悩むくらいならぶちまけろ


 夢中になっていれば、時間はあっという間に過ぎていくもので。お互いに荒い息を吐きながら、ふらふらと覚束ない足取りで近くの椅子に座った。

「ふー、つっかれたあ!」
「やっぱり王騎将軍に鍛えられただけあるよね」
「ふふん、そうでしょう? でも……」

 そこで言葉を止めると、瑛藍は蒙恬の方に顔を向けて歯を見せて笑った。

「今日は危なかった! 前と違う戦略で攻めてくるから、びっくりしたよ」

 また手合わせしようね!
 とびっきりの笑顔でそう言われれば、いくら女性に手慣れている蒙恬だってたまったものじゃない。しかも瑛藍のこんなにキラキラした表情なんて向けられたことがないのだ。
 ――故に、頬を赤く染めてしまうのもしょうがない。

「? どうしたの、蒙恬」
「なっ何が?」
「何がって……顔、赤いけど」
「いや、……何でもないよ」

 ああもう、どうか、まだ。
 この気持ちに名前を付けるのは待ってよ。

 蒙恬は額に手をあてて暫く俯いていた。



 蒙恬が帰り、瑛藍もそろそろ帰ろうかと思ったが、そんな彼女を昌平君が見計らったかのように止めた。正直蒙恬との模擬戦で疲れたのもあり、もう帰りたい気持ちでいっぱいだったのだが、自分を呼び止めた男の顔に浅く息を吐いた。

「どうしたんですか。そんな顔して」
「そんな顔?」
「いや、……何か、難しく考え込んでる顔……?」

 まさかの無自覚とは。いよいよ話が長くなりそうだと今から予想しながら、瑛藍は改めて彼と向き合った。

「それで、本当にどうしたんですか?」

 もう一度聞き直すと、昌平君は近くの椅子に座って数秒黙り込んだ。それは彼の中でも葛藤があったのだろう。今自分が抱えているものをこの少女に話しても良いのかどうか。
 しかし次に顔を上げた彼の表情は、覚悟を決めたようなそれだった。

「今の秦国の内情を知っているか?」
秦国うちの内情? えっと……大王様と呂不韋が争っていることなら知ってますけど」
「そうだ。今までなら呂不韋の独裁状態だったが、“蕞”での戦い以降、その勢力も傾きつつある」
「へぇ…。で、そんなことをわたしに話していいんですか? わたしは呂不韋陣営側ではないのに」

 いつもの無表情が少し崩れ、どこか疲れたようにも見て取れる昌平君。

「(恐らくこの人は……迷っている。今のまま呂不韋の側にいていいのかどうか)」

 今、呂不韋がどのような策を取っているのか、またどのように動いているのかは分からない。けれど同じように、なぜ昌平君程の男が呂不韋に付いているのかも瑛藍には分からなかった。

「……ま、わたしには何でもいいですけど。ただ、」
「?」
「――騰達に被害が及んだ場合は、黙ってませんから」

 わたしの持ち得る全ての力を持って、呂不韋を潰します。
 それは、一介の小娘が口にするには重すぎるものだ。しかも冗談ならまだしも、この少女は本気でそう言っている。覚悟の滲む紺藍色の瞳を見つめ返し、昌平君は苦笑した。

「それで、話は終わりですか?」
「あぁ。――いや……」

 頷いたはずの昌平君は、椅子から立ち上がって先程まで瑛藍と蒙恬が争っていた盤上へ歩みを進める。転がっている駒を一つ指で掴むと、好戦的な笑みを瑛藍に向けた。

「俺ともひと勝負、してもらおうか」
「……………はぁ!?」

 何言ってんのこの人!
 瑛藍は盛大な間抜け面を晒し、「うぐぐぐっ………分かりましたよ!」と投げやりに頷いた。


 ――軍配はやはり昌平君に上がった。しかし瑛藍もただでやられる訳にいかず、かなり善戦することが出来た。それは盤上に転がる駒が物語っている。
 終わった後、流石に燃え尽きた瑛藍が頭から煙をしゅうしゅうと出しながらその場に倒れた。意識はあるものの、頭を使いすぎたらしく立っていることすらままならない。

「風……風に当たりたい……頭を冷やしたい……」
「ならば外に通じる扉がある」
「はひ……………」

 何とか起き上がり、ヘロヘロ…と力の抜けた足取りで示された扉へ向かう。昌平君はそのまま見送ろうかと思ったが、最後に一つだけ瑛藍に尋ねた。

「瑛藍」
「何です………」
「これからお前は、どう動く?」

 抽象的な、けれど昌平君が一番気になっていたことだった。
 問われた瑛藍は一瞬何を聞かれているのか分からなかったが、回らない頭でとりあえず返答した。

「どちらに転ぶにしても、わたしはわたしに出来ることをするだけです。だから、今起きている両陣営の争いは出来るだけ早い解決をお願いしますね。――くだらない争いで、周辺国の動きに気がつくのが遅れたなんてごめんです」

 そこまで言い切ると「では、失礼します」と一礼して、夜風を浴びに行った瑛藍。部屋に一人残された昌平君は、情けなく転がる駒に視線を向けて嘲笑した。

「『くだらない争い』、か。そう言えば、以前にも似たようなことを言われたな」

 彼女にしてみれば、水面下で起きている内乱はくだらない内に入るのか。
 クッと喉奥で笑うと、男は静かに退室した。


 夜風が沸騰しきった頭を冷やし、だんだんと目も冴えてきた。閉じていた瞳を開くと、光の当たらないそれはまるで夜と同じ色を映している。
 ベタつく肌に嫌そうな顔をすると、サッと手早く髪をまとめた。薄藍色のはずのそれは、暗闇のせいで黒く見える。

「あー、時間食っちゃったな。こんなつもりじゃあなかったんだけど……」

 演習はどうなっただろうか。皆無事に城へ帰還したのだろうか。
 海羅達に任せきりにしていることに罪悪感を覚えながら、新しく入隊してきた隊士の顔を一人一人思い出す。こんなにもすぐに五千まで埋まるとは思っていなかった瑛藍にとって、溢れるほどの入隊希望者が殺到したことは素直に喜ばしいことだった。

「まだ纏まりきれてないし、あの人に会いに行くのはまだまだ先になりそうだなぁ」

 それはそれで心は楽だが、先延ばしにすればするほど会いに行きづらくなる。あの人の行動は読めたことがないため、正直怖い。

「まぁ今は、部隊を纏める方が先か…」

 無意識に力が入っていた眉間をぐりぐりと指で揉んで、やっと軍師学校を後にした。