まもりたい命が多すぎるよ


 元々少数の部隊を更に分け、大人数を門付近の守護にあてると、瑛藍は残った兵士達を連れて咸陽の奥へ突き進んだ。

「瑛藍様、本当に良いのですか?」
「……後悔したってもう遅いんだよ、海羅。全部憶測の域を出ないけれど……これが愚策になるかどうかは、この後にかかってる」

 門の守護だけはどうしても腕利きがいる。その為瑛藍は己の両翼である左迅と右舷を置いてきたのだ。本来なら海羅に任せたいところだが、阿吽の呼吸で敵を止め、圧倒することが出来るのはあの二人しか居なかった。

 馬で走りながら目に入る光景に、不快感や怒りが込み上げてくる。どうして王都に住まう彼らがこんな目に遭わなければならなかったのだろう。もっと、もっと速くに駆けつけていれば。
 けれど後悔したところで火は消えないし、殺戮の手は止まない。馬の手綱を力の限り握り締めると、少女は目的地まで一心不乱に駆け抜けた。

 何度か相対した敵を葬ったが、疲弊は募る。特に今日は兵士の数が少ない為、戦力差が大きく開いたまま戦闘になってしまうことが多かった。

「瑛藍様っ……」
「自分の心配をしろ、海羅…。お前らも、あともう少し頑張って…!」
「何を言うんですか、瑛藍様! 俺らの心配なんていらねェっスよ!」
「そーそ。むしろ肉壁くらいに思ってください」

 こんな時でも冗談交じりの会話をする仲間に、瑛藍は瞳を細めて笑う。なんて頼もしい仲間だ、と。

 目的地である後宮に着くと、まずはザッと周囲を見渡した。血で汚れた形跡もなく、陵辱されたような光景もない。ひとまずは間に合ったと息を吐いた瑛藍は、ここから更に隊を分けてここに残るように命令を下す。

「いいか、敵の狙いが後宮ここなら、必ずこの場所に来る。ここに居るのは戦う術を持たない宮女と宦官だけ…。お前達だけが頼りだ」

 頼んだぞ。
 強く告げた自分達の隊長に、男達は一斉に拱手した。重たい甲冑が擦れる音さえ揃って聞こえ、少女は微かに笑って彼らに背を向けた。

「(本当に、頼もしい仲間が集まったな…)」

 瑛藍と共に進むのは海羅のみ。後ろから自身の隊長に着いて行く海羅は、その背の大きさに改めて圧倒された。自分より背も小さく、性別だって違うのに。――いつだって彼女には敵わない。

「――見つけた……!」

 瑛藍が声を上げたその先に居たのは、二人の宮女と幼い少女。馬の足音に気がついた三人も此方を振り返って目を見開いていた。恐らく味方かどうか判別が付いていないのだろう。
 近づくに連れて徐々に馬の速度を落とすと、軽やかに馬の背から降りて地面へ降り立った。瑛藍に続くように海羅も同じく地に足をつける。そのまま流れるように二人は拱手し、頭を垂れた。

「到着が遅れましたこと、誠に申し訳御座いません」

 建物の中に居た方が安全に決まっているのに、こうして共もつけずに外へ出てきてしまっている嬴政の妻であり后のこうとその娘であり王女のれい、そして友人であり宮女のよう。女三人でこの後宮を逃げ回るつもりだったのかと思案したが、彼女達の表情を見て全てを悟った。

「(護衛も一緒に居たはずだ。裏切られたのか、それとも命を賭けてこの三人を守ったのか…。どちらにせよ、今会えて良かった)」

 改めて深く頭を下げると、そのまま顔を上げて真っ直ぐに向を見た。

「わたしは騰軍が瑛藍隊、瑛藍で御座います。此方は部下の海羅。今からはわたし達が貴女方を命を賭けてお守り致しまする故、どうぞご安心ください」

 と、言ってみたものの。まだ固い様子の三人にふっと眦を下げた。

「信じられないお気持ちも分かります。わたしを信じろなど到底言えません。……ですが、わたしはかつて“蕞”にて大王様と共に戦った者の一人で御座います」
「! あの戦で………」

 少しばかり反応を示してくれた陽に安心するよう微笑むと、すっくと立ち上がって遠くから聴こえてくる喧騒に耳をすませた。

「……急ぎましょう。いつ敵がここに来るかも分かりません」

 焦りからか、少し早口になった瑛藍はちらりと陽の足首を見る。赤く腫れ上がり、足が不自然な方向に曲がってしまっている。
 傷の具合をサッと目視すると、後ろに控えていた海羅と目を合わせた。それだけで彼女の意図を把握した彼が頷くのを確認すると、瑛藍は「失礼します」と一言断りを入れて向を抱き上げた。まるで子どもを抱っこするようなそれに、彼女は甲高い悲鳴をあげるが、すぐにパシッと両手で口を押さえて抗議するように瑛藍を見る。

「どっどうしてこんなっ…!」

 羞恥心が込み上げてきてそっと友人の陽を見れば、彼女は瑛藍の部下である海羅に同じように抱きかかえられていた。娘の麗も同じである。
 状況を飲み込めぬままあたふたとする向と陽を置いて、瑛藍と海羅は一気に走った。馬を置いてきてしまったが、賢いあの子達のことだ。すぐにどこかへ逃げてくれるだろうと勝手に期待して、自分の首にぎゅっと両腕を回してきた向に尋ねた。

「わたし達は後宮には詳しくありません。どこか隠れられるような場所をご存知ですか?」
「え!? えっと、えっと……」
「私が知ってます!」

 力強い科白に思わず声の主である陽を見れば、グッと唇を噛んで瑛藍を見ていた。合わさる双眸にこくりと頷くと、「では先導をお願い致します!」と速度を落とす。海羅はそのまま陽の指示に従って入り組んだ道を進み始めた。

 吐く息が荒くなり、足がとても重たくなってきた。それでも今、止まるわけにはいかなかった。皆が命を賭して戦っているのに、ここで諦めるのは違うだろう。
 息を詰めて歯を食いしばり、瑛藍はひたすら走った。

「(このひと…、同じ女なのにこうも違うなんて……)」

 瑛藍に抱きかかえられている向は、上から彼女の顔を見下ろす。自分と同じ歳くらいに見えるのに、こうして戦場を駆け抜けているなんて、信じられなかった。
 自分を抱く腕は力強いし、手のひらは男のように固い。それでも風に遊ばせている髪は柔らかくて綺麗で、しなやかに伸びているし、煌めく二つの紺藍はまるで宝石のようだ。

 ――暫く走っていた二人だが、ザザザッ…と同時に足を止めて後ろを振り返った。まだ目的の三低さんてい通りまでは距離があるのにどうして、と陽達が不思議に思った時だった。
 石畳を蹴る馬の足音が少しずつ聞こえてきたのだ。徐々にその音は大きくなり、此方に向かってきていることが容易に想像出来た。

「まさか、もう追っ手が……!?」
「三低通りまであと少しなのに!」

 愕然とする向と陽に、瑛藍は思案する。ほんの数秒のそれは、彼女に覚悟を決めさせるには十分すぎる時間だった。

「お后様」
「は、はい」
「ここから先は、ご自分の足で走れますか?」
「え……?」
「瑛藍様!」

 咎めるように自分の名を呼ぶ海羅に、彼女は笑みも浮かべずに目を向けた。海羅はたまらず麗と陽を降ろしてギュッと拳を握りしめる。

「此処はわたしが引き受けた」
「引き受けたって……どうしてそんなことを勝手に決めるんですか! 残るなら僕が――」
「これが今、一番の最善策だ。我が隊で一番足が速いのはお前だろ、海羅」
「だからって……」
「海羅」

 まだ文句を言いたげな男の名を強く呼ぶと、彼は口を閉ざすしかない。ゆらゆらと迷うように揺れる瞳に苦笑すると、向を降ろして海羅に両手を伸ばした。頬を包むように触れると、そのまま自分の元まで引き寄せ、前髪の上からそっと額と額をこつん…と合わせる。

「おねがい、海羅」

 甘い吐息のように囁かれる。

「お后様達を、どうかお護りして」

 続いた言葉に、海羅は我慢できなかった。衝動的にぎゅうっと自分よりも小さな存在を力一杯抱きしめ、その存在を確かめる。暖かい温もりが触れているところから伝わってきて、手を緩めることができなかった。

「――っ……御意……!」

 生きて、とは言えなかった。
 死なないで、とも言えなかった。

「頼んだよ、海羅」

 それでも、貴女にそう言われたら。何度時を戻したって僕は必ず頷くだろう。





「――さてと」

 もう見えなくなった海羅達の背中に安堵しつつ、瑛藍は得物を構えた。見えてきた馬と敵の姿にうっすらと口角を上げながら、今にも限界が来そうな足を拳で強く殴った。

「もう少し保ってよ……!」

 ぽたりと冷や汗が滑り落ちた。

「居たぞ! 騰軍瑛藍隊隊長、瑛藍!」
「……わたしも有名になったなぁ」

 先陣を切って刃を向けてきた相手を睨み、思い切り斬馬刀を振るった。途端に男の胴体はベキベキッと骨が折れる音を立てながら、ドサッと馬から落ちる。ぴくりとも動かなくなった男を一瞥して、瑛藍はトン、と斬馬刀を肩に担いだ。

「さぁ、誰から来る?」

 精一杯、虚勢を張れ。頭の奥でガンガンと鳴り響く音を聞こえないふりをして、瑛藍は激昂した敵を迎え討つ。

「クッソォ! 死んじまえ!」
「弱い奴ほどよく吠えるってね!」
「んだとォ!? ウガッ…!」
「(数が多い……! 疲れてなけりゃあこのくらいどうってことないのに…)」

 だが泣き言は言ってられない。滑り落ちそうになる斬馬刀を何とか持ちながら、騎馬隊相手に善戦する瑛藍。しかし無理が祟ったのだろう。グォッと馬ごと押し倒すつもりだったのだが、ガラン…ガラン…と地面に何か落ちた音が響いた。
 見れば、そこにはついさっきまで自分が持っていた得物が横たわっていた。思わず手のひらを見れば、皮がズル剥けて血塗れだった。――身体はとうに限界を迎えていたのだ。

 その一瞬の隙を見逃す程、敵も甘くない。空に轟くような雄叫びを上げながら、敵の持つ刃が瑛藍に向かって振り下ろされた。