何度も夢に見た世界だった


「騰!」

 その日、瑛藍は早朝にも関わらず慌てて騰の元へ駆け寄る。録鳴未達に眉を顰められたが、この木簡の内容を聞けばそんな顔はしていられない筈だ。
 バララッと音を立てて木簡を開くと、騰の目に突きつけた。

「山陽の! 宦官! っ…“国”を宣言したって!」
「落ち着け。言いたいことの半分も分からんぞ」
「〜〜〜っ、読め!」

 ずいっと木簡を押し付けられた騰は、文句も言わずに目を通す。すると次第にその表情は厳しくなり、低く唸った。

「……これが本当だと、今咸陽は混乱に陥っているな」
「それ、昌平君からの文だよ。嘘な訳ないでしょう」

 瑛藍自身読んだ時は手が震えた。ここから兵士がどんどん居なくなっていくとは思っていたが、それが北の太原に流れて行った挙句“国”を興しただなんて。

「太后様が何を考えているのか、着地点が何処なのか。見当もつかない今、わたし達に出来る事はここで魏を抑える事だけ……」

 ぐしゃりと髪を乱して溜め息を吐く。考えなければならない事は山積みなのに、解決策が何一つない。
 自暴自棄になってもう一度溜め息を吐いた時だった。ドドドッと馬の足音が聞こえ、瑛藍は後ろを振り返った。馬に乗った男と目が合うと、彼は右手を軽く上げた。

「瑛藍! 悪ぃ、今から来てくれ!」
「信? 急に何」
「魏が攻めてきたんだけどよ、手が足りなくて!」
「んー……鬱憤も溜まってたし、いいよ」
「珍しいな、行くのか?」
「録鳴未は今回留守番してろよ。わたしもたまには暴れたいの」

 目を丸くした録鳴未に「わたしの代わりに土とか運んどいて」と伝えると、テントに置いていた斬馬刀を担いで愛馬に跨る。信にオーケーサインを出すと、彼を先頭に魏軍が攻めてきている所まで駆けた。

「でも今更だけど良かったのか?」
「いいの。今は何も考えずに身体を動かしたい」
「他の隊の奴らは?」
「わたし一人で充分。何ならお前のとこの兵士、鍛えてあげる」

 ニッと悪戯な笑みで信を挑発した瑛藍。まともに彼女の笑顔を見たのは何気に初めてな信は、どきりと顔を赤くした。

「おっ俺ンとこの奴らは皆強ぇぞ!」
「ふうん? 楽しみだねぇ」

 その日飛信隊は、瑛藍一人にひたすら扱かれたそうだ。



 皆が『毐国あいこく』とは宣言だけの“建国”で、咸陽の王宮も、各地の兵達も、一般の庶民達も、
列国の首脳達も、どうせ実を結ばないとたかをくくっていた。だが『毐国』は日々着々と独立国家としてのていを形作り、成長していくのである。

 しかも毐国は早々に楚と繋がっていたらしく、国境を侵して攻めてきた。蒙武・蒙恬軍が迎撃に出たのだが、これで秦は北へ大軍を送る事が出来なくなった。

 そんな心配事を抱えながら、中央(対魏)まで揺らぐわけにはいかないと、著雍にて簡易的ではあるが正式な論功行賞が執り行われようとしていた。

「やけに急だな」
「いや、そうでもない。実力的にはもっと早くても良かったのだ」
「そーそ。そもそもわたしは騰が引き受けたことの方が驚きだよ」
「確かに」

 早く急げと部下達に急かされながら、長い廊下を歩く録鳴未、隆国、瑛藍。甲冑に身を包んでマントを翻しながら堂々と歩きながら、論功行賞の場へ赴いた。


「――それでは、先の著雍の大勝利と、その後の築城と攻防戦の功により、騰将軍を蒙武大将軍に続く、秦国二人目の大将軍に任命する!!」
「ありがたく」

 拱手して片膝をつく騰の姿に、瑛藍は両手を上げて喜んだ。

「(殿、殿! 見て、騰が、あの騰が! 貴方と同じ大将軍になったよ!)」

 壇上に立つ騰と目が合った。頬を紅潮させて見るからに喜んでいる瑛藍に、騰はこの後のことを思って柔らかく笑んだ。その表情に首を傾げた少女は「引き続き、昇格する者三人!」という声に意識を持っていかれた。

「瑛藍隊五千人将 瑛藍、玉鳳隊四千人将 王賁、飛信隊四千人将 信、前へ!」
「――へ?」

 突然名を呼ばれて目を丸くする瑛藍の背を、バシン! と力強く叩く。「ったいな!」と文句を言いながら振り返れば、録鳴未がニヤリと笑っていた。

「何ボケッとしてんだよ。呼ばれただろ」
「いや、でも、」
「自信を持て、瑛藍」

 強い眼差しでそう言われれば、行くしかない。覚悟を決めて壇上に向かい、既に並んでいた王賁と信の横に並ぶ。逆隣には騰が居て、微かに感じる温もりに安心した。どうやら不意のことで緊張していたらしい。ホッと息を吐くと、王賁と信が五千人将に任命する声が大きく聞こえた。
 さて、次はいよいよ自分の番だ。気持ちをぎゅっと引き締めて瑛藍は文官に身体を向けた。

「先の戦にて、魏火龍霊凰の側近・乱美迫の首級、並びに著雍守備戦の功、そして戦から築城までの立策により、瑛藍隊瑛藍を“将軍”に任命する!!」

 ドッと沸き起こる歓声。当の本人は口をパクパクと開けて信じられないという表情を晒していた。信なんてあんぐりと馬鹿面で此方を見ている。
 するとくしゃりと頭に手が置かれた。そっと見上げれば、自分を見下ろす優しい瞳があった。

「よく、ここまできたな」

 ひくりと喉奥が熱く引き攣る。ぼんやりと滲む視界を誤魔化そうとバシッと頬を強く叩くと、歯を見せて笑った。

「うん!」



 この後、録鳴未と玉鳳隊は南の前線へと向かって出撃した。蒙武軍と楚軍の戦いの援軍である。飛信隊は隆国の下について、共に防衛戦の舵を取るように告げられた。城の階段を隆国と降りる信は、下から上がってきた人物を見て思わず名前を呼んだ。

「瑛藍!」
「ああ、信。話は終わったんだね」

 隆国の下になったのかと笑うと、彼女はパシパシと気安げに彼の腕を叩いた。

「隆国は厳しいししつこいから、覚悟しなよ」
「おい……」
「ふふ、本当のことでしょ! じゃあね」

 ひらりと手を振って二人の横を通り過ぎようとする瑛藍の手を、信は捕らえた。まさか止められるとは思わなかった少女は紺藍の瞳を丸くして信を見る。

「…五千将の時と将軍になった今、見える景色は違うか?」

 強い光を携えた双眸が瑛藍を射抜く。ギュッと掴まれた手首に、彼が抱える痛いほどの“何か”を感じた。

「見える景色が違うかって?」

 だから、彼女は口角を上げて笑みを作る。

「当たり前でしょう。景色も、責任も、重みも、想像していたものより何倍も違う」

 早く上がってこい。言葉で伝えなくとも表情でそう言っている瑛藍に、信はぶるりと身体が震えたのが分かった。力の抜けた手から手首が離れ、彼女はもう此方を振り返ることなく上へ進む。
 夕日に照らされた薄藍色の髪は、まるで燃えているかのように見えた。

「お疲れ、騰」
「お前もな」
「ここから見えてた?」
「あれだけ馬鹿騒ぎをしていれば、嫌でも目につく」

 つい先程まで、将軍となった瑛藍を祝う祝賀会が軽く行われていた。瑛藍隊だけの集まりだったのだが、その規模は大きく、論功行賞の後だというのに収拾がつかない程の大騒ぎとなってしまった。
 まだ陽も落ちていないのにと、瑛藍が無理やり場を鎮めてここへやって来たのだ。

「これからどうする? 独立して城を持つか?」
「冗談やめて。何度も言ってるでしょう。わたしは騰軍が瑛藍隊。ここから離れる気はない」

 あまりにも当然のことのように言うものだから、聞いた本人も笑ってしまった。

「変わらんな、お前は」
「そう言う騰こそ、大将軍になったのに変わらないね」

 二人は軽口を言い合うが、互いの心に今誰が居るのか。それは言わなくとも分かっていた。

「――長かったね、ここまで」
「――長かったな、ここまで」

 けれど、きっと。
 あの人は笑って褒めてくれているだろう。