それは夢中になるくらいの


 中華を震撼させた大戦から一年。――長い冬が明け、降り積もっていた雪がとけていく。けれど誰かが大功をあげるような大きな戦は起きなかった。昨年の合従軍の疲労は、七国全てに重く残っていたのである。
 始皇七年(紀元前240年)は、前半が静かな年であった。そんな折であった。『蒙驁危篤』の知らせが届いたのは。

「行かなくていいの?」
「今から行っても間に合わん。……それに」

 王騎殿の傍にいた私が行っても、掛ける言葉がない。
 そう言った騰に、もう瑛藍も何も言えなくて。「そっか」と返事をして、彼の空いた杯に酒を注いでチンと乾杯した。



 この年は所謂“内乱期”と呼ばれる時を迎えていた。
 “戦”と“政治”は直結する。敗戦にて荒れた朝廷の元では、えてして内乱が起こる。この一年はどの国も内政を落ち着かせることに終始するだろう。この内乱期を抜けたそれぞれの国が弱くなるのか、逆に強くなるのか。そこが最大の注目点である。

 武官である瑛藍とて、他人事ではなかった。この期間こそ各武将・部隊の力をつける時。五千将の位に上がった今、一刻も早く部隊を纏める必要があった。

「海羅、新しく入隊した奴らの調子はどう?」
「まだまだです」

 演習地でひたすら走り込みをしている屈強な男達。先頭を走る右舷達の後ろを、ヒィヒィと言いながら何とか着いて行っている新人に目を細めつつ、後ろの方で倒れている脱落者を見た。

「この程度の走り込みにも着いて行けてないの?」
「はい」
「そっかあ…。うーん、……うん」

 何度か頷いた瑛藍は、高い崖から見下ろしたままヘロヘロの男達に向かってスゥ…と大きく息を吸った。

何へばってんの!

 その声にいち早く反応したのは、勿論この二人。

「瑛藍サマ!?」
「瑛藍様!」

 先頭を走っていた左迅と右舷だ。二人は怠そうな表情から一変して、キラキラとした笑顔を浮かべると瑛藍の方を向いて手を振った。その二人に手を振り返すこともなく、少女はクッと目を釣り上げて更に怒声を浴びせる。

瑛藍隊うちに体力無い奴なんていらないんだけど!? もっとしっかり走れ!

 流石にこの言い草に、しかも自分達よりも年齢が下の者にこれだけ好き勝手言われれば男達も怒って辞めていくかもしれない。もしも信や河了貂が居たらそう思ってハラハラしたことだろう。
 だがこの場にいるのは、何万というライバル達から勝ち抜いた選りすぐりの者達なのだ。しかも彼らは生粋の――、

「「「ウオオオ、瑛藍様ーー!!」」」

 瑛藍の陶酔者だ。
 彼女に憧れ、一緒に戦地で戦いたいと願った者達ばかりの集まりである。例え掛けられた言葉が叱咤の類だとしても、彼らにとってはご褒美と大差ない。
 現に男達は脱落者も含め、皆先程までの死にそうな顔はどこに行ったと言わんばかりの走り込みを披露してくれた。

「何だ、まだまだいけるじゃん」
「(瑛藍様のお手を煩わせるなんて…! 後でみっちり説教をせねば)」
「それじゃあわたし、久々に昌平君の軍師学校に行ってくるね」
「何かあったのですか?」
「顔を出してやってほしいって頼まれて。それと急ぎの木簡もあるみたい」

 何かあったらすぐに知らせるように言うと、瑛藍は愛馬に跨って演習地に背を向ける。向かってくる風を追い越しながら、晴れた空の下、昌平君が待つ軍師学校まで急いだ。



 軍師学校に着くと、もう瑛藍の顔は皆が周知しているため、詳しい確認もなく中へ入ることが出来た。内心、もしも自分が間者だとしたらどうするんだと思わなくもないが、あの長い時間を過ごさなくていい利点の方が優った結果、何も言わずに衛兵の横を通過した。

 いつものムワッとした熱気の篭る部屋に通されると、真っ直ぐに昌平君の元へ。預かっていた木簡を手渡すと、すぐに中を開いて「あいわかった、と伝えておいてくれ」という、これまたいつもの伝言を受け取る。

「どうだ、新しい隊は」
「纏まるのはもう少しかかりそうです。ただ、全員やる気だけはあるので…後はどれだけ体力、知力がつくかが見どころですね」

 昨年の大戦の後、一度だけこの学校に来て以来の顔合わせだが、気まずさは一つもない。最初の頃のお堅いやり取りが嘘のようだと思いながら話を続けていると、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、それこそいつ振りだと言いたくなる男がいた。

「久しぶり! まさか会えるなんて!」
「本当に久しぶりだね、蒙恬」

 顔を合わせるのはあの論功行賞以来だ。しかもあの時は言葉さえ交わさなかったため、こうして面と向かって会話をするのは実に一年振りとも言える。
 改めて蒙驁将軍のお悔やみを口にしようとした瑛藍だが、蒙恬は首を横に振って笑った。

「いいんだ。……長くないっていうのは分かっていたから」
「……そっか」

 ならば、それ以上言葉を続けるのは無粋だ。

 ――それから二人で久しぶりの模擬戦を楽しんだ。やはり勝ちの軍配は瑛藍に上がることが多いが、蒙恬もただではやられていない。必死に食らいついて勝つために頭をフル回転させる。
 駒を操って戦う二人の表情は、とても、とても楽しげで。周りの人達は自分の模擬戦のことも忘れて、白熱している瑛藍と蒙恬の試合を夢中で眺めた。