始まりの始まりに踏み込め


翌朝、日が昇るよりも前に目が覚めた瑛藍。深緑の服に身を包み、甲冑を着込んで立てかけておいた斬馬刀“隗月”を両手で握りしめる。ぎらりと光る刃に額を当てながら、ぼそりと呟いた。

「……殿、騰…見ててね…」

 桓騎と顔を合わせることが、とても怖い。けれど自分も将軍として、これから幾度も彼と会わなければならない。
テントから出て前を見据える。立ち並ぶ“桓”の旗を睨むように見つめて、馬の様子を見に馬房へと足を向けた。



 ――ブオオオオオ!
 角笛の音が野営地に響き渡り、ピリッとした空気を生む。瑛藍は飲んでいた水筒を直して、隊全体へ声を張り上げた。

「瑛藍隊、出るぞ!」
「「「オオオオ!!!」」」

 桓騎軍五万、瑛藍隊二万、飛信隊八千――計七万八千。趙・黒羊丘攻略に向けて出発。



「――うーわ、やる気無くなるわぁ」
「締まりのない声を出すな、左迅」
「だってよ〜、見ろよこれ! どこ見ても木だぜ」

 右舷に注意されるも、左迅はげんなりとした表情を浮かべたまま。しかし無理もない。眼前に広がる密林を見れば、やる気を削がれてしまうのも分かる。――ここが今回の戦場、密林地帯“黒羊”なのだ。
 密林をよく注視していると、いくつかの丘が見える。一つ一つ場所を確認していくと、瑛藍は紺藍色の瞳をうっすらと細めた。暫く何かを考えるように見ていた彼女を、海羅が呼んだ。

「瑛藍様」
「んー?」
「桓騎将軍がお呼びだそうです」
「……分かった。右舷、左迅、ここを頼んだよ」
「「御意」」

 こういう時だけ畏った返事をする左迅に相変わらずだと笑いながら、瑛藍は海羅を連れて本陣へ向かう。

「何か気になることでもありましたか?」
「うーん…、まだ憶測の域を出ないから何とも言えない。また探ってもらうことになるかも」
「承知致しました」

 馬に揺られながらまた考え事をする瑛藍を、海羅は後ろから見守る。余計な口出しはするだけ無駄だし、何より思考の海に潜っている彼女の邪魔をしたくない。
 さほど離れていない場所に展開された本陣に着くと、馬から降りて桓騎の下へ。そこには既に飛信隊も居て、信は居心地悪そうに片手を上げてきた。

「よォ」
「もう来てたんだね、信」
「お前も呼ばれたんだな」
「当たり前でしょう」

 軽く言い合う二人を、桓騎はじっくりと眺める。その視線を受け止めた瑛藍はすぐに口を噤み、卓の上に広がる模型図に視線を落とした。

「……摩論、さっさとすませろ」
「ハ。さ、どうぞこちらへ」

 摩論に促されて、所定の位置につく。早速始まった説明を聞きながら、先程直に確認した丘の場所と模型図を頭の中で照らし合わせる。広大な密林が広がる“樹海”に、落とすべき城はない。けれどその代わりに五つの丘が存在しており、此度の戦いは単純な丘取り合戦だ。

「(あの密林の中がどうなっているのか分からない以上、下手な作戦は立てられない)」

 顎に手を当てて考える瑛藍を他所に、摩論は「この樹海に道を作るべく、二つの矢を放ちます」と告げた。

「左は雷土さん、そして右が飛信隊です。散らしている哨兵しょうへいによれば、敵の慶舎軍も黒羊の反対の淵に着いた様子です」

 そして手前に位置する丘を取るのではなく、できるだけ奥深くで敵と交戦し、前線を張ることで後ろの隊は労せず三つの丘を手に入れられるらしい。
 最後まで聞いた河了貂は「だったら急いだ方がいい」と信に伝える。その間にも雷土の隊は準備が出来たようで、早々に退席してしまった。彼に続くように信も意気込んで踵を返すが、ここで桓騎が声をかけた。

「待てよ、元下僕の信」

 刺のある言い方にぴくりと反応する信。瑛藍も桓騎が何を言い出すのかと内心ハラハラしていた。

「重要な役目の片方をお前に与えてやってんだ。本来なら瑛藍を当てるつもりだったんだがな……しっかり期待に応えろよ。失敗したらただじゃすまないぜ? お前」

 切れ長の瞳から放つ威圧に、信の機嫌も急降下していく。

「元野盗の桓騎将軍は、安心して俺らのケツを追っかけてくればいい。この戦の第一武功、敵将・慶舎の首は俺が取る!」

 勇む信の背中を見送り、瑛藍も所定の位置に帰ろうと桓騎に背を向ける。けれど先程よりも穏やかな声色の桓騎に呼び止められ、彼女はグッと拳を握りながら振り返った。

「何ですか、桓騎さま」
「ククッ、ツレねぇじゃねーか。もっとこっち来い」
「今は桓騎さまと遊んでいる暇はないので」
「何だよ、怒ってんのか?」
「怒ってない!」
「怒ってんじゃねぇかよ。ほら、機嫌直せ?」

 喉奥で笑いながら瑛藍の手を引き、自身の腕の中に閉じ込める。頬に当たる甲冑の冷たさを感じながら、彼女は何とか顔を上げて己を抱きしめる男と目を合わせた。
 黒曜のように煌めく瞳が、慈愛の色を含んで瑛藍を見下ろす。彼にとっては似合わない、けれど彼女にとっては懐かしいものだった。

 他者を見下し、敵に対して無慈悲に屠る男。それが自他共に認める“桓騎”という者だ。けれど瑛藍という少女に対してだけは違う。桓騎にとって瑛藍とは、文字通り『特別』なのである。

「…機嫌を直すも何も、怒ってないと申しています」
「フ……そういうことにしておいてやるよ」
「〜〜っ、戻ります! 敵の動きが分かり次第、瑛藍隊うちも出ますから! いいな、摩論!」
「はい。お頭からも許可は得ておりますので」

 すました顔で肯いた摩論の科白に、またもや桓騎をひと睨みしてから、海羅を連れて来た道を戻る。だが桓騎と話している間、黒桜から憎悪にも似た視線を向け続けられていたことには瑛藍も苛立っていたようで、目にも止まらぬ速さで懐に隠しておいた短刀を彼女の喉元に突きつけた。
 あと数ミリ動けば己の首を貫くそれに、黒桜は冷や汗を流して目を見開く。その様を冷徹な眼差しで一瞥すると、短刀をそのままに口を開いた。

「わたしより弱い奴が、分不相応にも威嚇しないでくれる? 殺したくなるから」
「なっ――」
「桓騎さまの幹部だからって容赦はしない。わたしの邪魔をするって言うなら、その時は容赦なくその命、貰ってあげる」

 瞳の奥がぎらりと光る。その言葉は比喩でも何でもなく、本音だった。口を開くことすらままならない黒桜に、漸く短刀を退けてまた懐にしまうと「桓騎さま、女の趣味悪くなりましたね」と一言投げつけて、やっと本陣から去った。




「――瑛藍様…」
「ああ、うん。……ごめん、海羅。何も言わないわたしに呆れた?」
「いいえ、決してそのようなことは天地がひっくり返っても有り得ません」
「ふふ、そうなの? …戦が始まる前に、お前と、右舷、左迅には話をしておこうかな。それが今回の戦いにも繋がるから」
「良いのですか?」

 純粋に驚いたような海羅の声色に、前を走る瑛藍は困ったように笑った。

「ただの小娘の幼少期の話だけれど」
「それでも、僕達にとっては代わりのいない主人あるじです」
「……ありがとう、海羅」








 ――わたしはね、生まれてすぐに村の口減らしの為に捨てられた孤児だった。親の顔なんて覚えてる筈も無くて、ただ泣くことしかできない赤ん坊だった。
 そんなわたしを捨てた村を襲った野盗が、桓騎さまだった。時もちょうどわたしが捨てられてから少ししか時間が経っていなかったらしくて、大きな声で泣く赤ん坊を、あの人は見事見つけてくれた。彼はすぐに気がついた。先程自分が焼いた村の人間に捨てられた赤ん坊だということに。

「口減らしに捨てられたってヤツか」

 桓騎さまはただ泣いている赤ん坊を拾うほど、お優しい方ではない。けれど何の目的も無く命を奪う程冷血でもなかった。
 あの人はこれ以上赤ん坊に構うことなく、その場から立ち去ろうとしたのだが――見てしまったらしい。

 泣きながらうっすらと瞼を開けた赤ん坊の、まるでキラキラと輝く宝石のような紺藍色の瞳を。
 あの時から男は、この瞳に囚われている。