくて」
「言っただろ。お前の首を獲るのは戦場だって」
「今は戦の真っ只中です」
「こんな闇討ちみたいなやり方、殿が嫌う。それに李牧をこんな玩具で倒せるとは思ってない」

 若干口の悪さが出ているが、絶賛怒っている彼女は気づかない。李牧もそれを指摘せず、むしろ楽しんでいた。

「では、お言葉に甘えて」
「さっさと帰れ」
「気が向いたら、いつでも来てくださいね――生きていれば」
「うっさい! 生きるのも勝つのも秦だから!」

 真っ直ぐな、淀みのない宣言だった。その台詞が最後だったようで、もう瑛藍は一度も立ち止まらずにテントまで戻った。
 眠れるように散歩に行ったのに、とんだ奴と会ってしまった。しかも頭がこんがらがるような情報を得てしまったせいで、余計に眠れない。

「………、との」

 どうすればいい。どうしたらいい。
 今は――会いたくない。
 そう思ったのは、初めてだった。

「との、とう………」

 舌ったらずに二人の名前を呼び続ける。それは彼女が眠りにつくまで聞こえていた。