ただ前に進むしかないんだ


 ――運命の十五日目。
 楚軍十二万出陣
「汗明軍、出るぞォ!」
「「「オオオオオ!!」」」

 蒙武・騰連合軍計七万出陣
「出陣だァ!」
「「「ウオオオオオ!!」」」

 瑛藍が予想していた考えは概ね当たっていた。
 李牧は、この戦が始まって僅か二日目にして『凡戦を連ねた後、全軍全力の総攻撃をかけて函谷関を落とす』と策を立てたのだ。そして瑛藍が危惧していた通り、李牧は“見切り”をいつにするかをずっと図っていた。

 李牧の言う見切りとは、秦軍の弱体化。函谷関突破から咸陽陥落までの期日の逆算。延戦のリスク。それらを秤にかけていつ決戦に踏み切るかであった。
 それが、十五日目今日である。

 ――この日函谷関攻防戦は、山場を迎える。




 蒙武の己の事しか言わない檄に、不思議と士気が上がった蒙武軍。「フン、馬陽から芸が変わっておらん」「いや、あれでいいのだ」と録鳴未、隆国の会話を聞きながら、瑛藍は目の前に群がる汗明軍を睨みつけた。

「どうした、顔色が優れんぞ」
「別に、何でもない。ただ寝れなかっただけ」

 横から騰に話しかけられたが、つい素っ気なく返してしまう。彼の顔すらまともに見れない今、こんな状態で話を続けてしまったら酷い言葉を吐いてしまいそうだった。
 身体は今すぐにでも函谷関に行きたがっているのに、それを心で、理性で抑えつけている。昔の自分ならばあり得なかっただろう。

「………瑛藍」
「なに」
「函谷関には、桓騎将軍がいる」
「!」

 正に今、聞きたくない台詞だった。なぜこんな時に言うのか分からない。激しく動揺して思わず騰を見ると、彼は真っ直ぐに自分を見ていた。

「必ず生きて会ってこい」
「あ……会っても、いいの…?」
「私にそれを止める権利はない」

 まるで突き放すようにも聞こえる言い方に、瑛藍は無意識に唇を噛み締めた。

「だが……」

 言葉を続けた騰にもう一度目線を合わせると、彼はこの戦場に似つかわしくない優しい眼差しを少女に向けた。

此処・・にはいつでも、お前の居場所がある」

 暖かい、とても暖かい言葉だった。途端に瑛藍の視界はパァッと明るくなり、キラキラとした世界を惜しみなく映す。
 そうだ、そうだった。彼はこういう人だった。ううん、騰だけじゃない、録鳴未も、隆国も、同金達も、――殿も。

 もうとっくにわたしは、王騎軍だったんだ。

「それじゃあ、」

 何が何でも、生き延びなきゃね。
 そう言って前を向いた少女の瞳は、いつものように力強い光が宿っていた。


「将軍、禍燐かりん軍が動いて来ました」
「――…。録鳴未と干央を前へ出せ」

 二隊が前に出た後ろで、砂塵が舞う光景を見つめる。グッと目を凝らして見てみれば、走ってくる戦車隊の奥に何か大きな影が見えた気がした。次いでズーン、と鈍く重たい音も聞こえてくる。
 何かある、と奥にある存在を警戒した瑛藍は、煙が晴れた所から現れた存在に自分の目を疑った。

 そこには巨大な象が何体もいたのだ。列をなして、隊列を組み、そして象の背には楚軍が乗っている。まるで馬のように扱っているが、明らかに此方と規模が違った。
 いるだけで放つ存在感。ただ進むだけで絶命される命。圧倒的な強者が、そこにはいた。

「何、あれ……! あんなの戦う術がない!」

 無惨にも殺されていく兵士達に、録鳴未ですら前に進むことを躊躇われる。今すぐにでも飛び出してしまいそうな瑛藍を、横にいる騰が抑え込んでいた。

「っ、騰!」
「必要ない。獣ごときに遅れをとる二人ではない」

 騰の台詞通り、録鳴未も干央も怯んでいなかった。
 録鳴未はすぐに敵将がいることを確認すると、少ない人数に特攻をかけ、象の背に乗る人物めがけて突っ走る。張られた縄に脚を躓かせるという初歩的なミスを犯したものの、意地で象に登り、敵将を討ち取った。
 干央も弓兵に指示を出し、象の背に乗る人達に向かって一斉射撃を命じた。それらが功を成したのか、象の群れは後ろへ退却していく。

「録鳴未・干央両軍共に、敵を退却させた模様です!」
「いいぞォ!」
「よォし! 楚軍は派手な手が裏目に出たな! 破った分、我らの士気が高まった」
「(………、いや、今のは軽すぎる)」

 騰が思ったことと同じことを瑛藍も感じていた。そしてその時点で彼女は気づいてしまった。

「……派手だった分、それだけわたし達の注目を集められた」
「?」
「つまり、魅了された・・・・・

 すると他に注意が行きにくくなる。だから――。

「だから、安易に敵に布陣を展開させてしまった」

 先程の象を“目くらまし”に使ったのだ。あれだけの巨体を、敵の将軍は。

「一体どんな奴だよ、敵の将軍は…」

 呟いた瑛藍の声は、敵が迫り来る音で掻き消された。

「瑛藍」
「なに」
「策はあるか」
「!」

 この状況で自分に策を尋ねると思わなかった瑛藍は、驚いたように騰を見る。合わさった彼の目は自分を全力で信じているそれだった。
 ――だったら、その期待に応えないと彼の隣には居られないだろう!

「干央、録鳴未が斜め前にいるから、それに向かって布陣を作る。中央に隆国を、そして両翼をそれぞれ置いて、騰がいる本陣をつり鐘状に囲う。さらに中央軍と両翼で予備隊を隠し、本陣を守る」

 「今は守備の陣形で、本陣の崩壊を防ぐ時だと思う」と締めると、「待て!」とどこからか声が飛んできた。

「それは、今いる軍全てでその布陣を作るのか…!?」
「そう」
「そんなことをしたら、先に出た録鳴未・干央軍を救いに行く軍がないぞ!」
「両軍共、敵の包囲を受けている! すぐに応援に行かなければ、みすみす皆殺しにっ…」

 王賁と蒙恬は、事の成り行きを見守った。ああ言われて、同じ軍の仲間を救けに行くのかどうか。非情になりきれるのか。
 その心配を、瑛藍は断ち切った。

「援軍なんて送る余裕はない!」
「なっ……」
「分かる? 今、わたし達は負けてんの! そりゃあ救けに行きたいよ、今すぐ! でもそんなことをしたら、本陣は絶対に崩壊する。それはわたし達の負けを意味する!」

 吠える少女に、誰もが固唾を飲んだ。

「お前らここに何しに来たんだよ! 戦だよ、戦争だよ! 仲良しごっこしに来たんじゃないんだよ!」

 口悪く吠え続ける彼女を、誰も止めない。止められない。だって全て正論だから。

「同金が死んだ、鱗坊が死んだ。……悲しいよ、苦しいよ、辛いよ。当たり前でしょう、だって大切な仲間なんだから。――それでも、わたし達は勝たなきゃいけない。咸陽を、殿が愛した秦国を、彼奴らに奪われてたまるか!」

 その叫びは、彼女の想いの全てだった。聞いている元王騎軍は涙が溢れ、その想いの深さに胸が熱くなる。

「それに信じてるから。録鳴未と干央を」

 ひたむきな程に前を向く少女の瞳に応えるように、両軍は雄叫びを上げた。