月に見守られて乾杯しよう


 瑛藍が目を覚ましたのは、“蕞”での戦いが終結してから五日が経った頃だった。薬の匂いが鼻腔をくすぐり、瑛藍は痛む身体を無理やり起こして周りを見渡した。
 どうやら自分が寝かされていたのは、王騎の城の医務室だ。見慣れた場所にホッと息を吐くが、突如慌てて布団から這い出て部屋を出る。

 彼女の記憶は龐煖との戦いで終わっている。つまりあの戦が最終的にどうなったのか分からないままなのだ。騰は? 録鳴未達は? 大王は? 秦は?

 そんな焦る想いのままに、医務室を飛び出していつも皆が集まる広間へ行ってみれば、そこには大人数の人が集まっていた。ガタッという音につられてそちらを見てみれば、上座に座る騰が中途半端に立った態勢で自分を見ていた。そんな目を見開いたままの騰に、瑛藍は柔らかく微笑んでみせた。

「おはよう、騰、みんな」

 ――次の瞬間、爆発的な歓声が城中を包んだ。

「お前! いつ起きたんだよ!」
「この野郎! 心配したんだぞ!」
「わはは、ごめんって! 寝坊しちゃった!」

 瑛藍を中心にワーワーと騒ぐ男達。しかしそんな馬鹿騒ぎもたった一人の声によってピタリと止んだ。

「瑛藍」

 その声に応えるように、呼ばれた少女は紺藍色の瞳を細めた。

「騰」

 気がつけば彼の腕の中にいて、温もりが彼女を包んだ。ふわりと香る彼の匂いにやっと安心することが出来たのか、瑛藍は知らぬうちに強張っていた肩の力を抜いて騰の大きな背に腕を回した。

「生きてて、よかった……!」

 瑛藍の喉奥から絞り出されたような呟きが、騰の耳に入る。
 失ったものは数え切れないほど多い。だがそれでも、まだ残っているものだってある。自分達の国も、城も、仲間も、まだいる。それが何よりも嬉しくて、嬉しくて。

「……お前こそ、龐煖と戦ったと聞いた時は肝が冷えた」
「…うん」
「私が瑛藍を見た時は、もうお前は治療が施された後だった。それから死んだように眠るお前を見続けて……正直、生きた心地がしなかった」

 ここで初めて、騰の声が、腕が震えていることに気づいた。

「お前まで、私を置いていくな」

 それは、瑛藍が初めて聞いた騰の弱音だった。途端にぶわりと涙が溢れ、騰の服を濡らしていく。
 ごめん、ごめんね、ごめん。嗚咽混じりに何度も何度も謝り、まるで子どものように瑛藍は泣いた。



 その日の夜、瑛藍は久しぶりに自分の特等席である高台に登った。戦が終わって五日が経った今でも、城下はその喜びで賑わっている。
 その騒ぎを背に座り、持ってきていた酒を取り出して杯に注いだ。本当は薬師に酒を止められているのだが、今夜くらいはいいだろうと勝手に蔵から持ってきたのだ。

「……本当に、勝ったんだぁ…」

 あの合従軍から、李牧から、勝った。じわじわと喜びが湧いてきて、瑛藍はやっと実感出来た。
 ごくりと酒を飲み、城下を眺める。すると誰かが高台に登ってきた。じっと見ていれば、ひょこっと顔を出したのは左迅だった。

「左迅?」
「やっぱりここにいたか。おーい、右舷、海羅! 瑛藍サマ見つけた!」

 下に向かって叫ぶと、左迅はそのまま最後まで登ってきて自分の前に跪く。そんな彼に声をかける前に右舷と海羅も登ってきた。

「二人もどうして…」

 戸惑う瑛藍の声には答えず、二人も左迅の横に並んで跪いた。三つ並ぶ頭に顔を上げろと言ったが、三人は頑なに頭を下げ続ける。

「この度は御身をお守りできず、申し訳ありませんでした」

 口火を切ったのは海羅だった。

「何を、言って……」
「僕らは龐煖との戦いを止めるべきでした。例え瑛藍様に恨まれようとも、憎まれようとも、貴女が死ぬよりよっぽど良い」

 後悔している海羅の科白に、瑛藍は言葉が出なかった。が、グッと奥歯を噛むと「ちがう…」と首を横に振った。

「わたしは武将だよ。お前達に守られるほど弱くない!」
「存じております。俺達は瑛藍様の強さに憧れ、貴女の元でこの力を振るいたくて、貴女の下につきました」
「だったら――」
「それでも、しょうがないでしょ。…どうしようもなく、瑛藍サマを守りたいんだよ、俺達は」

 やっと三人が顔を上げる。

「分かってくれなんて言わない。瑛藍サマが守られる程弱い女だとも思ってない」
「けれど、守らせてください。俺達にとって貴女はただ一人のお方なんです」
「瑛藍様が僕らを気にされる必要はありません。ただ僕らが勝手に貴女をお守りします」

 ――嗚呼。

「左迅、右舷、海羅」

 パシッと拱手して強く三人を見る。瑛藍の突然の行動に彼らは目を丸くした。

「ありがとう」

 たった一言。けれどこの一言に込めた伝えきれないほどの感謝は、伝わっただろうか。そんな瑛藍の不安なんて、彼らの表情を見ればすぐに吹き飛んだ。



「瑛藍」
「騰……」
「長く話していたな」
「うん。……あんなに想われていたなんて、知らなかった」
「部下に恵まれたな」

 左迅達が去った後に高台にやって来たのは、騰だった。彼は自然に瑛藍の隣に座ると、差し出された杯を受け取る。すぐに注がれた酒に目を細めてぐいっとそれを煽った。

「うまいな」
「ね。殿ってば酒にもこだわる人だったから……うん、おいしい」

 月の光に染まり、琥珀色の酒が杯の中で輝く。

「わたし、自分のことばかりだった」
「何だ突然」
「反省してるの! ……これからはもっとちゃんと、部下のこと見ないとなって」

 今にも溜め息を吐きそうな少女を横目に見ると、男は彼女の頭に手を置いた。「?、??」とハテナを浮かべる瑛藍に笑い、「ゆっくり進んでいけばいい」と言った。

「ゆっくりってそんな暇あるかなぁ…」
「戦は終わったところだ。暫くは休め」
「そっか……うん、そうだよね」

 騰はそう言ったが、実際はまだ完全には終わっていなかった。

 合従軍は秦に向けていた矛を、今回の合従軍で真っ先に離脱した斉に向けたのだ。既にいくつかの城が落とされ、よもや合従軍 対 斉の全面戦争が開戦されるかと誰もが思ったが、そんな合従軍の背を追いかけたのが蒙武だった。
 激戦の傷も癒えぬままに追った蒙武のお陰とも言うべきか、合従軍は斉の都市“饒安じょうあん”まで落として、漸く解散した。

「ねぇ、騰」
「何だ」
「殿、褒めてくれるかな」
「あのお方のことだ。一日中褒めてくれるだろう」
「ふふ、そっか。……そっかあ」

 ゴロンとその場に横になると、空高く杯を掲げた。

「殿、わたし頑張ったよ」

 月明かりが優しく二人を照らす。

「殿が愛した国を、城を、守れたよ!」

 本当に、心の底から嬉しそうな声に、傍で聞いていた騰は笑って杯に口付けた。