漸く禍燐本軍の後ろに着くと、瑛藍は雄叫びすらあげずに静かに敵を屠っていく。切れ味抜群の斬馬刀によって、完全に隙を突かれた禍燐軍の兵士達は、血飛沫と共に首が地面に落ちていく。
禍燐が
「………やられたな」
「へ?」
「ったく、項翼のバカは何やってんだよ。みすみす
バミュウの頬を叩きながら、禍燐は口元を歪ませる。そうしている間にも瑛藍は自分の元まであと少しの所に迫っていた。
「見つけた………! みんな、くたばんなよ!」
「「「ハッ!」」」
部下に声をかけて士気を上げると、瑛藍は血で汚れた頬をごしりと擦った。「
拓けた道の先に、禍燐の姿を捉えた。ドクドクと心臓が激しく波打つ中、禍燐に向かって一直線に突き進んだ。
「禍燐!」
「来たか……」
「ここはっ……通させない!」
ギィィン、と刃が交わる音がやけに耳に残った。
「瑛藍!?」
「隆国! ぼうっとしてないで隊列組み直せ! 綻びをそのままにしておくな!」
「!」
言われた隆国はすぐ様隊列を組み直し、禍燐と対峙する瑛藍を見る。体格が全く違うはずなのに、力の差があまり感じられない。だが少しずつ、少しずつ瑛藍の方が押し負けているのが見て取れる。
すると後方から玉鳳隊が禍燐本軍の背後を狙ってやって来た。
「禍燐様ァ! 他にも新手が……」
「…………」
「後ろに」
バミュウの報告に禍燐はその頭に拳を振り上げるが、男は咄嗟に避ける。その間にも瑛藍の攻撃はやまない。
「んーーー……」
禍燐は暫く考えた後、場所を変えると言って力任せに瑛藍を押し下げ、本軍を率いてこの場から去った。追いかけようとした瑛藍だが、ここで考え無しに行っても意味がないと馬の脚を止める。
「瑛藍!」
「隆国……怪我は?」
「大したことない。それよりお前は…」
「わたしも大丈夫。ただ、禍燐の目的が分からない以上安心は出来ない」
一息の安堵もつけぬまま休息を取っていると、戦場に雄叫びが轟いた。この異様な歓声に瑛藍の表情にも笑みが浮かぶ。
「あの方角だと蒙武将軍か。やってくれたんだね」
蒙武を先頭に、その本軍は完璧に汗明中央を撃破。汗明軍の横陣は真っ二つに切り裂かれたのである。
その最中、
それはもはや、再起不能な程の打撃であった。
函谷関攻防戦十五日目。合従軍側が決戦の日と銘打ったこの日、蒙武VS汗明の戦場は、蒙武軍の勝利が確定したのである。
「(それにしても……禍燐は一体何をしに此処へ来た? ただ戦力を削ぐためなら、別にわざわざ禍燐本人が来る必要なんてなかった。あの象だって、あれだけでも充分威力はあったのに、結局はただの目くらまし――。あの女の真意が見えて………いや、待って)」
「っ……そういうことか……!」
「騰!」瑛藍は喉の痛みを堪えながら、悲鳴のように彼の名を呼んだ。
「――何だと?」
「だから、禍燐がここで取った行動は全部まやかし、目くらましだったの! 合従軍の――禍燐の狙いは“函谷関の突破”。つまりあの女は、少数精鋭で函谷関を攻めに行かせてんだよ!」
瑛藍の見解は、正しく一本筋が通っていた。その通りならば禍燐の行動全てに納得がいくし、今までの動きにも繋がる。
「どこから攻めようとしているのかまでは分からないけど、もしも裏から来られたら……」
「新たな敵勢力に、秦はなす術が無くなるというわけか」
「そう。今から加勢に行っても間に合わない……っくそ……!」
ダンッと自分の膝を殴る瑛藍。騰は「落ち着け」と声を掛けるが、それが気休めにしかならないことは彼自身にも分かっていた。
それからどれほどの時が経っただろうか。空は茜色に染まり、楚軍の残党を討つ騰軍に吉報を知らせる狼煙が上がった。
「あれは……」
「敵国側の狼煙だ! でも意味までは……」
「騰様! 函谷関は死守! 函谷関は王翦軍によって死守されましたァ!」
「――――!」
「ッ……よ、よかったぁ……!」
やっと肩の力を抜くことが出来た瑛藍は、ここへ来て喉の痛みを思い出して強く咳き込む。それでも彼女の表情には笑みが浮かんでいた。
その日の夜は皆、笑い声を上げながら酒盛りしていた。何せ燕軍を除く他の合従軍が開戦前の位置まで退却したのだ。これはつまり、今日の李牧の作戦が失敗したことに他ならない。
瑛藍もあの李牧の鼻っ柱が折れたことで、機嫌も絶好調だった。
「何にせよ、これで函谷関を落とすのは極めて難しくなったね」
「ああ。だが……気づいているか?」
「……それ、誰に聞いてんの」
当たり前でしょう、と瑛藍は盃を傾ける。喉が痛いためただの水だが、それでも潤すには充分だった。
「あの男が動いていない」
「…早ければ今夜にでも動いていそうだが、どう見る?」
「どうもこうもないよ。今夜か、明日か、それは分からないけど……確実に近日中には動くね、彼奴は」
どこまで戦況を読んでいるのか、あの男の考えていることを細かく計算して推し量るのは酷く難しい。何せあの王騎をも喰らった男だ。
だが、それでも。
「動く時はすぐに指示をちょうだい、騰」
「当たり前だろう。彼奴の首を獲るのは自分だと、殿に宣言していたのだからな」
「覚えてたんだ?」
「殿に関わることで忘れたものなど一つもない」
「さすが」
戦場でも交わした時のように拳を合わせれば、互いの熱がぶつかった所から伝わる。
――戦場に身を置く騰軍は、本殿から届く報せを聞くまでは暫く大々的に動けなかった。