わたしはお前を越えて行く


「誰が、誰を殺すだと?」
「はぁ? 図体だけでかい男は耳も遠いわけ? わたしが、お前を殺すっつってんだよ」

 最初から口の悪さが全開の瑛藍は、愛馬を下がらせて紺藍の瞳に鈍い光を宿らせ、鋭く龐煖を睨む。

「貴様か、あの王騎の狗とやらは…」
「だったら何?」
「フン。あの王騎の狗がこんな小娘だとはな」

 馬鹿にしたような物言いに、武器を握る手に力が入る。

「……殿に勝てなかった奴が、よく吠えるね」
「なんだと?」
「殿に勝てなかった奴が、偉そうに喋ってんじゃねぇよって言ってんだよ。このクソ野郎」

 怒りが内から湧き上がる。血が沸騰したように身体が熱い。もう全身ズタボロなはずなのに、今だけは痛みなんて何も感じなかった。

「あの日、殿がつけられなかった決着を、わたしがつけてやる!」

 最初に一歩を踏み出したのは瑛藍だった。後ろ手に斬馬刀を持って龐煖の首目掛けて振り下ろせば、敵の持つ武器の柄で防がれた。そのまま吹き飛ばされそうになったが、足に力を集めて何とか耐えきると、止められている柄に刃を滑らせて懐に入る。
 しかし龐煖の反射速度も速く、気がつけば視界の端に大きな矛がすぐそこまで迫っていた。

「瑛藍!」

 遠くで信が自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、それに応えることは出来なかった。
 ボタタッと血が地面に滴り落ち、赤く染める。紙一重のところで躱したが、瞼の上を切ったらしく尋常じゃないほどの血が流れていた。

「瑛藍!」
「瑛藍様!」

 何度も何度も自分を呼ぶ声がたくさん聞こえる。そのおかげか、何とか意識を飛ばさずに肩で息をしながら立つ彼女は、光を曇らせることなく龐煖を見つめる。満身創痍なはずなのに、少女には一切の隙がなかった。

「道の何たるかを知らぬ貴様ごとき虫ケラが、ほざくな!」
「戦いに意味を見出さず、ただ強敵と戦う事のみに重きを置いているお前は、一生殿には勝てない! 例えどれだけ武の才があろうとも、心が強靭であろうとも! わたしはお前を、越えていく!」

 矛と矛がぶつかり合い、ガキン! と音を立てながら拮抗した迫合いが始まる。ズズズ、とずり下がる足に(今しかない…!)と覚悟を決めると、今ある全ての力を手に込めて地を蹴った。

「う、っ……く、あ、ああああああ!」
「!!」

 負傷していた脇腹の傷が開き、真っ赤な血が甲冑の下から地面へと落ちていく。次の瞬間、龐煖は後ろへ大きくはじき飛ばされた。

 ギョロっと龐煖の目が瑛藍に向くが、一瞬の隙すら与えずに彼女は男の胸元に斬馬刀を突き刺した。龐煖は瞬時に後ろへ下がることでそれを胸元から抜き取り、着ている布をはためかす。そのせいで視界が見えなくなるが、瑛藍は迫る気配に高く飛び上がると、手加減なく斬馬刀を振り下ろした。

「っ、っ………!」
「っ……調子に、乗るな!」

 振り上げた龐煖の武器の柄が脇腹に命中し、血飛沫を上げながら瑛藍は地面に強く叩きつけられた。ヒューヒューとか細い呼吸音が響く中、龐煖もまともに立っていられないのか、武器を支えにしながらもやっとのことで立っていた。
 地面に蹲りながらも、震える手を伸ばして武器を手に取ると、瑛藍は喉奥から絞り出すような呼吸で立ち上がる。堪らず咳をすると、大量の血が口から吐き出された。

「瑛藍! 代われ! それ以上やったら死んじまうぞ!」
「ヒュー……ゲホッゲホッ! ハァッ…しな、ないよ……わたしは、まだ…」
「瑛藍様、せめてご一緒に!」
「いらない。…そこで、みてて」

 右舷の台詞に首を横に振ると、しゃんと背筋を伸ばす。
 瑛藍自身、まさか自分があの龐煖に対してたった一瞬でも力で勝てるとは思わなかった。だが、はじき飛ばせた。あの武神を、この手で。

 目に力が入った龐煖に、必死に息を整えながらいつ男が来てもいいように、霞む視界でなんとか武器を構えた。

 けれど突如二人の間に騎馬隊が横行してきた。その時ですら隙を見せない瑛藍だが、やって来た一人の老将に目を細める。話を聞いていれば、龐煖に「退け」と言っているようだ。
 そのまま話は進み、龐煖も自身の中で納得したのかいつの間にか近くにいた馬に乗った。

「今一度だけ見逃す。だが、名を覚えておくぞ――瑛藍。そして、信」

 ドガラ…と馬の足音が遠ざかっていく。その後ろ姿に、秦兵達の歓声がドッと沸き起こった。

「やったーー! あの龐煖を退けたぞ!」
「ウオオオ!」

 喜ぶ飛信隊を無理やり押しのけて、前に出て来たのは瑛藍隊だ。彼らの姿を確認した瑛藍はやっと状況を理解出来たのか、がくりと足の力が抜けてその場に倒れる。寸前で海羅がその身体を抱きとめたお陰で地面にぶつかることはなかった。

「瑛藍様、瑛藍様!」
「聞こえますか、瑛藍!」
「出血量が多い! 急いで治療しないと死んじまう! 海羅、そのまま瑛藍サマを中へ運べ!」
「分かっています!」

 ああ、なんだかひどくさむい。
 喉から迫り上がる血を吐けば、更に周囲が慌ただしくなった気がした。

「右舷」
「ああ」
「「行くぞ」」

 瑛藍を抱いたまま走り去る海羅を背に、二人は向かってくる敵を見据えて立ちはだかった。


 “蕞”の戦いの結末については、『史記趙世家しきちょうせいか』の一文に一言で記されている。


『紀元前241年、龐煖は趙・楚・魏・燕の精兵を率いて、秦の“蕞”を攻めた。
――抜けなかった』



 咸陽でも今回の“蕞”での結末が早馬にて伝達され、正殿は歓声に包まれた。――ただ一人、呂不韋だけは険しい表情だった。


「死なないでください、瑛藍様っ……!」

 男の泣きそうな声が、歓声に掻き消された。