雁字搦めの鎖はほどけない


 本陣のテントを組み立てて地形を頭に入れていると、誰かが入ってきた。瑛藍はちらりと顔を上げると、見慣れない男にクッと眉根を寄せて「誰、お前」と苛立ちを含んだ声色で問うた。

「桓騎将軍が隊員の人と話がしたいそうで」
「……もう一度聞いてあげようか。誰、お前」

 更に苛立った様子で再び問いかけた瑛藍に、桓騎兵の男も腹が立ったのか眉間に皺が寄る。その態度を見ていた右舷が男に素早く近づくと、両腕を背後に纏めて無理やり膝をつかせた。

「いでででで! 何すんだよゴラァ!」
「瑛藍様を侮辱するかのような態度は改めろ」
「あーあー、右舷ってば喧嘩っ早いの。まぁでも……」

 頭の後ろで両手を組んで緩い雰囲気を醸し出す左迅は、右舷とは違ってゆっくりとした足取りで男に近寄ると、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

「此処が何処だか分かって言ってる?」
「何、を……」
「此処は瑛藍隊。瑛藍サマのことがだぁいすきな奴らが集まってる隊なワケ。そんな俺達の前でさっきみたいな態度取り続けてみ? ……お前、死んじゃうよ?」

 クスクスと綺麗に笑うと、左迅は立ち上がってまた瑛藍の傍へ戻った。

「……お前」
「ヒッ…は、はひ、はいいっ!」
それ・・は、恒例なの?」
「そ、それ、とは……」
「だから、合流した他軍の兵士と話をするっていうやつ」
「あ、は、はいっ……」
「………そう」

 だとすれば、飛信隊にも桓騎兵が行ったに違いない。けれど信には抗うことは出来ないだろうし、例え出来たとしてもあの河了貂が止めるだろう。このタイミングで互いの関係を悪くするようなことは得策ではない。

「そ、それと……」
「?」
「じっ実はこれ、ただ話をしに行くだけじゃなくて……」

 男が語った内容は、瑛藍の想像を遥かに超えていた。



「――まさか、隊の入れかえまでやっているなんて……」
「あの男を帰して良かったのですか?」
「別にいいよ。隊の入れかえをする建前が『変化する戦況で連携が取れるように、桓騎軍向こうの意図が分かる兵士が入る』っていうものだから」

 つまり、瑛藍にとっては関係のないことだった。桓騎もそれを分かっていて、あの男を此方に寄越したのだろう。もしも本気なら将軍自ら足を運んだに違いない。瑛藍は確信を持ってそう思っていた。

「明日からの戦は、今まで以上に汚いものになると思う」
「略奪や虐殺を平気でする軍、というのは聞いたことがあります」
「うん。……気を引き締めて行こう」



 ――明日の動きを読み、策を立てる為に一人本陣に残った瑛藍は、盤上に乗る駒を見ながら頭では別の人物を思い描いていた。

「(……やっぱり、あの人は変わっていなかった)」

 元野盗である彼の本質は、とても残虐的なものだ。そんな彼に拾われた所から、瑛藍の人生は始まった。
 今思い返せば、幼少期に経験させるようなことではない日々だったが、それでもあの頃の自分にとって彼は神様のような人だった。あの人に拾われていなければ、恐らく自分は死んでいただろう。だからこそ瑛藍は、どれだけ時間が経とうが、離れていようが、心から彼に抵抗は出来ない。

 それは一種の洗脳とも呼べるけれど、本人は気がついていない。刷り込みとすら思えるそれに危惧した王騎によって、その意識も大分薄れてきたように思えたが、やはりそう甘くはなかった。
 桓騎自身、自分と再会した時の反応で瞬時に悟った。だからこそ安心して手放せた。もし少しでも自分を拒絶して抵抗する素振りを見せたその時は、監禁でも何でもしてもう一度自分の手元で飼い殺そうと考えていたのだ。そんな仄暗い想いを瑛藍が知ることは無かったのが、唯一の救いだと言えるだろう。

「瑛藍、いる?」

 関係ない思考に囚われていた中、外から聞こえてきた声にハッと覚醒した瑛藍は「はーい」と努めて軽い声色で返事をした。

「あ、やっぱり起きてた」
「河了貂?」

 入ってきたのは飛信隊の軍師・河了貂。彼女は盤上に広がる地形や駒に目を奪われつつ、「聞いてもいい?」と一言断った。何を、とは思わない。自分の存在が河了貂達をかき乱していることは自覚しているから。「どうぞ」静かに促すと、彼女はまだ配置されていない駒を手に取りながら口を開いた。

「…桓騎将軍とは、どういう関係なの?」
「ふ、やっぱり気になる?」
「そりゃあ気になるよ! そんな素振り今までなかったじゃん!」
「あはは、だよね。でも十年くらいは会ってなかったし、わざわざ言うことでもないかなって」
「じっ十年!? なんで…」

 さらに踏み込んできそうな河了貂に向かって、にっこりと笑う。それは笑顔の拒絶だった。このことを知っているのは王騎と騰、それから桓騎軍の幹部数名だった。自分の隊の人間すら詳しい関係を知らないのに、他隊の軍師に言うわけがない。その意図を読み取ったのか、河了貂も踏み込みすぎたと思って一言謝る。

「ごめん…」
「いいよ、別に。で、話はそれだけ?」
「いやっ、えっと……桓騎将軍ってどんな奴なんだ?」
「客観的に見れば、残虐的な人なんだろうね。平気で外道なことをするし」
「(やっぱりそうなんだ……)」
「でも……冷酷ではない。部下に対する思いやりが無いわけではないし、特に――」

 特にわたしに対しては、と続けそうになった科白を咄嗟に飲み込んだ。これは言わなくてもいいことだ。

「特に?」
「……何でもない! それよりお前のところ大丈夫なの? わたしはともかく、信は此処でのやり方を嫌いそうだけど…」
「あー……うん、まぁなるようになれ、かな」
「…とにかく、気をつけなよ」

 どういう意図があって飛信隊を呼んだのか分からないが、少なくとも良い意味ではない筈だ。桓騎の真意を図ることは恐らくあの雷土でさえ難しい。けれど分かっていることは一つ――桓騎軍と飛信隊は、真逆だ。

「忘れないで。例え元野盗だからって、あの人は今や秦の将軍に昇り詰めたお方。舐めてかかれば痛い目を見るよ」
「……分かった」
「それから……、」

 一度口を噤むと、何かを思案するように目を閉じた瑛藍。やがて覚悟を決めたのか、ゆっくりと瞼を開けて紺藍色の瞳を覗かせた。

「今回はあまりわたしと関わろうとしないで」
「なっ……どうして!」
「…わたしは、心の底からあの人を拒絶できない」

 地形を模した盤上、その本陣に位置する一際大きな駒を手に取って、彼女は自嘲気味に笑った。

「――神様みたいなあの人の言葉に、わたしは逆らえない」

 たった一言のそれに含まれた意味を、河了貂は読み違えることなく理解した。だからこそ返事が出来なかった。
 見えない鎖で縛られている彼女を助ける術なんて、今の自分には到底無い。そもそもあの桓騎将軍を相手に太刀打ちすら出来ないし、返り討ちに遭うのが目に見えている。

「……大丈夫だって、思ってたのになぁ」

 宝石のような紺藍が、ゆらりと揺れた。