約束をしよう、また明日と


 一方、信は趙の三千将である傅抵に対して苦戦を強いられていた。自分よりも素早く、剣を振る隙さえ与えてくれない。信にとっては“やりにくい相手”だった。

「(動きが速すぎてとらえられねェ。どんなに剣を速く振っても当たらねェ)」

 そこで信はふと自分の副長である羌瘣きょうかいを思い出す。彼女も目の前の男と同じくらい速かった。
 一度羌瘣を思い出せばすぐだった。自分は教わっていたのだ、羌瘣から“速い敵と対峙した時の戦い方”を。そのおかげで信は傅抵の誘いに乗らず、自慢の力で吹き飛ばすことが出来た。

「随分軽ーんだな、三大天ってな! 瑛藍アイツの方がよっぽど重かったぜ!」

 その後信は、河了貂が敵に攫われそうになっているのを見つけ、すぐ様助けに向かった。


 ――それから暫くして、遅れて到着した瑛藍は気絶から復活したばかりの傅抵を見つけた。ふらふらと身体を揺らしながらも、何やら揉めている信達のところへ行こうとする男に、左迅と右舷はちらりと隊長を振り返る。そしてすぐにニヤリと口角を吊り上げて、同時に道をこじ開けた。

「ウオォォ!? 何だ!?」
「戦場で余所見なんてよっぽど余裕なんだね、お前」
「――――!」
「わたしとも遊んでよ」

 ドガシャァァンと激しい音が辺りに響き、戦っている者達の手が自然と止まる。皆の目線が集まる先には、瑛藍の斬馬刀と傅抵の剣が拮抗していた。

「ぐ、ゥッ……!」
「なに、弱いねお前。そんなんじゃあ――隗月これの錆落としにもならないんだけど!」
「ッルセェ! 何なんだよこのクソアマァ! どけコラァ!」
「目の前で叫ぶなよ。余計に弱く見えるでしょう?」

 すっかり頭に血が上っている傅抵に、なおも挑発する瑛藍。まだまだ余裕そうな女に、傅抵のイライラボルテージもどんどん上昇していく。

「まさか、お前が王騎の狗か!?」
「そう呼ぶ人もいるけど」
「ハッ……んだよ、あの王騎の狗ってのがどんなもんかと思っていれば、こんなクソチビとはなァ!」
「――――……」

 「あーあ」左迅は瑛藍と傅抵に兵士を近づけないようにしながら、聞いていた会話に声をあげた。右舷も「終わったな、アイツ」と面白そうに呟きながらも敵を殺す手は止めない。
そんな二人を他所に、瑛藍は強く奥歯を噛んだ。

「しかもその王騎も、うちの李牧様にあっさり負けちまったし。大したことねェんだな、秦の六将も」
「………………」
「所詮、王騎ってのはそこまでの奴だったってことだろ? それに育てられた狗って、正直あんま怖くな――」
「そろそろ黙れよ」

 ギャリリリッと刃と刃が滑る音が傅抵の口を閉ざした。バッと後ろに下がって瑛藍の顔を見てみれば、紺藍色の瞳に宿る光がゆらりと揺らいだ。

「殿の名前をこのわたしの前で出して、あまつさえ侮辱したんだ。――楽に死ねると思うなよ」

 気がつけば目の前に瑛藍の顔があって、気がつけば喉から血が吹き出していた。薄皮一枚で躱したが、反応が少しでも遅れていたら自分は死んでいたかもしれない。
 そんな恐怖が傅抵を支配する中、瑛藍は地面を強く蹴って再び男の前に現れると剣を持つ腕めがけて刃を振り下ろす。傅抵はほとんど反射でそれを避けるが、燃えるような痛みが腕を襲う。見れば想像よりも深く抉られ、ぼたぼたと石畳を血で濡らしていた。

「殿は凄い人だった。殿はまだ死ぬべき人じゃなかった」
「(ッくそ、この女っ……こんなに強ェのかよ!)」
「それでもあの人は、後悔することなくこの世から去ったんだよ」
「ッ……クソがァァ!」
「それを! お前ごときが! ――汚してんじゃねーよ!」

 瑛藍が力一杯傅抵を退けると、彼は城壁との距離感を掴み損なったのかそのまま下へと落ちていく。「傅抵が落ちるぞォーー!」と男の叫び声と何かにぶつかった音がするから、恐らく死んではいないだろう。
 殺し損なった、と不満気に舌を鳴らした瑛藍は、虫の居所が悪そうに周囲にいる敵兵に向かって斬馬刀を振りかざした。



 その日の夜、やはり李牧軍からの圧力はあったが、こちらも半数を休ませると指令があった。当然といえば当然である。
 瑛藍はその半数の中に入らず、一段高いところへ登って南道を眺めていた。しばらくすると、ところどころで歓声が上がる様子が見て取れる。じっと見てみれば、松明の光に照らされながら歩いている大王・嬴政の姿があった。

「……なるほど。どうせ寝れないなら、大王御自ら労いを、ねぇ」

 そういえば、最終的には殿もあの王を認めていたなと、瑛藍はふと思い出す。

「殿ならこの局地……どうしてたのかなぁ……」

 なんて、想像してもしょうがないのだけれど。人知れず苦笑すると、瑛藍はグンと伸びをする。

「――瑛藍」
「……わたしにまで労いは不要ですよ、大王様」
「そんなかしこまんなよ! な、政」
「ああ。それに、俺はお前とも話をしてみたかった」

 やって来たのは今まさに思い描いていた人物である嬴政と、飛信隊の信だった。瑛藍は無意識に息を吐くと、腰からぶら下げていた酒を取り出して二人の目の前でちゃぽん…と揺らす。

「それなら、ご一献どうです?」




 三人で盃を交わし、一気に煽る。カーッとした熱さが喉を通り、信は「く〜〜〜っ」と実に美味しそうな声を出した。

「ウメェ! 何だこれ!」
「殿秘蔵のお酒。戦に行く時はいつもこれを持って行ってたから、わたしもつい持って来ちゃって」
「王騎将軍の……」

 嬉しそうに笑う信にもう一献注いでやると、なんともいい飲みっぷりで酒を煽った。

「正直、この“蕞”にお前が来てくれて本当に助かった、瑛藍」
「勿体無きお言葉です」
「……その、かしこまった喋り方はいい」
「?」
「…俺とも普通に話して欲しいのだが」
「いやいや、仮にも大王様に向かって――」

 へらりと笑って誤魔化そうとする瑛藍に、政は頼むと頭を下げる。流石にそこまでされては断れないと、少女はしぶしぶ頷いた。

「そもそもわたしだって驚いたんだから。麃公将軍か飛信隊のどっちかがいるのかと思ったら、まさかの大王様。予想外れもいいところ」
「そうなんだよ! けど……そのおかげでこうして戦えてるんだよな」
「“蕞”の一般人をまとめ上げて兵士にするなんて芸当、大王様以外出来なかっただろうからねぇ」

 先程とは打って変わり、兵士達は眠らずに肩の力を抜いて語り合っている。その光景にホッとする自分がいた。

「李牧でさえまだ気がついていない。これが一番大きい」
「気づくかァ?」
「いつかは気づく。それが一体いつになるかは分からないけど、恐らくそう遠くない。……あの李牧は恐ろしく頭がキレる。きっと今だって疑っているはずだよ。『“蕞”の士気を上げているのは誰だ』って」

 いくら箝口令を敷いているとは言え、それだけでいつまでも李牧を欺くことは出来ない。明日にでもあの男は予測を立てているかもしれないし、もしかすると今この瞬間思いつくかもしれない。
 そんな瀬戸際に自分達は立っているのだ。

「ここからの戦局をどう読む?」
「大王様まで……わたしを軍師か何かと勘違いしてません?」

 まぁいいですけど、と瑛藍はぐるりと城壁を見渡した。

「意外にも縺れると思いますよ。それは今さっき、貴方がその力を“蕞”の人達に与えた」
「与えたって、俺は話をしただけだが?」
「それが民衆にとっては、何においても変えがたいものなんですよ。大王様といえば、我々からしてみれば雲の上のお方。そんな人に声をかけられ、手を取られ、労われれば嫌でも士気は上がり、もう無いはずの力を振り絞って敵へ立ち向かう」

 酒の香りがふわりと鼻孔をくすぐる。世闇の中でも少女の薄藍色の髪はよく映えた。

「どれだけ痛くたって、辛くたって。人は目的や願いのためなら頑張れるんですよ」

 それは、兵士でも民衆でも変わらない。等しく与えられた感情。


 そして翌日。
 瑛藍が言った通り、心身共に力尽きたと思われた民兵達が敵を押し返した。それは四方全ての城壁の上で等しく起きたのである。
 “蕞”はここにきて再び息を吹き返し、押し寄せる李牧軍を真っ向からはねのけ始めた。