力の片鱗すら見せていない


 翌朝、咸陽にて王騎軍を待っていたのは盛大な見送りだった。秦の旗が一斉に掲げられている中を、堂々と馬に乗って闊歩する王騎。その後ろを騰と瑛藍が続く。

「うわぁ」
「どうした?」
「録鳴未がすごい睨んでくる」
「我慢しろ。録鳴未は若い将を好かんからな」
「わたしより弱いくせに……ちょっと殺して――」
「やめろ馬鹿」

 そんなくだらない会話をしながら、瑛藍は王騎がふと大きく架かる橋を見上げた事に気がついた。そこにはあの若き王、嬴政が此方を見ていた。武運を祈って拱手する政に、王騎も頭を下げて同じ動作を返した。


 ――始皇三年三月 『王騎出陣』
 その事実は各国の諜報員を通じ、全土に広がった。それは列国にとって大きな衝撃であり、この戦は一気に全土が注目するところとなった。
 しかし、“陸の孤島”と化した馬陽にはこの一報は届いていない。彼らはひたすらに見えぬ援軍の到来を信じ、必死に耐えていた。

 王騎軍にとって咸陽から馬陽までは十五日の道のりである。


「歩兵軍までまだ遠いかなあ」
「もうすぐですよォ。そろそろ瑛藍も気を引き締めて下さいねェ?」
「ん?」
「女の身で私の後ろにいるんですよォ。何を言われても、今回は我慢して下さい」
「はーい。気をつけまーす」

 大好きな王騎の顔に泥を塗るわけにはいかない。瑛藍とてその辺は分かっている。

「ほんとにやばくなったら止めてね、騰」
「嫌だ」
「なんでよ!」

 またもや軽口を叩いていると、前方に列をなす歩兵軍を見つけた。

「わあ、やっと追いついたね!」
「えェ」

 歩兵軍も騎馬の地響きが聞こえたのか、足を止めて此方を振り返っているらしい。やがて歩兵が分かれ、その真ん中を王騎率いる騎馬隊が堂々と通る。何十にも列をなす彼らを率いて、王騎は「ンフフ」と笑った。

「全軍」

 矛を持っていない手をばっと空高く上げる。

「前進」

 たった一言。なのにその言葉は何よりも力を持ってこの場にいる兵士達全員の士気を高めた。
 大地が、空気が、人々の咆哮で揺れる。初めてそれを肌で感じた瑛藍は、やっと自分が戦地へ赴く事を実感した。

「……騰」
「何だ」
「勝とうね、絶対」
「当たり前だ」

 これを初陣と呼んでいいのかは分からない。だが、自分が王騎軍として戦場へ行った事を“彼”が知れば、どう思うだろうか。ひっそりとそんな事を思いながら、瑛藍は一度強く眼を閉じると、すぐに紺藍色を覗かせた。鈍く宿る光は、真っ直ぐに王騎の背中を見つめていた。


 ――三日後、ついに秦軍は決戦の地“馬陽”に到着した。けれど馬陽には向かわず、右方へ前進する指示が出された。昨晩王騎から軽く作戦を聞いていた瑛藍は混乱する事なく馬を走らせる。

「追ってきましたね、趙軍は」
「ンフフフフ、やる気満々のようですねェ」
「それでは我々も配置につきます、殿」

 録鳴未達将軍が横一列に並び、声を掛ける。王騎は暫く黙ったのち、やっと口を開いた。

「皆さん、ご武運を」
「「「ハハッ!」」」

 将軍達がそれぞれ配置につくのを、王騎、騰と一緒に目で追いかける。「……殿」瑛藍は我慢出来ずに話しかけた。

「はい?」
「わたしも本陣に居ていいの?」
「何度も言っていますが、貴女は“隠し玉”ですよォ。早々に出してしまうのは勿体ない」

 それに、と王騎は続けた。

「この戦場に、馬陽に、必ず龐煖ほうけんは現れます」
「…………」

 その名を騰も瑛藍もよく知っていた。騰はその男を実際に見て知っているが、瑛藍はこの二人から話を詳しく聞いている。
 この馬陽で何が起こったのか。王騎と龐煖との間に何があったのか。その全てを自分は知っている。

「――その時は、必ず来るんだね」

 ぼそりと小さく呟かれた台詞は、勿論二人には聞こえていた。

「殿!」

 今度は打って変わって明るい声色を王騎に向ける。このような戦場に来ても彼女は何も変わらない。

「容赦なく、わたしを使ってよね。この瑛藍――戦場を敵の血で染めてみせるから」

 その笑みはとても美しかった。王騎は「ココココッ、では…存分に頼るとしましょうかァ」と、戦場を見下ろしながら笑った。







 王騎が本陣から離れ、左軍へ行ったり中央の第1軍へ行ったりするのを、瑛藍は騰と一緒に見守っていた。

「………本陣離れて大丈夫スか?」
「ンフフフ、大丈夫ですよォ。陣頭指揮は騰に任せて来ましたし、何より瑛藍もいますからねェ」
「……………大丈夫か?」
「まだ瑛藍の力が信用なりませんかァ?」
「見た事ねェスから」
「ンフゥ、そうですねェ…。時期に見れますよォ。――我らが手塩にかけて育てた狗の力を」
「イヌ?」

 信の頭の中には“わんわん”と舌を出して尻尾を振る犬の姿が浮かぶ。けれどどう考えてもあの女はそんな忠犬には見えなかったが――。

 しかし、信はそれ以上瑛藍の事を考えられなかった。何故なら王騎から任務を与えられたのだ。
 現在、左軍一万が趙右軍二万に攻撃を開始した。この一万対二万が、序盤戦で最も重要な戦いだと王騎は言う。



「――戦を効率よく進めるためには、より有利に戦える地を相手より奪うことが定石」
「突然どうした?」
「んー? 昔殿から言われたなぁと思って。でも今回の戦は場所獲り合戦じゃあ駄目だね」

 トン、と斬馬刀を肩に置いて眼下を見下ろす。その眼は端から端へと動き、趙軍の将軍を確と捉えていた。

「今回は、首獲り合戦だ」

 王騎が誰から狙うかなんて、二人には分かりきっていた。故に今、あの少年の元にいるということは、あれに敵将の一人を討ってこいと命じたのだろう。

馮忌ふうきの首だね、あの位置だと」
「一万の軍勢に僅か百人……、あの童は受けると思うか?」
「何言ってんの騰?」

 きょとんとした顔で騰を見上げる。

「当たり前じゃん。わざわざあの殿に修行をつけてもらうように頼み込んでくるくらいだよ? 受けるか受けないかじゃなくて……やるんだよ」

「ていうか、むしろ断った瞬間彼奴の首をはねる」ぞっとしない台詞を平然と言ってのけた瑛藍。騰は最後のそれが無ければ良かったのにと思いながら、まだ話し込む王騎と信を一瞥し、戦場全体を眺めた。


 やがて本陣に帰ってきた王騎と騰が話し込む。瑛藍は会話に加わらず、ただ風塵が入り混じる戦場を見つめ続けた。詳しく言えば先程王騎が名付けた特殊百人隊“飛信隊”を。
 本当にあの男が馮忌の首を獲るのだろうか。士気を上げて敵陣に向かっていく飛信隊は、幾人かの実力者に続いて“集”の力で押し進んで行く。

「どう思いますかァ? あの童 信を」
「そうだねえ。……あの様子だと獲りそうね、馮忌の首」

 ――トン、トン。身体の奥から何かが疼く。それを鎮めるように瑛藍は斬馬刀で肩を何度も叩いた。

 結果的に、信率いる飛信隊は馮忌の首を獲った。満足気に笑う王騎に、「次はわたしも出してよね…」と瑛藍はぽそりと文句を呟いた。
 そろそろこの子も限界が近いか。王騎はすぐにそれを感じ取り、いつ出そうかと考えながら騰に退却のドラを鳴らすように告げた。



 その日の夜、夜営から明かりは消えず、笑い声さえ響いていた。
 飛信隊は隊長である信の活躍で持ちきりだが、同時に息を引き取る者も少なからず出ていた。落ち込む信に男が「笑って送ってやれ」と声を掛けたタイミングを見計らい、彼は躊躇いなく大きく一歩を踏み出した。

「ンフフフ、その通りです。こういう時こそ大騒ぎですよォ」
「「うわぁっ、王騎将軍!?」」

 わざわざ足を運んで来た王騎に、一同は驚きを隠せない。慌てて拱手する兵士達を前に、王騎はこの百人隊に名を与えた意味を語り出した。

 名とは、味方にも敵にも憶えやすくする。
今回、飛信隊に援軍として向かった王騎軍の将・干央かんおうは、信が馮忌を討ち取った瞬間に“飛信隊”の名を高らかに明かした。

 今頃超軍内に『将軍馮忌を討ったのが飛信隊の信という者だ』と広まっている筈だ。――そして、そこからやがて中華全土に広まる。
 王騎は不敵な笑みとともにそう締めくくると、最後に隊全員に労いの言葉を送った。

「ちょっと殿! 探したんだけど!」
「おやァ? 瑛藍じゃないですか」
「『おやァ?』じゃない! 一緒にご飯食べるって約束したのに……、まーたこの男! ちょっとお前、このわたしを差し置いて殿を独り占めするのやめてくれる?」

 良い雰囲気をぶち壊したのは、女の声だった。ほとんどの人間が困惑と共に女を見る中、信だけは「あーーっ!」と大声を上げて指を差している。

「お前っ、あの時の!」
「なによ」
「あの蒙武将軍と互角とか言われてた! 名前は……えーっと、」
「瑛藍。わたしはちゃんと覚えてるよ、お前の名前」

 それでも敢えて信の名前を言わない瑛藍は、ぐるりと飛信隊を見渡した。

「………ふーん」
「な、なんだよ」
「…別に」

 それっきり信を相手にしなくなった瑛藍に、信はブチっと切れて思わずこう叫んでしまった。

「俺と勝負しやがれ!!」
「へ?」
「俺は女だろうと容赦しねェからな!」

 突然勝負をふっかけられ、目をぱちくりと瞬かせる。次いで王騎を見れば、彼は面白そうとばかりに笑みを濃くし、自分に向かって頷いた。
 ――瑛藍にはもう、断る理由がなかった。そもそも今日は見ているだけだったのだ。血の気も収まっていない。

「殿も了承してるし、いいよ」

 下ろしていた髪の毛を手早く結び、懐にしまっていた短刀を取り出す。

「……舐めてんのか、俺を」
「素手じゃないだけマシだと思ってよ」

 さ、早く剣を構えて。
 あくまでも短刀で戦うつもりの瑛藍に、ギリっと奥歯を噛んだ信。「後悔しても知らねェぞ!」怒りのまま信は剣を持つ手を振り上げた。

「っと、」
「!!」

 軽い口調で瑛藍は短刀で剣を受け止め、そのままいなした。信が攻めることが出来たのはこの一回きりだった。

 瑛藍は素早い身のこなしで信の懐に潜り込むと、下から顎に向かって足を振り上げた。なんとかそれを受け止めた信だが、受け止めた手が足で絡め取られ、ぐるんと体重を上手く使って信を足だけで締め上げる。息があまり吸い込めない中、精一杯の力で自分の身体を締め付ける足を剥がして剣を構えれば――目の前、正確に言えば眼球から僅か数ミリのところに短刀の鋒が迫っていた。あと一歩どころか、少しでも身動きすれば目に突き刺さる。そう自覚したと同時に自分の身体からぶわりと汗が吹き出した。

「勝負ありですねェ」

 王騎の声が凄く遠くに聞こえた。スッと遠ざかった鋒に漸く深く息を吸い込んだ信は、力が抜けたようにドサっと地面に尻をつける。瑛藍はその様を見ながらしゅる…と髪紐を解いた。穏やかな風が薄藍の髪を攫う。夜闇に溶け込むその色は、皆の視線を自然と奪った。

「どうでしたか? 童 信」
「つ、……強え……」
「ンフフ、この程度で強いとは…まだまだですねェ」
「この程度?」

 さすがの姜嵬きょうかいも口を挟まずにはいられなかった。蚩尤である自分でさえ目で追うのがやっとだったのだ。それを『この程度』だと?

「今の瑛藍は、実力の一割も出していませんよ」

 そこでやっと信は王騎がこれまで言ってきた言葉の数々を思い出した。
 副官騰に加えて、瑛藍を本陣に残してきた意味。そしてこの戦場に連れてきた意味を。

 暫く黙っていた瑛藍は、自分を見て呆然とする信と目を合わせ、「あー、」とか「んー…」と煮え切らない声を発した後、座り込む彼に手を伸ばした。

「身体の使い方がなってない。力はあるんだから、もっと身体の仕組みを理解して使ったら今よりも良くなると思う」
「え………」

 助言とも取れる科白に、信は思わず声が漏れた。女を見ればうっすらと頬が赤くなっている。

「………へっ!」

 信はガシッと差し出された手を掴んで立ち上がると、「また手合わせしてくれ! 瑛藍!」と吼えた。

「言っとくけど、わたしはまだお前のこと認めてないし。だから名前だって呼ばない」
「はぁ!? ここはもう名前で呼ぶところだろ!?」
「うるさい。言っとくけど、殿から隊名つけてもらったくせに、その信頼を裏切ったら許さないから!」

 最後の最後まで挑発するような台詞を吐くと、「行こ、殿。騰がお腹空かせて待ってるよ」と王騎の手を引いて左軍から去っていった。
 残された飛信隊は嵐のような二人に終始驚きっぱなしだったが、瑛藍の存在は強烈だったらしく、一度の対面で忘れられない人となったのは言うまでもない。