李牧の首を取りに行くことは、恐らく容易ではないだろう。遠目から見ただけだったが、あれは相当の手練れだ。――とにかく今は、殿の元へ向かわなければ。
一方、趙荘軍を追っていた王騎軍だが、その進みはやや遅かった。一見歩兵の足に合わせたようにも見えるが、そうではなかった。
王騎が再び違和感を覚えたからだ。それは最初に本陣を移動する時に感じたのと同じものであった。
「(…………、やはり、かすかに何らかの策の臭いがしますが――。今の趙軍を打てる手を考えても、ここから大技をくり出すことはできないと断定できます)」
馬を走らせながら、王騎は眼を鋭くさせる。
「(しかし、
故に慎重にならざるを得なかった。
「(瑛藍が違和感の正体を掴みに行っていますが……。あの子が早いか、それとも策がこの私を襲うのが早いか。いったいどちらでしょうかねェ……)」
ここでやっと趙本軍を確認することができた。ならば急がないと、本当に蒙武がやられてしまう。王騎は騎馬隊を全速前進し、歩兵も可能な限りついて来させるように伝えた。
「(――信じていますよ、瑛藍)」
王騎の念が届いたのか、瑛藍は生き絶える寸前の秦軍兵に遭遇した。何とか意識を取り戻させ、趙軍の行き先を尋ねると、すぐに馬に戻って走らせる。
馬にも相当無理をさせているとは分かっていた。けれどその無理を押し通してでも行かなければならなかった。先程感じた嫌な予感は趙軍の行き先を聞いた今、より強くなって瑛藍を襲ってきたから。
――山間の趙本陣があった所より、南東の方に変わった地形があった。大きくひらけた平地を断崖が広く囲っているのである。
その形は釣り鐘状になっていて、壁際に追い詰められていた蒙武軍はギリギリの所で到着した王騎率いる本軍が到着していた。
秦・趙戦。開戦より五日――ついに両軍の大将同士が対峙したのだ。
騰騎馬隊、歩兵隊がおとりとなって王騎が本陣へ突撃する。両者入り混じる戦いとなった戦場で、体力を大幅に消耗した蒙武軍は壁際に留まって戦を静観していた。
そこへ後ろからかすかに馬の走る音が聞こえてきた。蒙武はすぐに反応し、得物を持ったまま茂みの奥を睨みつける。だんだん音が大きくなると同時に姿を現したのは、数日前に王騎の傍で見た薄藍色の髪の女だった。一日中走ってきた身体は汗と泥で汚れているが、目立った傷跡はない。
蒙武は構えていた得物を下ろすと、ちょうど自分を見つけた瑛藍は馬のまま壁を飛び降りた。まさかあんな崖のような壁を降りてくるとは思わなかった蒙武は軽く目を見開いたが、女は気に留めず「殿は!?」と勢いのまま迫る。
「王騎なら、本陣に突撃した」
「! 一歩遅かった……!」
悔しそうな表情を浮かべながら、目の前で起こる戦を見る。
「龐煖は?」
「とっくに来ている」
「………そう」
握る斬馬刀に力を込めると、瑛藍は最後に馬を変えてもらい、戦場に向かって走った。たった一騎で乗り込んできた秦兵に周りの趙軍は槍を向けてくるが、彼女はたった一振りで周囲の敵を一気に葬る。それは遠くにいた信達飛信隊にも見えていた。
「な、ハァ!?」
「なんだよあの強さ! まるで……」
「まるで蒙武将軍や王騎将軍みてぇじゃねーかよ……」
突然現れた、身体に見合わない大きな得物を振るう女の出現は、敵味方関係なく惑わせた。その隙をついて瑛藍は敵を屠る手を止めず、ただひたすらに突き進む。――全てはあの人の元へ行くために。
やがて激しかった人の流れが落ち着いていく。やっとの思いで人波を抜けると、そこでは王騎と龐煖の一騎打ちが繰り広げられていた。
「とっ…………殿っ……!!」
この声は、震えていなかっただろうか。
九年間もの間、王騎が抱えていた想いを瑛藍はよく知っていた。だからこそ今の一騎打ちを簡単に止められるなんて思っていない。だが止めなければならなかった。
瑛藍が見てきた王騎の違和感の正体は、この戦において一気に戦況を揺るがすものなのだから。
――しかし、実際にこの熾烈な戦いを見てしまえば、もう止める言葉なんて出てこない。あの人が抱える怒りを、憎しみを、わたしは知っているから。
瑛藍は一度呼んだきり言葉を続けず、人が密集する中を逆走する。“王騎の違和感”が到着するまであと数刻程あるだろうが、絶対的な確信はない。あの李牧とやらは必ず、必ず自分達の予想などひっくり返してしまいそうだと思ったから。
釣り鐘状の窪みから反対方向に進み、ひらけた場所に出る。さあ、いつ来るのか――馬の手綱を力一杯握りしめた時だった。
まるで地鳴りのように轟く馬の足音。前を見てみれば、瑛藍と同じように趙軍が馬ごと崖から駆け下りてきた。――敵側の援軍だった。ずらりと並ぶ趙の旗。その奥にあった顔に、瑛藍は奥歯を噛み締めた。あと男だ――李牧だ。
王騎の予測は外れた。彼の予測は瑛藍と同じく、まだ半日はかかると思っていた。実際、彼らが現れた場所は予測通りだったのだ。
では、なぜ援軍――李牧軍は彼の予測よりはるかに早く到着したのか?
その理由は騎馬だった。ずっと古くから北の山岳地帯で騎馬民族“匈奴”と戦ってきた彼らにとって、山間は障害ではなかったのだ。そのおかげで李牧軍は山々を迂回することなく、真っ直ぐ決戦の地に馳せることができた。
「
猛々しい声と共に、“大天”と書かれた旗が空高く掲げられる。それはつまり、趙が誇る『三大天』のうちの一人がいることを意味していた。
趙軍側は士気を高め、反対に秦軍はガクガクと足を震わせながらこの予想外の事態に混乱し、絶対的な兵力差に絶望する。余力など、なかった。
だが、ここで李牧の誤算が一つだけあった。
「三大天がどうした!」
戦場に響くには、あまり似合わない声だった。――なぜならそれは、女の声だったから。
趙軍や李牧、そして秦軍も困惑を露わにする中、彼女の声は飛信隊や王騎軍にとってはまるで天から差す一筋の光のようだった。
「九年間、殿がずっと待ち望んでいた決戦を邪魔する輩は、このわたしがぶっ殺す」
荒々しい物言いに、李牧は眉を顰める。目を細めて前方を見れば、そこには薄藍色を砂塵に靡かせる女がいた。とてもあの少女が言ったようには思えないし――そもそもなぜあの少女はあそこにいる?
あれではまるで、自分達が来るのを待っていたようではないか。
「お前達が何万の軍勢を引き連れて来ようとも、殿の邪魔はさせない。――このわたしが一人残らずぶった斬る」
見た目は小柄なのに、体格に見合わない斬馬刀を持つ少女。しかし決して小さく見えなかった。むしろどうしてだろうか。
まるで王騎のように、彼女がとても大きく見えるのは。
「王騎軍!」
「「「!!!」」」
「何を狼狽えているの! 敵が増えたのなら、その倍ぶっ潰せばいいだけでしょう! そんな情けない姿をそれ以上晒すなら――二度と殿と演習なんて行かせないし、湯にだって入らせない! ご飯だって二人きりで食べてやるんだから!」
そんな科白をよく大声で言ったな…。信は信じられねえ、と口元を引きつらせたが、王騎軍には効果抜群だった。「ウオオオオォォ!」と皆が叫び、士気を高める。
「お前にだけ殿を独り占めなどさせられるか!」
「だったらやるべきことはわかってるでしょう! 誰一人殿の邪魔をさせるな! 殿の刃を鈍らせるな!」
ガッと斬馬刀を空に向かって掲げた。太陽の光を浴びて鋒がきらりと輝く。
「今こそ王騎軍の力を見せつけるぞ!」
「「「オオオオオォォォ!!!」」」
李牧のたった一つの誤算は、とても大きかった。まさかこの状況で絶望的だった兵士達の士気を上げるだなんて予測していなかったのだから。
「ンフフフフ、信じていましたよ。瑛藍」
心の底から王騎は安堵した。
まさかここから王騎軍の士気を上げることが出来るとは。しかもその王騎軍につられて他の秦軍にもその熱気が伝染する。瑛藍の正体が分からなくても、彼らにはもう関係なかった。
「瑛藍、貴女は本当に……」
よくやってくれました。