いとも簡単にかき乱された


 ――衍氏城が楊端和率いる山の民によって攻め落とされた。その急襲・陥落は列国に大きな衝撃を与えた。
 その後楚の宰相・春申君が暗殺され、新宰相の座には、春申君を暗殺した張本人である李園という男と、三年前の合従軍にて楚の第二軍将軍を務めていた禍燐が座ったのである。

「もう嫌だ…。昌平君からの木簡はしばらく見たくない」

 情報量が多すぎる。
 カン、カン、と打ち合いをする音を聞きながら、瑛藍はぐうっと伸びをした。



 加冠の儀が行われ、嬴政が名実ともに大王として認められたあの日から数日後。すっかり完治した瑛藍はすぐに騰の下へ帰還した。
 勿論桓騎とのことも伝えた。その上で彼はまた言ってくれたのだ。――お前の居場所は此処にあると。

 いつ彼からの伝令が送られてくるか分からない。数年後か、はたまたもうすぐか。その時ばかりはいくら瑛藍でも予想出来なかった。

「楚攻めが無くなったってことは、次は何処になんの?」
「左迅…右舷と打ち合っていたんじゃなかったの?」
「終わりが見えないんでぇ、やめちゃった」

 てへ、と可愛らしい笑顔を浮かべる左迅を華麗にスルーすると、先程の質問に答えた。

「決まってるでしょう、趙だよ」
「趙〜〜? 趙の何処?」
「いくつか候補はあるけど……こればかりは昌平君から聞かないと」

 その矢先に、昌平君からの伝令が届いたらしい。海羅が苛立った様子で届けに来た。

「海羅?」
「はい」
「いや、お前どうしたの…。そんなに苛立ってるなんて珍しい」
「……伝令これを持ってきた人物が、僕とは馬が合わなさそうだっただけです」
「伝令係に怒ってんの?」

 うちの男共は伝令係に怒りすぎだと思いながら、瑛藍は海羅から伝令を受け取る。昌平君からのそれは確かに瑛藍への命令だった。
 瑛藍が中を読み進めている間、左迅と海羅が伝令係について文句を言い合っているが、彼女の耳には入らない。むしろそれどころではなかった。

「――“黒羊丘にて、既に攻略に向かっている本軍五万と合流せよ”。黒女こくにょ川の五丘ごきゅう地帯か……また攻めにくいところを言ってきたな、あの人も」

 苦い顔をしながら一人呟くと、五万もの大軍を率いている武将は誰だと、伝令の下の方へ目を落とす。そこに書かれている名前に、瑛藍は紺藍色の瞳を大きく見開かせた。

「あ、………っ」
「? 瑛藍様?」
「どした?」

 様子が変わった隊長に、海羅と左迅はすぐに気がついて固まっている彼女に近寄る。しかし瑛藍は気づかない。二人は互いに顔を見合わせたあと、左右から伝令を覗き込んで文字を追っていく。最後に書かれた将軍の名に、二人も一瞬息が詰まった。

「まさか――」
「っ……瑛藍様、お気を確かに!」
「あ…うん、……うん、大丈夫。………、大丈夫」

 まるで自分に言い聞かせるように『大丈夫』と言うと、伝令をぐしゃりと握り潰した。

「断るのは…無理そうっすね」
「昌平君からの伝令だよ、断れない。…それに昌平君は、わたしとあの人に関係性があるなんて少しも知らないのだから」

 口ではそう言いながら、頭では理解が行きついていないようだ。それでもしゃんとしなければと、瑛藍は自分の頬を両手で勢いよく叩いた。パァン! と乾いた音が響き、皆が彼女を見る。視線の先にいる己らの隊長は、陽の光を浴びながら凛と立っていた。

「騰にこの話を伝えないと。行くよ、海羅、左迅」
「御意」
「了解」



 今日は前線に立っていた騰を見つけるのは容易だった。海羅と左迅を離れたところで待機させると、瑛藍はぐしゃぐしゃのままの伝令を騰に突きつける。こんな態度の時の瑛藍は何かあった時だけだと知っている騰は、特に何も言わずにそれを受け取ってシワを広げた。
静かに読み進めていた騰だが、やはり最後の名前にぴくりと伝令を持つ手を震わせる。なるほど、瑛藍がこう・・なるのも無理はない。

 伝令を閉じると、騰は焚いていた火の中にそれを躊躇いなく入れる。ボウッと激しく燃え上がり、すぐに炭となって消えてしまった。

「な、」

 まさかそんな行動を取るとは思わず、流石の瑛藍も驚いてしまう。けれど騰は構わず、一歩引いたところに立っていた彼女の腕を引いて腕の中に閉じ込めた。

「とっ騰!?」
「不安になっても、怖くなってもいい。だがお前の居場所はとっくに此処にあるということだけは忘れるな」
「………うん」
「お前は、“騰軍瑛藍隊隊長”だろう」
「…ふふ、……うん、そうだね」

 彼の言葉が身体に染み渡っていく。騰の口から改めて自分の肩書きを告げられたことで、渦巻いていた嫌な感情が消えていくのを感じた。

「ンフフフ、自信を持ってお行きなさい。貴女はこの王騎が育てた狗なのですから」

 最後に王騎の口調で言われ、瑛藍はやっと笑顔を見せた。

「だからそれ似てないってば!」

 ゆるりと瞳を細め、ゆっくりと膝を折る。柔らかく舞う薄藍色の髪が、静かに彼女の背を覆った。

「行って参ります」

 次に“ただいま”を言う為に、彼女はその言葉を口にした。