守れないならでしゃばるな


 高い石壁に手を添えながら、一歩ずつ先へ進む。少女が歩いた後は血の道が続いており、一目見て重症だとありありと分かった。

 あの後、瑛藍は右肩で刃を受けたものの、食い込むそれを右手で掴むと敵を馬から引き摺り下ろして、鳩尾に重たい蹴りを一発。怯んだところで敵から得物を奪い、休む間も無く倒したのだ。
 頭から血を被ったせいで髪も顔も赤く染まった姿は、戦いの壮絶さを物語っていた。

「ハァ……っ…ハァッ……海羅達と、合流、しないと……」

 足を引きずるように歩くが、思うように進めない。霞む視界に目を細めると、がくんと足の力が抜けてその場に倒れ込んでしまった。一度倒れてしまえば、もう起き上がれない。荒い息を吐きながら目を閉じようとすると、遠くから足音が聞こえた。
 敵か、味方か、どちらにしろもう動けない。ぼんやりとした目で見上げると、太陽を背に受けながら、男が自分を覗き込んでいた。

「随分と派手にヤられたなァ」
「だ、れ…………騰……?」
「俺をアイツと一緒にすんな。ったく…野放しにしすぎたか?」

 ガシガシと頭を掻く男の科白がちっとも聞こえない。騰なのかどうかすら判別出来ず、瑛藍はそのまま眠るように意識を失ってしまった。

「つーか……って、おいコラ、寝てんじゃねェよ。……しゃーねェな」

 ボロボロじゃねェか。
 目を閉じてぴくりとも動かなくなった瑛藍を抱きかかえると、男は少女を上から下まで見た後、ぼそりと呟いた。血塗れの髪と顔に、肩の出血も止まっていない。

「安心しろ。お前を傷つける奴等は、みぃんな潰してやるからよ」

 男の唇がそっと少女の額に触れる。血で汚れても構わないという姿勢は、男の仲間が見たら卒倒するだろう。
 結い上げた男の黒髪が太陽の光に反射され、艶々と光る。軽い足取りで男は少女を抱いたまま石畳の上を歩き出した。


 ――一方、飛信隊と合流した海羅達は、壊されていない城の中へ入って拠点を張る。怪我を負った脇腹の手当てを受けた信は、治療も受けずに扉の近くで佇む海羅に目を向けた。

「そんなに気ィ張り詰めてもしょうがねェだろ」
「貴様には関係ないだろう」
「だいたいあの瑛藍だぞ? ンな簡単にヤられるわけ――」

 カツン、と足音が信の言葉を遮った。途端に緊張感が増す室内に、足音は更に迫ってくる。味方か敵か、入ってくるまでは分からないこの状況に、誰もが息を呑んだ。

「……あ? 何だテメェら」
「――ッ、かっ……桓騎将軍!?」

 現れたのは桓騎だった。予想していなった人物に信はあんぐりと口を開けて名を呼ぶが、次いで彼の腕の中で眠る少女を見て更に驚いた。

「ッ瑛藍様!」
「瑛藍!? え、は? なっ何で桓騎将軍が瑛藍を………」
「ごちゃごちゃうるせェよ。さっさと手当ての準備をしろ」

 静かに信を諌めた桓騎は、スッと陽を見る。切れ長の瞳が自分に向いた陽は、慌てて奥から布を幾つか持ってきて、それを重ねて布団のように床に敷く。そこへ瑛藍を優しく寝かせると、向が用意していた水と布の入った桶を受け取った。
 ぎゅうっと布を絞り、丁寧に瑛藍の顔を拭いていく。すぐに布が血を吸って真っ赤になったが、代わりに少女の顔は綺麗になり、桓騎は普段誰にも見せないような笑みを浮かべた。

「おい」
「な、何だよ……ですか」
「お前じゃねェよ。……お前だよ、お前」

 すぐに反応したのは信だ。しかし桓騎は違うと否定すると、固まっていた海羅に目線を移した。

「騰に伝えておけ。近々会いに行く、と」
「! それは、つまり……」
「ああ。今まで俺の大事な狗を預かっててくれてアリガトウって、一言一句間違えることなく伝えろよ」

 それきり海羅を見ず、気が済むまで瑛藍の顔を拭いていた桓騎は、血を含んだ布を雑に桶の中へ投げ捨てると、最後に愛しい少女の前髪を分けてやった。先ほどより少し表情が柔らかくなった瑛藍に満足したのか、桓騎は立ち上がって部屋の外へ向かう。

「何処に行くんだ…ですか!」
「決まってんだろ? 外だよ外」
「外って……そういや何で桓騎将軍がここに…」
「呼ばれたんだよ、総司令にな」

 信の質問にかなり適当に返事をしながら部屋を出ると、桓騎は来た道を辿って函谷関へ馬を走らせた。



「残りの手当ては私がします」

 陽は震える手を何とか抑えると、傷薬や包帯を手に取って横たわる瑛藍の側に膝をついた。手当の済んだ信は外の加勢に行ってくると城外へ行ってしまった。
 男が女の、しかも自分の主の裸を見ることは出来ないと、海羅も部屋の外で待機することに。

「(……本当に、あの男が城へ来るのだろうか。そうなったら瑛藍様はあの男の元へ行ってしまうのだろうか…)」

 そもそも桓騎と瑛藍の関係性を知らない海羅は、歯痒い思いでいっぱいだった。知らされていない事実も、教えてくれない瑛藍も、知っているくせに放置している騰も、今は全てが苛立たしかった。

 桓騎に抱えられて運ばれてきた瑛藍は、血塗れだった。相当な深手を負ったのだろう、目の前にある城の廊下には血がぽつぽつと落ちていた。恐らく瑛藍のものだろう。――ガンッと、鈍い音が短く響く。怒りに身を任せて強く壁を殴った手から、微かに血が滴った。

「――海羅様?」
「………はい」
「手当てが済みました。右肩の傷が酷いので、後で医者に見せた方がよろしいかと…」
「分かりました。…ありがとうございます」

 陽に頭を下げて礼を言うと、海羅はやっと瑛藍の側に座った。荒く呼吸を繰り返す姿に胸が痛み、同時に自分に酷く怒りが込み上げてきた。

「っ…もっと、もっと…」

 強くなりたい。貴女を護れるくらい、強く。
項垂れた海羅の前髪が、開いた窓から吹き込む風によって静かに揺れた。



 やがて昌平君一団が到着し、総司令である昌平君が敵将ワテギ――通称“戎籊公じゅうてきこう”の首を討ったことで決着がついた。その勝ち鬨は咸陽の奥にいた向達にも聞こえてきて、絶え間なく空に轟く雄叫びに涙を流した。

 逃げて行った反乱軍を待ち構えていたのは、趙の前線に居た桓騎軍だ。函谷関を抜けたところでぶつかり合い、散々に粉砕された。

「両眼をえぐって手足を切り落とせ。俺の大事な狗を傷つけられたんだ、楽に殺すな。地獄を見せてやれ」
「そういうことだけは絶対にするなと、総司令の伝者が」
「生き証人ですからねぇ」
「チッ…なら下っ端数人寄越せ。それならバレねェだろ」

 どうしても腹の虫が収まらない桓騎は、適当な兵士を捕まえて陵辱していく。先の言葉通り、両眼をえぐって手足を切り落とし、更に舌を引っこ抜いた。

「痛えよなァ? しょうがねェよ、お前らは俺の大事な大事な狗に傷をつけたんだからなぁ。――嬲り殺してやる」

 整った顔が恐怖をさらに倍増させる。周囲でその狂気を目の当たりにした敵兵は、せめてあの桓騎の側には寄りつきたくないと武器を捨てて必死に降伏の意を示した。

 そして生け捕られた嫪毐は咸陽へと送られ、そこで太后と再会するのである。