せめて、最期に見るならば


 六日目の“蕞”の朝は、これまでの朝と大きく違っていた。声もなく、足音すら響かない。ここまで気力だけで戦ってきた民兵達は、その拠り所であった政が倒れたことで、抜け殻のようになっていた。
 惰性で配置についてはいるものの、戦意そのものが“蕞”から消失していた。

 そんな中、信は落ち込んでいる河了貂を励ましながら笑う。下を向いている場合じゃないと周りを盛り上げようとする彼は、突然響いた怒声に思い切り吃驚していた。見れば同じ配置に着く瑛藍隊からだ。

腑抜けた態度を取ってる奴はさっさと帰れ!

 「あれって……瑛藍?」貂は驚いた眼差しで彼女を見つめる。

「民兵達が力を振り絞ってここまでもつれこませた戦いを、お前達は無駄にする気!?」

 砂塵と共に薄藍色の髪がふわりと泳ぎ、より一層彼女の雰囲気を律させる。

「わたしは言ったはずだよ。勝たなきゃいけないって。咸陽を、殿が愛した秦国を、彼奴らに奪われてたまるかって!」
「「「!!」」」
「お前達は違うの!?」

 瑛藍とて、もう体力もろとも限界だった。いつ倒れたっておかしくない極限状態の中、それでも隊の者達に喝を入れる。
 全ては、秦を、そしてその地に住まう人々を守るため。

「この死地に、力ずくで活路をこじ開ける。みんなの背中にはわたしがいる」

 その科白は瑛藍隊も、そして信も聞き覚えがあった。

「いいですか、ここからが王騎軍の真骨頂です。――この死地に、力ずくで活路をこじあけます。皆の背には常にこの王騎がついていますよ」

 嗚呼、そうだ。あの人・・・の言葉だ。

「だから下を向くな。前を見ろ。敵はすぐそこにいるんだから。――勝つよ」
「「「オオオオオオ!!!」」」

 士気が上がり、熱気が立ち込める。これが先程まで戦意を消失していた者達だとは到底思えない。
 そんな男達の前に立つ瑛藍は、誰から見ても“将”だった。信はその姿に悔しさを覚えながらも、口元は弧を描いている。

「……へへっ、そうだよな!」
「信?」
「よォーし! 全力でぶつかりに行くぞ、テン!」
「ちょっ、信!?」



 一方、包囲する李牧軍側の様子も違っていた。それぞれの部隊に指揮を送りながら、秦王を逃すなと強く命令する。

「それから、あの王騎の狗であった少女を甘く見るな! 此度の戦で最も恐るべきは彼女の身体能力と、精神力! 生半可な者ではすぐに殺されると思え!」
「(あの・・李牧様でさえ、あの女を認めてるってことかよ……!)」

 傅抵は口を閉ざしながら、ギリリッ…と強く拳を握る。

「この一戦で全てを終わらせるぞ! 全員配置につけ!」
「「「オオ!!」」」

 それぞれが動き始める姿を見ながら、李牧はジッと南壁を見つめる。そこには確かに、薄藍色を風で遊ばせている少女がいた。

「(死ぬか、生きるか。貴女はどちらでしょうね――瑛藍)」

 ――激動の六日目が、始まった。






「手数が多いっ……!」

 何とか敵が登ってくるのを食い止めてはいるが、その数の多さに舌を鳴らす。味方兵を切らないように気をつけることですら、今は難しかった。

「南壁の右側が半ばまで制圧されているそうです!」
「それじゃあ、右からの攻撃に気をつけて! ここはこのままわたし達が食い止める! 階段は奪われるなよ!」
「ハッ!」

 そうは言ったものの、民兵達の士気が未だ上がっていない今、これ以上敵を塞きとめるのは不可能に近かった。何とか拠点は作られる前に潰せているが、それもいつまで保つか分からない。
 瑛藍隊の精鋭である海羅や左迅、右舷達だって疲労の色が隠せていない。それを無理やり押し込めて、この場所へ立っているのだ。

 このままでは押されてしまう。焦りで斬馬刀を強く握った――その時だった。ドオオ! と振動するような大歓声が空まで轟いた。目が冴えるようなそれに瑛藍は目を向けると、そこには“秦”の旗を掲げた騎馬隊がいた。

「あれは………大王………!」
「ハァ!? 瀕死じゃなかったんすか!?」
「昨日は確かに瀕死だったはずなのに……。…いや、あれは虚勢だ」
「では、立っているのもやっとの状態だと?」
「多分ね。隠す必要のなかった素顔をここで晒すことで、失っていた民兵達の戦意を上げて、士気を高めた」

 殿。貴方が認めた人は、確かに凄い人でした。
 漸く瑛藍の顔にも笑みが浮かぶ。すると遠くから信の叫ぶ声も聞こえてきた。

「……ここが、正念場か」

 ぼそりと呟くと、瑛藍は斬馬刀を空へ突き上げた。

瑛藍隊! ――死ぬ気で踏ん張れよ!
「「「オオオ!!」」」

 敵の介入が少なかった北壁にいた兵士達を、西と東に振り分けることで絶妙なバランスを保たせていた介億。だが、そんな彼でも反対側に位置する南壁までは目が届かない。つまり、援軍を送れなかった。
 その心配をよそに、当の南壁では次々に敵兵が送り込まれているにもかかわらず、開門には至っていない。それはひとえに瑛藍と信の存在のおかげだった。

 二人は声すら発することなく、向かってくる敵を討ち倒す。とうに限界を迎えてもおかしくないはずなのに、二人は止まらなかった。

「瑛藍様!」
「近づくな、海羅! 今の瑛藍様には、聴こえていない」
「だがっ……!」
「いーから。……俺達は、少しでも瑛藍サマの負担を減らそう」



 ──それから、どれほどの時が経っただろうか。気がつけば陽は沈み、夜の暗闇が訪れていた。
 瑛藍は城壁の上で座り込み、肩で息をしている。

「瑛藍様、お水です」
「ん……………」

 返事はあるが、差し出された水を飲もうともしない。

「…みんな、ぶじ……?」
「っ! はっはい! 数名亡くなった者もいますが、ほとんどは生きております!」
「そ、か……、そっか……」

 もう髪も甲冑も血と泥で汚れている。瞳を閉じながら、瑛藍はふと思った。

「(こんなに疲れたの、いつ振りだろう……。戦ってる間、誰の声も聞こえなくなって、気づいたら夜になってた)」

 死んだのは誰だろう。
 探しに行かなくては――彼らが生きた証を。

 やがてゆっくりと身体を起こすと、立ち上がってふらふらと彷徨う。

「瑛藍様!? どちらへ……!」
「死んでしまった奴らのところへ、案内して」

 静かな声だった。けれど否とは言わせない力強さもあって、男は断れず先頭を歩く。着いた先には、遺体が複数並べられていた。
 一人一人顔を見ながら、その場に座り込む。首を斬られた者、心臓を討たれた者――…。そんな彼らを前に瑛藍は堪えきれず、涙を流した。

「ごめん、なさい…ごめんなさいっ………! わたしが未熟だったから、わたしがもっと強ければっ!」

 大粒の涙が地面を濡らし、まるで雨のように降り注ぐ。その姿を見た者達は、誰も口を開くことが出来なかった。
 いくら気高く、強くたって、彼女はまだ成熟しきっていない少女だ。仲間の死に慣れることはなく、特に今は精神さえぼろぼろで、いつもの気丈な自分を保っていられなかった。

「みんなで、咸陽に……城に帰ろうって、約束したのに……っ…! うっうぅっ……え、えっ……ふっ……」

 周りには瑛藍隊が彼女を囲む。泣いて蹲る少女の姿に、男達は場違いにもこう思ってしまった。

 ――死ぬのなら、最期に見るのは彼女がいい。
 それがどれだけ少女に悲しみを抱かせてしまうと分かっていても。そう願わずにはいられなかった。

 瑛藍の泣き声は夜遅くまで続き、やがて事切れたように彼女は眠りについた。