溺れかける寸前に救われた


 嫪毐は咸陽に連行された後、これまでの経緯を洗いざらい口にした。その中で自分が、呂不韋の手引きで偽宦官として後宮に入ったこともしっかり自供した。
 しかし一つだけ、嫪毐は事実をねじ曲げた部分があった。それは、自分が・・・王の玉璽の複製と太后の玉璽を盗み、軍を興して反乱に到ったとしたところである。太后は乱について一切関わっておらず、全て己の独断であったと必死に自供したのだ。

 ――そうして、これから嫪毐は秦国の法律で最も重い犯罪を犯した者に課せられる、“車裂き”の刑に処されるのである。




 瑛藍が目を覚ましたのは、あれから数日経った朝方だった。備え付けの窓からはまだ少ししか顔を出していない朝日が見え、咸陽をゆっくりと照らし始めている。
 まだぼんやりとした思考のまま、緩慢な動作で手を持ち上げた。皮がズル剥けていた手のひらにはしっかりと包帯が巻かれている。自分の姿を全身確認出来たわけではないが、恐らく怪我をしたところはきちんと手当てが施されているらしい。

 とりあえず一度起きようと頭をぐぐっと持ち上げてみれば、力の入った肩が酷く痛み、また布団へ逆戻りしてしまった。自然と肩に手を持っていけば、滑らかな包帯の手触りを感じる。

「……どう、なったんだろう」

 やっとのことで声を発してみれば、ガラガラと掠れ、自分でさえ聞くに耐えないものだった。ああ、喉を潤したい。きょろりと水を探していると、急に扉が開いた。
 パッと開いた扉を見れば、そこには信がこれまた驚いた顔で立っていた。どうやら彼も瑛藍が起きていたことを予想していなかったらしい。わなわなと体を震わせた次の瞬間には、「いつ起きたんだよお前!」と朝方には不似合いな大声を室内に響かせた。


「――で、あれからどうなったの?」

 加減もなしに大きな声を出した信の頭を手加減せずに拳骨を一発見舞った瑛藍は、すぐに水を取りに行かせ、喉を潤してから気になっていたことを訊ねる。冷たい水のお陰で、喉だけでなく頭も冴えてきた。

「嫪毐っつー宦官が捕まって、処刑された。反乱軍も捕まったよ。政の母ちゃんは殺されずに、離宮で過ごすことになるらしい」

 俺も起きたばっかだから、あんまり把握してねェけどな。
 静かに語ってくれた信に、首を横に降る瑛藍。正直今起きたばかりの自分には、どれも必要な情報だ。それに、ということは――。

「この戦い……大王様が勝ったんだね」

 長い長い戦いに、やっと終止符が打たれた。それも嬴政の勝利で。
 深く息を吐いた瑛藍に、信は「お前も政側だったのか?」と気になっていたことを聞く。

「わたし達騰軍はあくまで中立。勝った方に従うつもりだったけれど……わたし個人としては、蕞で共に戦った大王様につきたい気持ちがあったからね」

 それに、と瑛藍は寝転がったまま天井を見上げる。

「殿が、見てみたいと言っていたから。大王様が中華を統一するその時を」

 あの人が見ることが出来なくなった夢の果てを、代わりに自分が見るのだ。
 だがその前に、瑛藍自身解決しなければならない問題があった。解決、ではない。不和が残ったまま放置されたもの、と言う方が正しいのかもしれない。

 シンと静まり返った部屋の中、瑛藍は天井から目を離してベッドの横で立っている信を見た。いつも自身で輝いている紺藍色はどことなく揺れていて、彼女の不安を如実に表していた。

「瑛藍?」
「ねぇ、信。わたしを助けた人、誰だか知ってる?」

 意識を失う前、誰かに助けられたことを朧げに覚えている。
 その正体を、瑛藍は何故かとても知りたかった。自分の隊の誰かか、飛信隊か、別の軍か。――それとも。

 残った一つの可能性を思い浮かべるのと、信が答えを紡ぐのは同時だった。

「あー、あの人だよ。桓騎将軍!」
「―――…」
「お前桓騎将軍とも知り合いだったんだな! あの人、自分でお前の顔についた血とか拭いてたからビビった」
「あ、うん……」
「海羅に言ってたぞ。また会いに行くーって……どっどうした!?」
「へ、何が……」
「おまっ顔色真っ青だぞ!?」

 信は慌てて駆け寄り、迷った末に瑛藍の額に優しく触れる。人の温もりに触れ、荒波のように乱れていた感情がだんだんと穏やかになっていくのが自分でも分かる。

「どっか痛むのか?」
「ううん。……遠ざけていたものから、逃げられなくなっただけ」

 もうどうすることも出来ない。あの人が“会いに行く”と言ったのであれば、それは恐らく近いうちに本当のことになるだろう。
 しかも自分にではなく海羅に言ったのだ。これはもう確実に迎えに来てしまう。

「(昔はあんなに帰りたいって思ってたのにな……。今は帰るのが、あの人に会うのが、こんなにも怖いなんて)」

 目を閉じて手のひらで覆う。そしてほとんど無意識に彼女は呟いた。

「騰に会いたい………」

 その呟きに、信は暫く動けなかった。




 あれからすぐに出て行った信を追いかける気力もなく、ベッドの上でウトウトと微睡んでいると、コンコンとノック音がした。ゆるりと首だけを動かしてみれば、入ってきたのは海羅だった。
 彼とこうして顔を合わせるのは、敵を目前にして別れた時以来だ。まずは労いの言葉を、と瑛藍が口を開く前に、自分の身体が暖かな温もりに包まれた。ぎゅうっと力強く抱きしめられていると気がついた瞬間、耳元でほとんど吐息のような声が聞こえた。

「よかった………!」

 存在を確かめるように腕の力をさらに強める海羅。圧迫されて苦しいが、とても文句を言える状況ではないため、瑛藍はそのままもぞもぞと動いてそっと彼の背に腕を回した。
 心配をかけてしまった。けれど今でもあの選択に後悔はしていないし、ああして良かったとさえ思っている。だが、それで彼がどれほど自分を心配してくれたのかなんて、きっと計り知れないだろう。

「傷だらけで運ばれてきた瑛藍様を見て、僕は、僕はっ……!」
「うん」
「っ……あんな無茶、二度としないでください!」
「……約束はできないな」
「だったら!」

 グイッと抱きしめる手を緩めて、肩を押される。離された温もりに顔を上げれば、予想よりも近い位置に海羅の顔があった。潤む空色の瞳が、強い意志を持って瑛藍を映す。

「貴女の意思関係なく、僕が貴女を護ります」
「はぁ?」
「こればかりはいくら瑛藍様でも、文句は言わせませんから!」

 フンっと強くそっぽを向いた海羅は、ゆっくりと瑛藍から離れて扉へ向かう。最後に扉の前でピタリと足を止めると、振り返ってベッドに横たわる自身の隊長と目を合わせた。

「…飛信隊の隊長から、お聞きされましたよね」
「……うん」
「殿には既にお伝えしています。…体調が回復次第、すぐ帰ってくるようにと言伝を預かっております」
「ふ、…うん」

 “帰ってくるように”。その言葉は、今の瑛藍にとって何よりも救いだった。

「だったら、早く帰らないとね。我らが大将軍のお言葉なんだから」