そして三日目の夜。王騎は本陣の野営テントにある男を呼んでいた。
「――何だ、話とは」
男の名は蒙武。此度の戦にて主攻を務め、そして力によって策を滅する武将である。もともとこの戦の総大将という話があっただけに、彼の王騎に対する態度は横柄だ。けれど王騎は気にも止めずに話を進める。
端的に言えば、王騎軍の軸である五軍――録鳴未・兵二万、隆国・兵一万二千、鱗坊・兵六千、干央・兵三千、同金・兵八千――全てを蒙武に預けるというのだ。そして全軍を率いて趙本陣に突撃し、明日で攻め落とせと述べた。
「――またわたしはお留守番?」
「えェ、私の軍のほとんどが出払うことになりますからねェ。自由の効く瑛藍は童 信以上の矢になる」
蒙武が去った後、瑛藍は見るからにぶすくれた顔で文句を言うが、王騎の返答に少しばかり気が晴れたのか膨らませた頬を元に戻す。(単純馬鹿…)騰が心の中で途轍もなく失礼なことを呟いたなぞ知らない瑛藍に、言葉はさらに続く。
「明日」
「?」
「貴女にも明日、動いてもらうことになります」
それがいつかは分からない。けれどあの王騎が“明日”と言ったのだ。ならば明日は確実に自分の出番がある。
「ですから、今夜はゆっくりと眠りなさい」
「――はい」
翌日、王騎の言う通り瑛藍は思いもよらぬところで動くことになる。
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趙本陣まで追い詰めた秦軍。だが趙兵は迅速に本陣を他所へ移していた。追うか追わないかという選択に迫られた蒙武は、一瞬考えた後“追う”選択を取った。
「殿、移動の準備が整いました! いつでも行けます!」
趙本陣のあった山は完全に制圧し、その間にも敵軍の影はない。秦軍の本陣移動は容易である。
しかし、ここでこれまで動きの早かった王騎が珍しく沈黙した。
「殿?」
伝者がもう一度王騎を呼ぶと、彼の後ろに控えている騰が自分の口元に人差し指を立てる。――静かにしろということだ。
王騎が黙っているのは、彼が何か違和感を覚えたから。騰も瑛藍もすぐにそれに気がつき、一言も発することなく王騎の思考が纏まるのを待つ。
「騰」
「ハ!」
「向こうの軍師は趙荘の他に誰かいましたか?」
「いえ、いないはずですが」
先程起こった趙軍の後退に、王騎は微かに引っかかっていた。だからこその問いだったのだが、とりあえず本陣を動かそうと指令を出す。その動きを止めたのが、今まで黙っていた瑛藍だった。
「殿」
いつも聞く少女の声色ではなかった。ピタリと馬を止めた王騎は、ゆっくりと振り返る。重なる彼女の紺藍の瞳からは、いつか見た鈍く、強い光を放っていた。
「わたしが行く」
「どこへですかァ?」
「殿が動けないなら、わたしが動く。その為に来たから」
目的地は言わない。だが王騎には充分だった。
「貴方が感じる違和感が、ただの勘違いならそれでいい。でも――あの天下の大将軍・王騎が感じるそれが、ただの勘違いなわけがない」
それは、王騎の全てを信じているからこその言葉だった。王騎は笑みを崩さずに少女を見つめ、「ンフフフフ」といつものように笑った。
「貴女が後ろにいないのは、少し寂しくなりますねェ」
「少しの間だよ。違和感の正体――向こうの軍師の正体を掴んだら、すぐにその首を獲って戻ってくるから」
「無茶はしないように。勇気と、」
「『勇気と無謀は違う』、でしょう?」
王騎の台詞を遮って彼の言葉を続けた瑛藍に、騰は「負けましたな」と言った。
「この私に負けを認めさせるのは、いつも瑛藍ばかりですねェ……」
「ふふ。……それじゃあ、」
――行ってきます。
高く結んだ薄藍色を翻し、瑛藍は一人馬を走らせた。
遠くなる彼女の背中を、王騎達は最後まで見送っていた。
夜、瑛藍は火を焚くこと無く闇に紛れてひっそりと過ごしていた。火を起こせば煙で自分の位置が気づかれてしまうし、馬を走らせればその音で敵に包囲されてしまうこともある。
「………大丈夫かな」
何故かすごく胸騒ぎがするが、もう引き返せないしそのつもりもない。あれだけ啖呵を切ってきたのだ。せめて見えない敵の正体は掴まなければ。
瑛藍には確信があった。必ず隠れた敵はいると。何故なら自分が
「殿を凌ぐ程の策を考える程の腕前なら、今ここで始末しておかないと…。後々厄介な敵になるに違いない」
この時言った言葉がまさか現実になるとは、今の瑛藍には知る由もなかった。
――翌日、瑛藍は空が白む前に行動を開始した。休憩することなく山々を駆け上り、見えない敵を探す。
どれほどそうしただろうか。突然馬を止めると、適当な木に馬の紐を括り付け、ここで待つように言葉を掛けると音を立てないように走る。こういう山では、馬に乗るより走る方が得意な瑛藍。持ち前の勘を活かして迷いなく突き進めば、石で作られた塔のようなものが見えた。
見えるギリギリの範囲で止まり、塔の頂上を睨む。そこには人影がいくつかあった。
「あれは……誰?」
ここで誤算なのが、瑛藍は周辺国は勿論だが、秦の人間のことも知らないのだ。故にあの塔にいる人間が誰か全く見当もつかなかった。
だがこんな戦が起きている時にあんな所にいるくらいだ。無関係ではないだろう。瑛藍がどちらの軍の人間か分かるまで様子見していようと決めた時だった。
何かが走る音が、此方に向かって大きくなる。瑛藍はこの音の正体がすぐに分かった。――先程まで自分もこの音を聞いていたのだから。
「うそ………!」
山を駆け上がってきたのは、堂々と“趙”の旗を掲げる騎馬隊だった。その数はとても少数とは言えない。瑛藍はごくりと生唾を飲み込み、だがこれであの塔にいる人間がどちら側か分かった。
「お迎えに上がりました、李牧様!」
「ご苦労様です」
「(……李牧…? 初めて聞いた名前だな…)」
馬陽に来るまで、名だたる軍師や将軍の名前は騰から聞いていた。だがその中に“李牧”という名は一度も出てこなかった。
――つまり。
「あの男が、殿の違和感……」
さて、どうしよう。このまま出て行ったところで自分の体力が削がれるだけだ。ならば少し待ってから敵の策を聞いた方がいいのではないか。瑛藍が木影に紛れながら悩んでいると、何やら塔の頂上で揉める声が風に乗って聞こえてきた。
「んーー?」
ジィッと目を細めてそこを見つめる。
「んんーー?」
やがて降りてきたのは李牧とその付き人――否、護衛だろうか? まだ塔の上には人が残っている。何がどうなっているのか、予測でしかないが瑛藍は大体予想はついていた。
趙軍が去り、残る人影を確認すると、やっと少女は動いた。素早く残りの山を駆け上がり、塔の階段に足を掛ける。全て登り切ると、そこにはロープで身体を縛られた者達がいた。
彼らは自分を見ると警戒心を露わにし、「まだ何か用か! 趙軍!」と怒りをぶつけてくる。その一言でやっと肩の力を抜くと、黙って近づいてロープを解いてやった。
「な、はっ……え?」
「わたしは秦軍。貴方達も秦側の人間だと認識していい?」
「秦………?」
「時間がない。質問に答えて」
全員のロープを解き終わると、瑛藍は口早に質問した。
「あの男は何者なの」
それに答えたのはまだ軍略を勉強中のあの蒙武の息子・蒙毅だった。拱手した蒙毅は、突然現れた女に対して礼儀を欠かず、それでいて的確に答えた。
「名は“李牧”。突然ここにやって来て我らと戦の様子を見ていたのですが――先程やってきた趙軍に……」
「そこは見ていたから知ってる。わたしはあの男の正体を知りたいの。あの男……李牧は、趙の“何”?」
「――『三大天』の一人です」
「――――!!」
告げられた内容は、想像よりもずっと重く、そして確実にこの戦を左右する事実だった。