あの人の背中に手を伸ばせ


 合従軍が斉の地で解散してから、およそ一ヶ月後――。

「ふー、着いたぁ」

 馬から降りて腕を空へと突き上げ、ぐんと伸びをする。ずっと馬に乗っていたせいか腰と尻が痛い。
 騰や録鳴未、隆国達とやって来たのは咸陽にある正殿だ。今日はここで論功行賞がある為、こうして皆で揃って来たのである。

 愛馬を馬房に預けた後、瑛藍は騰の横に並んで正殿までの道のりを歩く。

「ねえねえ、今日ってどれくらいの人が集まるの?」
「名だたる武将は皆全員集まるだろうな」

 そんな話をしていると、ついに正殿に到着した。騰を先頭にして中に入ると、既に大人数の武将達が揃っていた。これだけの武将を見る機会などあまり無く、瑛藍は騰の背中を見るふりをして周囲を確認した。
 名前と顔が一致せず誰が誰だかよく分からない為、後で録鳴未に名前を聞こうと思いながら前を向くと、そこには瑛藍がとてもよく知っている人物がいた。
 彼はジッと自分だけを見ていたようで、目が合うとニッと口角を釣り上げて笑った。その笑みは瑛藍が彼の元にいた頃と何も変わらない、不敵なそれ。
 思わず歩みを止めてしまった彼女に、後ろから着いて来ていた録鳴未が「さっさと行け」と背中を軽く押す。それだけで瑛藍は固まっていた身体がほぐれていくのを感じた。

「……録鳴未」
「何だ」
「…何でもない!」

 ありがとう、という言葉をグッと飲み込み、瑛藍は騰を追いかけ、彼の後ろに座った。
未だあの人の視線を感じながら、それでも瑛藍は知らぬふりを突き通した。


「………フン」
「お頭? どうしやした?」
「何でもねェ。ただ――迷子の狗を見つけただけだ」
「はぁ……迷子? イヌ?」

 部下の戸惑う声を全く気にせず、瑛藍と目が合った男、桓騎は面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「またしっかり躾けとかねェとな。お前が誰の狗なのかを」

 その声は誰にも聞かれることなく、ゴーンと鳴る鐘の音が論功行賞の始まりを告げた。

「そっ、そそ、それではこれより、論功行賞を行う!!」



 怯えたような、緊張したような声に瑛藍はやっと始まったと息を吐く。ちらりと周囲を見渡せば、自分達よりも後ろの方に信や蒙恬の姿があるのが見えた。ちょうどぱちりと目が合い、周りに迷惑にならない程度にヒラヒラと手を振ってまた前を見た。
 するとこの国の大王・嬴政が上座から降りてきた。

「まずは皆の者、亡国の危機を脱した働き、真に大儀であった」

 この人と“蕞”で一緒に戦うことが出来たなんて、今となっては夢みたいだ。

「今回、各所の将を務めた蒙驁・張唐・桓騎・王翦・蒙武・騰・麃公。この七将の働きに序列をつけることは難しい。故に一将だけ覗いて、六将には等しく…国防の“特別大功”を授ける」
「!」
「特別大功……」
「やったね、騰」

 驚く騰に、後ろからこっそりと笑って喜んだ。その後、政の言葉を引き継いだのは昌平君だ。彼は政が言った『一将を除いて』の部分を説明し始めた。

「あえて一将を別としたのは、七将の中でも一際武功の厚かった者があったからだ。この者を此度の大戦の第一攻とする」
「(第一攻……!)」
「では――第一攻! 蒙武将軍、前へ!

 まあ、当然の結果だろう。昌平君の口から告げられた名前に納得した瑛藍は、前に出た蒙武の背中を眺めた。
 特別大功の六将には、爵位二階級昇級、それぞれに土地と金三千・宝物十点を授けるらしい。騰の背中をつんつんと突いて首だけ後ろに向けた彼に、瑛藍 は歯を見せて笑った。

「今日は宴会だね」
「ほどほどにな」
「その言葉、そっくりそのまま返しますー」

 軽口を言い合っていると、嬴政が「この七将に次ぐ武功をたたえる四つの“特別準功”がある」と言った。
 その台詞に口を閉じると、政は“蕞”の住民や山の民の王・楊端和とその一族、そして趙の将軍“万極”を討ち取った飛信隊の信に特別功を与えた。

「信が三千人将かぁ」
「並ばれたな」
「うるさい」

 挑発するように笑ってきた録鳴未に後ろから頭突きをしていると、とうとう四つ目、最後の特別功が発表された。

「この者は、楚の将軍“臨武君”を退け、予想をはるかに超えてくる禍燐に対して的確な策を立て、“蕞”では飛信隊の信同様、最激戦となった南壁の将として自ら先頭に立ち、これを守り抜いた!」

 聞いているうちに、だんだんと自分に視線が集まるのが分かる。まさかと思いながらそろりと目線を上げると、政は自分を見ていた。

「そして最後には、あの三大天“龐煖”に立ち向かい、一騎討ちの末にその手で秦国の武威を見事に示した!」
「何と……!」
「あの龐煖と一騎討ちを!?」

 「フ…」と前に座る騰が微かに口元に笑みを浮かべる。

騰軍瑛藍隊隊長、瑛藍! 前へ!
「――はっ!」

 張り詰めたような緊張感の中、名前を呼ばれて立ち上がる瑛藍。自分より一回りもふた回りも大きい男達の視線を受け止めながら、政の目の前までやって来ると静かに拱手した。

「騰軍瑛藍には、爵位を一つ昇級、現在の土地を拡張し、金一千と宝物八点を授ける。また、現在“三千人将”の地位を格上げし――“五千人将”とする!
「っ……!」

 自分の地位を上げることなんて、まるで興味がなかった。けれどあの日、殿が居なくなってからは違う。あの人に少しでも近づきたくて、追いつきたくて必死だった。
 騰軍を中心に歓声が上がる。野太い男達のそれに、瑛藍は目を細めた。

「本当に良くやってくれた、瑛藍」
「臣下として当然のことで御座います」

 片膝をついて褒美を賜り、元の場所へ戻る。騰の横を通り過ぎる直前に「よくやったな」と小さな声が聞こえた。







「ひ〜〜〜、つっかれたあ!」

 広々とした湯船に浸かりながら、瑛藍は湯をパシャリと跳ねさせた。騰と瑛藍の褒賞に、城では大々的な宴会が開かれていた。
 お決まりのように飲み比べ勝負をしている男達に呆れ、満腹になった瑛藍は早々に風呂にやって来たのだ。

「五千人将、か……。まだ実感湧かないや」

 城に帰ると「また瑛藍サマの親衛隊が増えんの!?」と嘆いた左迅に首を傾げていると、海羅と右舷までやって来て「少し話し合いをして参ります」と彼を引きずって去っていった。その一連の流れに呆気に取られたが、大人しく手を振るだけに留めておいた。

「……そろそろ、会いに行かないといけないかな」

 浮き足立っていた気持ちも徐々に萎んでいき、瑛藍の頭には久し振りに遠目で再会した男が浮かんでいた。あの目に見つめられると、どうしようもなくあの人に従いたくなってしまう。それはもう一種の洗脳のようなものだった。

「…大丈夫、落ち着けわたし」

 自分に言い聞かせた時だった。

此処・・にはいつでも、お前の居場所がある」
「―――!」

 思い出したのは、李牧に会った次の日に騰に言われた科白だった。
 忘れるな。わたしはもう、騰軍の瑛藍だ。あの人の狗じゃない。胸を張れ、瑛藍。今のお前は誰もが恐れ、憧れた王騎の狗なんだぞ。そのことに誇りを持て。

 一度強く目を閉じると、少女はゆっくりと瞳を開けて紺藍色を覗かせた。