か細い糸を手繰り寄せたの


 “蕞”での戦が始まって七日目を迎えた。この日が“蕞”の戦いの――いや、この合従軍対秦国の大戦の、最終日となる。


 早朝、日が昇る前に起きた瑛藍は、眠っている人の間を縫って南壁に立つ。南道を見下ろせば、そこには馬に乗った一人の男がいた。こうして顔を合わせるのは何度目だろうか。

「おはようございます、瑛藍」
「挨拶だなんて、随分と余裕だね。李牧」
「余裕があるように見えますか?」
「強いて言うなら、いつもより焦っているように見えるかな」
「焦っている、ですか……」

 その通りだった。言い当てられた李牧は、笑いながら肯定した。

「なかなかどうして、二日ももたないと思っていたんですけどね」
「あの李牧の予想を覆せたんなら良かった」

 淡々と話す瑛藍だが、その手は小刻みに震えていた。それは李牧の位置からは見えないことが幸いだったが、あともう少しでも近づかれれば気づかれていたに違いない。
 もう力が入らない。武器だってまともに握れるかどうか分からない。――それでも、戦わなければならない。

「……ずっと、貴女に言いたいことがあるんです」
「嫌な予感しかしないから、そのまま言わないでおいてくれる?」
「相変わらず冷たいですね」
「お前に対する優しさなんて持った覚えはないわ」

 飛び交う会話は、とても敵同士には見えなかった。ここに信や政がいたらきっと怒鳴られていたに違いない。李牧の首を狙う絶好のチャンスなのに、どうして行かないんだと。

 瑛藍は自分の状態を客観的に捉えていた。その上で彼女は、今の疲弊しきった体では李牧との一騎打ちに負けてしまうと分かっていた。

「いつまで足掻くんです?」
「うるさいな。ずっとに決まってんでしょう」
「ですが、聡い貴女ならもう感じているはずだ。この城が今日、落ちると」
「………………」

 言い返せなかった。だって本当に瑛藍は感じていたから。
 今まで細い糸で繋がっていたものが、昨日でぷつりと切れてしまったのだ。民兵達を支えていた士気も弱まり、それにつられるように各兵士達も連戦続きだった体にガタがきてしまっている。

「それでも貴女は、戦うのですか?」

 その質問に、瑛藍はそっと目を閉じた。







 城壁に上がってきた敵兵から、何としてでも階段を死守する兵士達。けれど彼らの士気は当初よりも落ち、か細い糸と精一杯の虚勢でなんとか保っているようなもので。
 その隙を見逃す李牧ではなかった。“蕞”が揺らぎ出したことに気がつくと、包囲部隊に今一度伝令を送り、『一人も逃すな』と改めて告げた。ここで確信したのだ――落ちる、と。

 それは激化する戦場にいる瑛藍と河了貂も感じ取った。物見櫓に居た貂は「政、もういい! ここにっ…上に来るんだっ!」とこの場において最も重要な人物である嬴政を呼ぶ。その科白に信は舌打ちし、いよいよここも危ないことを悟った。

「ハッ、はぁっ……! ッ……西が危ない……!」
「援軍を送りますか!?」
「いいや、もう今から行ったって間に合わない!」

 どうすればいい。瑛藍は流れ落ちる汗をぐいっと拭いながら考えた。だがどの策ももう間に合わず、何をしたって城門が開いてしまう未来しか見えなかった。

「――ああっ………!」

 その声は、一体誰の声だったのだろう。ついに城門が開いてしまった。

「終わりだ……」
「“蕞”が落ちてしもうた…」
「う、ううっ……うぐぅ〜〜!」
「くそっ…そんな、」

 泣き崩れる音がどんどん聞こえてくる。悲しい慟哭だ。まるで――まるで、あの日・・・のようだ。
 瑛藍は俯かず、落ちた西側を見やる。すると山の向こうにうっすらと何かが見えた。

「あれは…」
「どうしたんだ? 瑛藍サマ」
「左迅、あれは――何?」

 指を差した先にいたのは、見たことのない仮面を付けた者達だった。
 そう、彼らはかつて嬴政や信達と共に玉座奪還に赴いた山の民だ。その縁に頼り、嬴政は咸陽を出る前に山の王・楊端和の根城へ伝者を送っていたのだ。

「あれは山の民です」
「山の民? 大王様が玉座奪還の時に一緒に戦った……あれが?」
「はい」
「いやぁ、……粘り勝ちっすね、俺達の」

 左迅と右舷の間に立つ少女は、ゆっくりと顔を下に向ける。二人の男はそんな彼女を労わるように、震える肩にそっと寄り添った。

「みんなっ……! みんなの死は、無駄なんかじゃなかったよ……!」

 そう言って顔を上げた少女の瞳は、少し涙で滲んでいた。



 山の民が援軍として来てくれたことで、戦況が大きく変化していく。李牧ですらこれほどの脅威ある存在を予測することは出来なかったらしく、対応に遅れてしまった。
 絶対的な実力を誇る山の民。彼らは一瞬にして李牧軍を飲み込み、圧倒していた。

「すごいですね……。これが山の民の力…」
「あの李牧が完全に出遅れてるな」

 海羅ですら目を疑う光景だった。左迅は今にも口笛を吹きそうなくらい、少し声が上ずっている。右舷がちらりと瑛藍を見ると、次に彼女の目の先を追った。

「…李牧がどうかしましたか?」
「いいや。ただ……あの男も今頃焦ってるんだろうなと思って」

 正しく瑛藍の言った通りだった。李牧は山の民の存在を周知していなかった。彼自身匈奴と戦い続けていたこともあり、異民族が助けに来るという行為自体頭になかったのだ。
 そもそも玉座奪還の際に起きたあらゆることは全て箝口令が敷かれており、徹底した情報統制が行われていた。故にその時に起きた山の民との共闘を、李牧は知らなかった。

 しばらく山の民達の戦いを見守っていた瑛藍。彼女には李牧の葛藤が痛いほどわかった。――だが、ここであの男が取る指揮など最早一つしかない。
 その号令を今か今かと待っていた時――それは起こった。――フォン!ととてつもない斬撃の音が鳴り、周囲の山の民が一瞬にして屠られていく。その様を見た瞬間、瑛藍はすぐに走った。

「瑛藍様!? どこにっ……」
「下!」

 けれどどこもかしこも人だらけで、まともに進めやしない。漸く下に降りれても、馬がなければ意味がない。だがどこにもまともに戦える馬などおらず、瑛藍は歯がゆそうに壁に拳をぶつけた。

「くっそ! あそこにアイツが――龐煖がいるのに!」

 自分が殺さなければならない。李牧もそうだが、龐煖も殿を殺した一人だ。のうのうと見ていられるわけがない。
 沸き起こる怒りにもう一度拳を叩きつけようとした時だった。ヒヒン、と馬の鳴き声が聞こえた。

「あ………」

 ブルルッと鼻を思い切り鳴らすのは、間違いなく自分の愛馬だった。気高くこちらを見つめる眼差しに手を伸ばすと、それにすりつくように馬は目を閉じる。

「一緒に、戦ってくれるの?」

 もちろん、とでも言うように自分を見る瞳に応え、瑛藍は軽やかにその背に乗る。しっかりと前を見据え、少女は口を開いた。

「お願い! わたしを――」

 龐煖のところまで!



 最強の男、龐煖に一騎打ちに持ち込んだ信は、何とか男を下馬させることが出来たが、たったの一撃でアバラを折る重症を負ってしまった。呆気なく横たわる信に、李牧軍の兵士達は嘲笑う。そんな彼らを他所に、信は荒い息を吐きながら震える足で立ち上がった。
 もう一度武器を構え、戦う姿勢を見せる信。それを迎え撃とうとする龐煖。そんな両者を止めたのは、この場に似つかわしくない少女の声だった。

「待って」

 現れたのは、薄藍色の髪に紺藍色の瞳を持つ少女、瑛藍だった。嬴政や信達もまさかここに彼女が来るとは思わなかったらしく、「何でここに!?」と戸惑いの色を隠せていない。そんな動揺を気にも止めず、瑛藍は馬から降りると信の肩に手を置いた。

「瑛藍、お前……」
「ごめん、信」

 彼女の口から謝罪の言葉が出てくると思わなかった信は、目を見開いて瑛藍を見る。けれど彼女の瞳はこちらに向いておらず、ただひたすら龐煖を見ていた。

「この男、わたしに譲って」
「ハァ!? 何でだよ! 俺が龐煖を――」
「お願い」

 その声に込められた熱が、伝染するように辺りに立ち込める。

「わたしは、殿を殺したこの男を……」

 ――ゆらり、と空気が揺らいだ気がした。

「わたしの手で殺してやる」