正体不明に踊らされる少女


 ――著雍戦から二ヶ月。要塞化へ向けての土木作業は着々と進んでいた。

 瑛藍は作業用だと派遣された人夫に指示を飛ばしながら、たまに来る魏軍と交戦をしつつ土木作業に専念していた。
 咸陽での様子は昌平君から届く木簡だけが、唯一知る手掛かりとなっていた。その頻度もまちまちで、短い日数で来る日もあれば間が空いて来る日もある。

「瑛藍様、昌平君殿から木簡が届きました」
「ありがとう、右舷」

 人夫と一緒に作業していた手を止めて、瑛藍は木簡を受け取ってその場から離れる。自身の野営テントに入ってから彼女は木簡を開いた。

「前回は大王様と呂不韋の様子と、隣の“山陽”の様子が書かれてたけど……今回は何かなぁ」

 そう言いながら暫く読み進めていく内に、彼女の表情が少しずつ強張っていく。

「……え、は……? 何これ…」

 そこには瑛藍が目を疑う内容が記されていた。

「“山陽”と“著雍”を後宮が取った? しかも山陽長官が宮家の者に代わったって…」

 何度読んでも信じられない。それをあの昌平君が黙って受け入れた事も瑛藍にとってはすんなりと頷けるものではなかった。

「そもそもこの“嫪毐ろうあい”とかいう男、誰? 宮家が推すくらいなんだから皆知ってるのかな…」

 嫪毐という男については詳しく書かれておらず、文はそこで終わっていた。混乱したままの頭を取り敢えず纏めようと、瑛藍はうんっと伸びをしてテントから出た。

 土木作業中の人夫や兵士達に声を掛け、自分も作業に参加する。建築関係はからっきしな少女は、木を運んだり土を運ぶ馬を引いたりしながら、昌平君から届いた木簡の内容を整理していった。

「(嫪毐に関しては騰に訊いてみるとして、残るは後宮なんだよなあ。興味なかったから詳しい事何一つ知らない状況で、昌平君からの文を読み解ける筈がない)」

 大王である嬴政の母親が居る事は知っているが、それだけだ。二人の間にある軋みも、太后と呂不韋の関係も、企みも、この時の瑛藍は何も知らなかった。



「――と言うわけなんだけど、騰は嫪毐って男……宦官だっけ? そいつ知ってる?」
「嫪毐……いや、今初めて聞いた名だ」
「そっか…。騰でも知らないってなると、他の人も知らないよね」

 だとすれば、益々謎は深まるばかりだ。正体不明の宦官が重要地である山陽の長官になるだなんて、頭がおかしいとしか言いようがない。否、そもそもその案が通った事自体きな臭いのだ。

「咸陽で何が起きてるんだか……」

 だから言っただろうと、あの日の昌平君に文句を言いたくなった。――くだらない国内の争い事で、他を大きく巻き込むな。

「で、今昌平君はどう動いているんだ?」
「あの人は一応・・呂不韋側だから表立って動けないらしいけど、代わりに介億さんを山陽に送ったって」
「そうか。…瑛藍はどうしたい?」
「わたし?」

 まさか自分の事を聞かれるとは思っていなかった瑛藍は、木簡から顔を上げてパチパチと目を瞬かせる。いつも通り何を考えているのか分からない瞳が自分を見ていたが、彼女は腕を組んで悩んだ後、ふるりと頭を振った。

「わたしは此処にいるよ」
「いいのか?」
「いいも何も、わたしは騰軍が瑛藍隊だよ? しかも五千の兵士を預かる身。そんな立場を放って一人で走り回れる程、自由な立場ではなくなったもの」

 兵士も預からず、たった一人で走り回る事を許されていたあの頃とは違う。もう自分は他者の上に立つ五千人将なのだ。
 あの人の背中を追っていただけなのに、気づけばこんなにもたくさんの命を背負って此処に立っている。それはとても重いけれど、嫌だと言って投げ捨てられるような子どもでもないし、何より――この重みが、自分を奮い立たせてくれている。

「まあ…山陽にも気を配りつつ、著雍ここを一刻も早く要塞に仕上げよう。勿論、騰にもたくさん働いてもらうからね!」
「ンフフフ、この私を使うとは…瑛藍らしいですねぇ」
「下手くそな物真似やめろって前にも言っただろ」
「ココココッ、口が悪いですよォ」

 隙あらば王騎の真似をする騰に、瑛藍は石を投げつけた。



「おい、瑛藍!」
「信?」
「このオッサンがまた著雍ここから兵を一万持ってくっつってんだけど!」
「……………はぁ?」

 訝しげな表情を浮かべた瑛藍は、持っていた木をとりあえず運ぶと、揉めている信と伝者の元へ走る。改めて話を訊くと、この男もあまり詳しい事を聞かされていないらしい。

「ここが一番兵が必要なところだよ! また山陽に一万も持ってってどうすんのさ!」
「だから知らぬって!」
「でも貂の言う通り、どこにせよまたこの地から一万も人が減れば要塞化が進まない」

 やはり新しく山陽長官の座に就いた膠毒という男を、もっと詳しく調べるべきだったか。歯噛みする瑛藍に、伝者は「あー」と何かを思い出したような声を上げた。

「でも今度は違います。兵の送り先は山陽ではなかったです」
「? それじゃあ何処に――」

 瑛藍相手には敬語を使う伝者は、指を一つ二つと折りながら「弁斗べんとを抜けて、そこから…えっと…」と呟く。最後に思い出した地名をやっと口にした。

「『太原たいげん』です」
「「はァ!?」」

 瑛藍と河了貂の叫び声が重なった。


 ――『太原』とは、山陽と著雍からはるか北。同年の『成蟜の変』が起こった『屯留とんりゅう』よりもさらに北に位置する、秦極北の都市である。
 最北の国境を守る要ではあるが、近年戦が中華の中心に集中したため、とり分け注目される地ではなかった。

 しかし、そんな僻地『太原』に大量の人が集まるという異変が起きている。――いや、それだけではない。今この太原で、何かが始まろうとしていた。


「瑛藍!? どこに行くのさ!?」
「自分のテント! 今すぐ昌平君に確かめないといけない! っ、じゃないと…手遅れになる…!」

 ここ数日連絡が取れていない事が仇となった。山陽に送られた介億からの木簡も途絶えている事から、恐らくこの件の全貌を向こうも計り知れていないのだろう。
 兵士一万を太原で一体何に使う? あのような僻地にここから急いで兵を送る用事など無かった筈だ。

 何か、予想もつかない“何か”が起きようとしている。瑛藍は冷や汗をかきながら嫌な予感を抱いていた。


 ――その後、太后と山陽長官“嫪毐”が『太原』に入り、一帯を『毐国あいこく』とすると宣言した。
 奇しくも、瑛藍の感じた嫌な予感は当たってしまったのである。