ついにこの日がやってきた


 正月の式典が執り行われた。ゴーン、ゴーン、と低い鐘の音が咸陽に幾度も轟く。

「新年明けましておめでとうございます、大王様!」
「おめでとうございます!」

 始皇九年。いよいよ政の“加冠の儀”が執り行われる年。つまり――九年に及んだ嬴政と呂不韋の権勢争い決着の年である。



「瑛藍サマ、酒持ってきた」
「やった。さすが左迅」

 前線で防衛に出ていた瑛藍は、年明けの祝いにと酒を持ってきてくれた左迅に軽く礼を告げ、すぐに煽る。喉に通るカッとした熱さに目を細めた。

「ん〜〜っ! 疲れた身体に沁みる」
「なあ瑛藍サマ、俺達はいつまで此処のお守りすんの?」
「命令があるまではこのまま待機。分かってるくせに聞いてこないの」
「ちぇー」

 左迅は唇を尖らせながらぐびりと酒を飲む。そのまま二人で雑談をしていると、ドガラッと馬が地面を蹴る音が聞こえてきた。目を向ければ一人の男が「瑛藍将軍!」と自分の名を呼びながら近寄ってくる。
 杯を置いて立ち上がり、目の前にやって来た男と向き合った。「総司令からの伝令です!」荒い息を整えながらやっとのことでそう言った男に、瑛藍は納得した表情で差し出された文を預かる。

「急ぎとのことで、馬を換えつつ走ってきました」
「ふぅん、ご苦労さん。――って、何これ」

 受け取ったそれを開こうとすると、封蝋が真っ二つに割れていた。

「ねぇ、封が割れてるんだけど。お前…中を見たの?」
「えっ!? もっ申し訳ありません! じ、実は……途中で馬の足が折れて一度落馬してしまいまして……。恐らくその時に…」
「……………」
「どっどうか総司令にはご内密にお願い致します!」

 顔色を青くした男が必死に頭を下げる。瑛藍は今一度パキリと割れた封を見て、「次はない。気をつけて」と声を掛けてから文を広げた。

「瑛藍サマにお届けする文を粗末に扱うとか、ここで死ぬ覚悟はあんの?」
「ひっヒィィ! お許し下さい!」

 男を脅すような左迅の科白を聞き流しながら、少女は隅から隅まで目を通す。伝令係の男はその様をさり気なく見ながら、未だ絡んでくる左迅に怯えていた。

「なるほど」
「内容は?」
「加冠の儀まであと十日だから、気を引き締めろだって。あと天候も」
「天候? いや、総司令は咸陽にいるんだろ? 天気って……」
「ま、分かる人には分かるんじゃない? 伝令どうも。帰っていいよ」
「は、ハッ! では失礼致します!」

 頭を下げて帰ろうとする男を、瑛藍はわざとらしく「あ、そうそう」と比較的大きな声で止めた。

「お前、夜道には気をつけなよ」

 くすりと笑いながら忠告した瑛藍。男は背を向けたまま暫く黙っていたが、また頭を下げると今度こそ去って行った。――冷や汗と震えが止まらない。遠ざかる少女の気配に安堵しながらも、ガチガチと歯が鳴るほど恐怖を感じていた。

「なーんで帰しちゃったんだよ。どう考えても――」
「まあまあ、それを見越した上での文だから。昌平君にも何か考えがあるんでしょう」

 酒瓶を取ってそのまま飲み干すと、ぐいっと口元を拭う。それでもあーだこーだと煩い左迅を強制的に黙らせて、瑛藍は馬に乗って前線から引き返した。







 十日後――『加冠の儀』当日。
 瑛藍は部下千人を連れて咸陽に向かって馬を走らせていた。

「瑛藍様、本当によろしいのですか?」
「くどいぞ、海羅。あの昌平君がわたしを頼ってきたんだから……貸し一つ作るのも悪くないでしょう」

 この十日間、騰からも散々言われてきたことをまた聞かれ、瑛藍は辟易しながら答えた。
 数日前に昌平君から届いた文の内容は、ただの世間話などではなかった。書かれていた言葉は全て暗号化されており、正しく読むと「『加冠の儀』を狙った反乱が起こる」となる。

 これを瑛藍に伝えたと言うことは、彼は暗に「力を貸して欲しい」と言っているのと同義だった。そしてそれに彼女は応えた。

「どうしても行くのか?」
「どうしても行く。でも全員は連れて行かないよ。動きを気取られないように少人数で行って来る」
「……首を突っ込まないのでは無かったのか」
「突っ込む気は無かったよ。……でも、咸陽が戦火の渦に巻き込まれるなら話は別。――あの場所を、反乱の幕引きの為の舞台にはさせない」


 何とか騰も説得して、精鋭を連れて朝日が登る前に発つことが出来た。著雍から咸陽までは大分距離があるが、急げば敵が着く前に到着することは可能な筈だ。

「嫌だっ………」

 不意に、瑛藍は呟いた。後ろで馬を走らせる左迅、右舷、海羅は同時に彼女の背中を見つめ、耳を澄ませる。

「何の罪もない、同じ国の人達が……殿が守ろうとした人達が血を流すなんて、そんなの絶対に嫌だ……!」

 まるで子どものような科白。けれどそれが彼女の本音だった。小さく肩を震わせる自分達の将に、三人は力強く頷いてそっと寄り添う。

「だから俺達が行くんだろ、瑛藍サマ」
「参りましょう、瑛藍様」
「僕達はどこまでもお供致します、瑛藍様」

 嘘偽りのない三人の言葉に、少女は瞳に光を宿しながら「ありがとう」と笑った。

「呂不韋が反乱を起こすのは分かりますが、敵兵は一体何処の者なのでしょうか?」
「つい先日建国したばかりの国が一つあるでしょう」
「まさか……」
「毐国、だろうね。今ならつけ入る隙もある。……ただわたしが分からないのは、呂不韋がどうやって毐国と――太后様と関係を持ったのか」

 患者を毐国に潜り込ませ、まだ纏まっていない毐国の中枢を自分の部下で担い、まつりごとに口を出す権利を得る。そして嫪毐を上手く唆してその気にさせ、太后を後に引けない状態にまで持っていけば、呂不韋は簡単に反乱を起こすことが出来る。
 彼の描いたシナリオは驚く程手が込んでいて、全てを知り尽くしている。後一歩遅かったら咸陽は確実にあの男に沈められていただろう。

 それを覆す存在が、まさか出てきてくれるとは。瑛藍はその人物の顔を思い浮かべて笑った。

「そういやあの伝令係、見つけたら殺していい?」
「別にそこまで害は無かったから、放っておいていい」
「いやいや、瑛藍サマを謀ったんだよ!? 俺は許せない」
「俺も許せないです」
「同じく僕も許せません」
「分かったから! 好きにすれば!?」

 思わず承諾してしまうと、三人は舌なめずりをして喜んだ。凶悪な表情を瑛藍はそっと見て見ぬ振りをし、やっと見えてきた咸陽に目を凝らした。

 火の手は上がっていない。敵の姿も見当たらない。どうやら間に合ったようだ。
 咸陽の門に近づくと、自分の身分を伝えてすぐに開けてもらう。滑り込むように中へ入ると、門兵に水を持ってくるように頼んだ。

「海羅」
「はい」
「水分補給をしたら各自体調を整え、自然と隊列を組むように伝えろ。わたし達以外に気づかれないように」
「御意」

 ここでは自分達以外の誰が味方で誰が呂不韋側なのか分からない。そんな状況で表立って命令する訳にはいかない。だからこそ海羅に頼んで隊全体に伝えるように告げたのだ。

「お待たせ致しました!」
「ありがとう、助かる」

 水を受け取って勢いよく飲み干すと、今一度目の前に聳え立つ門を見上げた。また此処にこんな形で戻ってくるとは思わなかったが、やることは変わらない。――ただ、護るだけ。