聴きたくなかった哀しい音


「あの丘から上がる煙……」
「あれは飛信隊の方ですね」
「うん。……失敗、だろうな」

 慣れていない樹海での戦い。生い茂る樹々のせいで、敵が近づいてきていたことに気がつかなかったのだろう。そのせいで敵側に翻弄され、丘を取られた。
 そのまま素通りして摩論の策通り、奥で交戦することを目指せばまだ良かったのだろうが、飛信隊は丘を取り戻す方を優先した。――結果、丘の頂上に張られたハリボテに翻弄され、ただ時間を食っただけとなってしまったのである。

「どうする? 瑛藍サマ」
「――中央の丘を取られて砦化されたら、この戦は終わってしまう」

 厳しい眼差しで煙の立つ丘を睨んだ後、隣で静かに佇む愛馬に跨った。総大将である桓騎に聞かなくても分かる。彼はきっともう、戦場に向かっている。

「隊を分けて行動する。弓兵は前に出ず、先に行く小隊の援護射撃を。海羅は別の小隊を作って飛信隊の様子を見てきて。左迅、右舷はわたしと一緒に左へ突撃する」

 敵将・慶舎。彼のことは詳しくは知らないが、この密林地帯においての戦法をよく分かっている。左へ道を作りに行った雷土達の状況が分からない以上、ここで手をこまねいていても好転しない。

「(最悪なのはあの樹海の中、敵に囲まれること。それだけは避けないと……)」

 振り返り、己の両翼を見る。力強く応えてくれる二人の瞳に頷き、瑛藍は愛馬の首を優しく叩いた。



 ――戦況は、瑛藍の予想した通りの展開になろうとしていた。敵将である慶舎が精鋭を引き連れ、雷土隊の後列を叩き潰しに来たのだ。既に先を行く雷土・ゼノウ隊と、彼らを追っていた後列とを分断させ、孤立させる。更に各方々へ散らばっていた慶舎軍右翼の各隊に雷土隊へ行軍させることで、雷土・ゼノウ隊は気付かぬうちに包囲までされるという窮地に陥ってしまった。

「くそォ! こいつら、次から次にっ」
「こっちの後続はなぜ来ない!」
「分かりやせ……ぐぁっ!」

 敵に囲まれて乱戦する中、雷土はやっと自分達が嵌められたことに気がついた。涼しい顔をして己の仲間を倒していく敵に苛立つが、それで冷静さを失ってしまっては自分も死んでしまう。
 決断を迫られたその時、雷土は本来後続が来るはずだった方面の風向きが少し変わったように感じた。敵を屠る手は止めないまま待っていると、飛び出してきたのは自分もよく知っている、薄藍色の少女だった。

「なっ…………!」
「見つ、けたあ! 雷土!」

 呼び慣れたように自分の名を呼び、彼女の背よりも大きい斬馬刀で敵の首を飛ばす様は、随分と昔を思い出させてくれる。

「何してんだこんな所で! お前は待機だろ!」
「好きに動いていいって許可は取ってる! だいたいこんな窮地なくせにうるさいんだよ雷土は!」
「ンだと………!」

 青筋がピキリと浮き上がるが、こんな戦地でも変わらない瑛藍に雷土は無意識に笑っていた。

「ゼノウもいるくせにこんな事になるなんて、余程綺麗に敵の策に嵌ったんだね」
「うるせェ、殺すぞ」
「野蛮すぎ。助けに来た相手に殺すって、逆にわたしが殺してやろうか?」

 ゼノウ相手にも軽口を叩くその様は、何とも異様な光景だった。けれど実際瑛藍もギリギリの状態で、思った通りの展開に頭をフルで回していた。

「(敵が多すぎる! 隊が瓦解するのも時間の問題だな……)」

 ギュッと斬馬刀を握りしめると、瑛藍は雷土とゼノウに向かって彼らにだけ伝わる策を伝えた。

「雷土、ゼノウ!」
「「!?」」

 それは慶舎も見落としていた、絶体絶命の窮地における元野盗特有の“知恵”。

「“火兎かと”を鳴らせ!」
「―――!」
「…………」

 それは策と呼ぶにはあまりにも稚拙なものだが、二人には充分だった。
 同時に笛を口に加えると、大きく息を吸って力の限り音を鳴らす。頭に直に響く笛の音は、元野盗である桓騎軍には効果抜群で、抗戦していた者達は敵に背を向け、脱兎の如く逃げ出し始めたのだ。事前に話を聞いていた左迅と右舷も、実際にそれ・・を目にして声も出ない様子。

 ――“火兎”の笛とは、彼ら桓騎軍が野盗団だった頃から使われている代物で、かつての修羅場で何度も耳にした笛の音だ。
 意味は“絶体絶命”“完全包囲”。もはや隊ごとの伝令や号令は必要なく、この音さえ聞けば桓騎兵は全員野盗時代に戻り、各々が我先にとその場から逃げ去るのである。その様は軍の退却の姿とはあまりにもかけ離れている為、敵兵も追うのを忘れて固まるしかなかった。

「左迅、右舷! わたし達も退却する」
「「あいわかった!」」

 来た時同様に道を切り開く二人の後ろで、瑛藍はもう既に姿を眩ませた雷土とゼノウの行く先を模索した。このままただで転ぶはずがない。しかもあの二人だ。必ず、必ず何かする。――そしてそれは、真っ当な兵士として生きてきた左迅と右舷には優しくない光景が待っているだろう。

「二人は先に帰ってろ」
「瑛藍様!?」
「わたしは少し、行くところがある」

 こうなっては止まらないだろう。けれど自分達は彼女の翼。簡単に頷くわけにはいかない。

「お一人にはさせません」
「右舷…」
「瑛藍サマが俺達を気遣ってくれてんのは分かるけど、ここまで来たらもうそれはナシだろ」
「左迅…」

 自分よりも年上で、頼りになる存在。だからこそ、二人には似合わない世界を見せたくなかった。だがもう説得の時間もないし、二人とも折れないだろう。

「……選んだのは、お前らだからね」

 それでも苦悶の表情を浮かべる隊長に、二人はただ静かに頭を下げた。



 日暮れが近くなり、赤に染まっていた空も徐々に暗くなり始めている頃。図らずとも雷土とゼノウは同じ場所に辿り着いていた。

「お前もこっちに・・・・来たのか」
「…………、ああ…。考えることは同じ・・のようだな、雷土」
「ああ」


 ――それから数刻後。陽が完全に沈むよりも先に、中央の丘は真っ赤な炎に包まれていた。砦化に着手していた趙兵達を皆殺しにし、柵と共に焼き払ったのだ。

「チッ。しっかり覚えとけ、趙のクソ共が。元野盗団の桓騎軍俺達は、どんなに下手うったとしても――ぜってェ手ぶら・・・じゃ帰らねェんだよ!」

 凶悪な顔付きで炎を見る雷土とゼノウ。その丘の下にはやはりとでも言いたげな表情で彼らを見上げる瑛藍が居た。

「――だよね」

 こうなるだろうと確信していた。それは予測でも何でもない、ただの勘。けれど外れることはないだろうと思っていた。だって、王騎に会う前の自分ならきっとそうしていたから。
 自分の後ろで声を失っている左迅と右舷に向き直る。必死に目の前に広がる惨劇を己の中で昇華させようとする二人に、瑛藍は近づいた。

これ・・に慣れるな。慣れる必要なんて、どこにも無い」

 静かに囁かれる言葉に、そして必死に抗っている瑛藍の姿に、二人は強く拳を握りしめた。