垂らされた蜘蛛の糸を掴め


 揺蕩うような日々も終わりを告げ、騰軍は戦の只中で各々の武器を振り上げて血飛沫を撒き散らしていた。

 独特の剣技で敵を一網打尽にする騰を狙うのは、魏軍だ。どの兵士も騰に目を奪われ、血眼になって彼の首を獲ろうと躍起になるが、その全てを返り討ちにした。
 このまま突き進むかと思われたが、騰はズザザザッと馬の足を止めると、一言「罠だ」と告げて全軍に反転して退がるように命令を下した。

「罠ぁ!?」
「はい! 全軍停止です!」
「罠ってどういう………っああ、そういうこと! お前ら、背後に回り込んできた敵を倒すよ!」

 列の最後尾にいた瑛藍は、罠という言葉だけですぐに後ろに回り込んできた敵を察知し、一掃するように命じる。すると瑛藍隊の男共は野太い雄叫びを上げて我先にと敵陣に飛び込んで行った。

「昨日までと明らかに戦法が違う……」

 馬を走らせながら、瑛藍はぼそりと呟く。だが考えなくても分かる。この戦法、そして“魏”の第一将といえばあの男しかいない。

「呉鳳明が来たか」

 また策を一から練らなければならない。碌に睡眠も取れていない頭で、どこまで考えられるか。瑛藍は悪態を吐くのをぐっと飲み込んで、自分達の後ろを着いて来ているであろう騰達との合流を目指した。


 ――二年前の合従軍の侵攻で、秦国の国境は大きく形を変えていた。李牧と春申君は“山陽”こそ取り戻さなかったものの、秦が中華へ出づらくなるよう、国境を書き変えて行ったのである。
 その結果、“山陽”の先にあるこの“著雍ちょよう”が秦の中華進出を塞ぐ次の要所となった。

 この“著雍”を奪取すべく、秦は騰を大将に一帯を侵攻。魏軍も奪われまいと続々と軍を投入。さらに大将に呉鳳明を派遣し、万全の態勢で秦軍を迎え撃つ姿勢となった。
 これに対し、秦・騰軍もさらに戦力を増大すべく、周囲の戦場の部隊まで広くこの“著雍”へと呼びよせた。それは、今や独立遊軍と呼ばれるようになった飛信隊、玉鳳隊も同様だった。

 最初から険悪ムード一色の信と王賁。ついに己の得物同士のぶつけ合いにまで発展した喧嘩に、ふわりと薄藍色が舞った。

「私闘禁止」

 愛刀である“隗月”で危なげなく二人の刃を受け止めたのは、騰軍所属の瑛藍隊、瑛藍。ギリギリ…と受け止めている両方の刃から未だ負荷が掛かるそれを、瑛藍は大きく弾いて騰の元へ下がる。

「くだらない喧嘩遊びをやるくらいなら帰れ」
「そう怒るな」
「騰は黙ってて! ったく……先に向こう行ってるから、さっさとそいつらに説明しといてよね」

 怒気を滲ませながら信達に背を向ける瑛藍。その後ろを左迅と右舷が何かを言いながら追いかけた。

「な、何か機嫌悪くねェか?」
「碌に睡眠も取れておらず、しかもまた策の練り直しで相当頭にきてるところだ」

 信は瑛藍と何度か一緒に戦ったことがあるが、王賁は今回が初めてだ。自分よりも背が低く、腕っ節も弱そうな女に周りが見えなくなっていたとは言え、ああも簡単に槍を受け止められたのは正直自分の目を疑った。

「(王騎の狗――。その名は伊達ではない、ということか…?)」

 それでも少女の実力を認めたわけではない。王賁はフン、と鼻を鳴らすと騰の説明を聞きながら本陣へ足を踏み入れた。




「状況が変わった」

 そう口火を切ったのは、騰軍左翼を務める隆国。彼が説明している間、瑛藍は盤上の地形図と駒を相手に睨めっこしていた。

「この“著雍”に周辺の各隊を集めたが、魏軍も同様に軍を集結させ、先日大将軍・呉鳳明が入った上に、正体不明・・・・の三軍もこの地に到着した」
「正体不明の三軍?」
「魏王都・大梁だいりょうより到着したこの三軍は、来る途中に倉・備台・北台の秦の城に立ち寄り、わずか一日でその三城を陥落させている」

 (三軍――……。誰だ、その正体さえ判明すれば策も立てやすいのに…)瑛藍は顎に手を当てながら、歯痒い気持ちで駒を握りしめる。
 勿論調査は現在も行われているが、目ぼしい人物はまだ浮かび上がってこない。軍の規模自体も三軍合わせて六万という大規模なもの。これで一気にこちらの戦力が圧倒的不利になってしまった。

 極めつけは魏軍の布陣にあった。山や川、地形に合わせて軍を広げ、全ての地が互いにかばい合い、中央からも即座に全方位に援軍を送れるよう配置されている。まるで一つの要塞のようにも見えるそれに、瑛藍もなかなか決め手となる一手が打てなかった。

「何か手は?」
「今打とうとしている」
「どんな手だ」
「ここより北、趙との国境“拡陽かくよう”に王翦軍が陣取っている。これから王翦軍に援軍の要請を出すところだ」
「やめろ」

 騰の言葉をすぐに否定したのは、玉鳳隊隊長・王賁だった。

「王翦軍を著雍ここに呼ぶのは、絶対にやめろ」

 その気迫に、やっと少女は顔を上げた。

「お前」
「お前……?」
「その話、詳しく聞かせて」

 後手に回っていたものが、一気に前へ出るかもしれない。そんな予感が瑛藍の身体に巡った。

「いや、待てよ。王翦軍を呼ぶなって、お前そりゃあ……」
「完全なる、私情だな」
「そーそー、それだ、しじょー。いくら親父と仲がわりーっつっても――」
「信も隆国も黙れ。今はそんなこと聞いてないし、わたしはこいつに“理由”を聞いてるの。邪魔すんな」
「くっ口わりー……」

 久々に瑛藍の口の悪さを目の当たりにした信は、ヒク…と口角を引攣らせた。紺藍の瞳を真っ直ぐに受けた王賁は、その目を見返しながら“理由”を語り始めた。

「“著雍”が、秦が中華に出るための要所であるならば、今王翦が守っている“拡陽”は、趙が秦東部攻略の“楔”を打ち込もうと密かに狙っている要所だ」
「――! 海羅、地図!」
「はっ、此方に」

 すぐに目の色を変えた瑛藍は、海羅が持ってきた地図に視線を落とし、拡陽に指を滑らせる。

「もし趙が拡陽を落とした場合、一度級まで侵攻し、そこから統・飯関と蛇行しながら南下してくる」

 言われた通りに、瑛藍の指は拡陽の西にある級、その南にある統、そして東にある飯関へと、順番に辿っていく。

「そこから拡陽を拠点に軍を増強し、南へ送り込む。先に侵入した軍が盾となり、次軍は真っ直ぐに南下。一気に東礼を落として、趙は著雍・山陽まで包み込み、これを強奪することができる」

 一気に話された内容に、信や河了貂は信じられないと声を上げる。けれど瑛藍の反応は真逆だった。
 何やら話が進む周りの声の一切を閉ざし、深い思考の海に身を落とす。地図と盤上の模型を隅から隅まで眺めると、やがてトン、トン、と駒を置いていく。

 ――それは、王賁が立てた策と寸分違わぬ配置だった。