その声は、まるで光だった


 それから特に何事もなく二日が過ぎた。咸陽からの報せも無く、兵士達は疲弊した身体をゆっくりと休めることが出来た。
 しかし実際には“何事もない”というのは語弊があった。この時には既に李牧が各国から兵を引き連れて咸陽から南に位置する、いわゆる南道を進軍していたのだ。

 次々と落とされる城に、焦りを覚えた正殿にいる文官達だったが、ここで漸く別働隊――李牧の存在に気がついた。が、既に時遅し。彼は大戦二十日目にして南道の中の中都市“仁糸じんし”を攻撃しつつ、兵士のおよそ半分以上はその横を通過し、咸陽を目指していたのである。

 “仁糸”を超えたとなると、もう咸陽までは目と鼻の先。何か策を打たないと本当に秦国は呑み込まれてしまう。そんな窮地に、知らず知らずの内に秦はいた。

 その窮地に光を指したのが、戦場に居たはずの羆公軍だった。将軍・麃公は見逃さなかったのだ。合従軍各軍から千人ずつ選出された部隊が、李牧軍の元へ向かうわずかな砂煙を。
 信は麃公が何かを感じ取り、かつ己もそれと同じようなものを肌で感じ、一緒に着いて行ったのだが、それがまさか――李牧軍と対峙することになるとは思わなかった。







「人使いが荒い奴め」
「そう言って、めちゃくちゃ嬉しそうじゃねーか」
「うるさい」

 左迅の揶揄う科白にイラッときたのか、持っていた斬馬刀を彼の頭の上に振りかざす。するとわざとらしく「すいやっせーん!」と軽い謝罪の言葉を男は口にした。


 ――昨晩。騰は瑛藍に命を下した。

「瑛藍」
「なに……って、どうしたの」

 珍しく固い表情の騰に、瑛藍は持っていた盃を置いて目を合わせる。

「今すぐ南道に向かえ」
「南道? なんでそんな所に……、まさか…」
「そのまさかだ。早馬からの伝達によると、李牧が数千の兵を引き連れて南道から咸陽を目指しているらしい」
「あーーっくそ、盲点だった…。まさかそっちから攻めてくるなんて…」
「既に麃公軍と飛信隊が向かっている。その後をお前にも追いかけてほしい。……頼めるか」
「誰に聞いてんの、それ」

 ニヒルに口元を歪ませると、置いていた盃を持ってグイッと中身を煽る。濡れた唇を乱暴に拭い、ダンッと荒く盃を置いた。

「当たり前でしょう。この瑛藍が生きている内に、これ以上彼奴らを土足で踏み込ませたりなんてしない」

 だから、遠慮なくどうぞ。
 優しく笑う少女に、騰はもう何の不安もなかった。

「瑛藍よ、己の隊を率いて南道へ行き、麃公軍、飛信隊と合流して李牧を討って来い!」
「了解!」



「――瑛藍様!」
「なに」
「あちらを!」

 部下に促され、意識をしっかりと持ちながら目線を移すと、そこには数十にも連なる兵士達が殺されていた。地に落ちた旗には“麃”の文字が。

「麃公軍か……。ここで李牧と会ったんだね」
「将軍はご無事でしょうか」
「……分からない。けど、先を急がなきゃ」

 瑛藍隊は道を走らず、木々の間を通って先へ進んでいた。全ては李牧に見つからないようにするため。目指した先で麃公軍と飛信隊が李牧と戦っていれば、それに意表をつく形で戦闘に入ればいいし、もしも、もしもどちらかが朽ちてどちらかが李牧よりも先に行っていればそれに合流すればいい。
 だからこそ、李牧には見つかるわけにはいかなかった。

 それが功を成したのか、李牧軍には見つからずに先へ進むことが出来た。途中で見つけた時は戦っている素振りを見せなかった為、やはりどちらかが死んでしまったのだと結論づけ、李牧軍より先に着くよう馬を急がせたのだ。

 着いた城は“さい”という、南道にある最後の城だった。城門は閉まっており、中に入れない。どうしたものかと悩んでいると、中から信じられない程の歓声が聞こえてきた。

「―――? なに、これ」
「中には一体誰が……」

 暫くすると轟くような歓声は止み、忙しなく走り回る音が地響きで伝わってきた。上からも声が降ってきて、門から下がって見上げてみれば、城壁の上で隊列を組んた兵士達が並んでいた。

「声出したら聞こえるかな」
「いや、お待ち下さい」
「うん? ――なに、この音」
「北門の方からですな。つまりは反対側」
「咸陽の方からか……。援軍?」
「と、考えるのが妥当でしょう」
「だったら早い所合流しないと。わたし達込みの策を立てないと、李牧より先に来た意味がなくなる」

 ドガラ、と馬の足音を立てると、瑛藍は目一杯息を吸って城壁の上に向かって声を出した。

聞こえるか!

 突如聞こえた女の声に、「何だ何だ?」「南からだぞ!」「誰だ、あの女」と城壁の上では戸惑いの声が広がっていく。そのうちの一人が中に向かって「南門に女がいるぞォ!」と声を上げた。
 それは信や、咸陽から自ら戦いに来た瓔政の耳にも届いており、動揺を見せる。が、次に聞こえてきたのはその“女”の声だった。

わたしは騰軍、瑛藍! 騰の命により、援軍に参った!

 「――まさか…!」河了貂は目を輝かせて南の方角を見やる。信も信じられないとでも言いたげな表情で同じ方向を見つめた。
 誰かが開門したのだろうか。ドドドド、と地を蹴る音が体に響く中、自分達の目の前で馬が止まり、先頭にいた女がバッと馬の背から降りる。そこには貂や信の予想通りの人物がいた。

「お待たせ…って、居たのは飛信隊か。てことは…(やられたのは麃公将軍か…)」

 地に落ちた旗を思い返していると、「な、え、ハァ!? 何でお前まで!」と動揺する信に詰め寄られる。それを「近い、離れて」とピシャリと跳ね除けると、漸く嬴政――つまり大王が居ることに気がついて、流れるような動作で拱手する。

「失礼な態度、誠に申し訳ございませんでした。まさかこの地に大王様がおられるとは思いませんでしたので」
「いい、構うな。そのかしこまった態度もいらん」
「そうですか? では」

 遠慮なく、と拱手を解くと、軍師学校で共に議論し合った講師の介億や、貂、それから蒙毅達まで居て驚いた。

「何でいるの?」
「それはこっちの台詞! 何でここにっ……そもそも戦場だって離れてるのに!」
「騰が素早く指示をくれたし、咸陽から早馬も届いていた。それに――李牧が動いたなら、わたしが動かずに誰が動くのさ」

 絶対的な自信を持つ瑛藍に、もう誰も口が開けなかった。



「あー、瑛藍サマ」
「なに、左迅」
「……頼むから理性飛ばさんでくれよ」
「いつわたしが理性飛ばしたよ、言ってみろ」
「左迅、口が過ぎるぞ」
「んだよ右舷、お前だって――」
「二人とも黙れ。……来たぞ」

 李牧軍がいる眼下を見下ろす。向こうからはまだ自分がいることすら知らないだろうと、瑛藍は様子見しながら李牧が何を言うか黙っていた。
 前に出てきた李牧は、城壁の上で雄叫びをあげる武装した一般人をすぐに見抜き、まずは彼らの士気を下げることにした。

「趙、三大天・李牧である! 蕞の人間に告ぐ!」

ビリビリとした威圧が、下から放たれる。

「一般人でありながら武器をとった勇気、この李牧、敵ながら感服致す」
「(うわ、すぐバレた)」
「だが、蛮勇だけで戦が出来ると思っているのなら、勘違いも甚だしいぞ!」

 あれは確実に士気を下げにきているな。瑛藍は苦く笑いながらも、だが、と否定した。
 ――もう手遅れだ、李牧。何故ならここに居る人間はもう命を投げ打つ覚悟を持ってしまった。それも秦国で頂点に立つ人が共に戦い、血を流してくれるとまで言ってくれたのだ。そう簡単に彼らの覚悟を打ち砕くことは出来ない。

 それに、と瑛藍は塀に立った男を見た。傷だらけで、きっとボロボロになりながらもここに辿り着いたのだろう。麃公を置いて、ここまで。
 苦痛だったに違いない。立ち止まりたかったに違いない。それでも彼は、飛信隊は前へ進んだ。

 そんな彼の言葉にも、重みがあった。

「ごちゃごちゃうるせェぞ、李牧! てめェの下らねェ口車になんか誰が乗るか!」

 「挑発してくれちゃって」と呆れたように項垂れるが、その口元にはしっかりと笑みが浮かんでいた。

「残念だが、お前の揺さぶりは俺達には通じねェぞ! なぜなら、全員の命を投げ打ってでも戦う理由が、蕞にはあるからだ!」

 心が奮い立つ。

「さっさと登って来やがれ! この蕞は何があろうと、絶対にてめェらには落とされねェからなァ!」

 信の叫びによって、さらに火がついた蕞の者達は皆、拳を突き上げて雄叫びをあげた。地が揺れ、異様な圧が李牧軍を襲う。

「わたしの出る幕なかったな」
「カカカッ、悪いな。出番奪っちまってよォ」
「黙れ」

 ガンッと容赦なく笑う信を殴ると、瑛藍は隊を引き連れて持ち場へ帰る。

 ――激動の幕が上がろうとしていた。