「さっきのは雷土とゼノウの“火兎”っスね」
「ああ」
「…他所のでも“火兎”聞くのはやっぱ嫌っスね」
「クク、昔を思い出すか」
「ええ。……両方とも今ごろ、バンバン背中やられてんなァ」
見えていなくてもその光景はありありと目に浮かぶ。皆が一斉に敵に背を向けて逃げ出すのだ、殿もいないその方法では最後尾の奴ほど背中は討たれるだろう。
「――でも、あの判断の早さは
「……気づいていたか」
「はい。最初は雷土と思いましたけど、今この戦場には瑛藍がいます。野盗の戦い方をよく知る彼奴が判断を間違えることはないですし、包囲が狭まる前の“火兎”なら、二隊が壊滅することはないでしょう。……さすが、お頭の狗っスね」
躊躇いなく“桓騎の狗”だと言い切った厘玉に、桓騎は気を良くしたのかうっすらと笑みを浮かべる。
「お前は、彼奴が俺の狗だと思うのか?」
「ええ。というか、何を当たり前なことを。例え瑛藍が離れていたとしても、お頭の狗であることは揺るがないでしょう」
「クク、だよなァ」
そう、そうだ。誰がどう思おうと瑛藍は自分が見つけ、拾い、育てた狗。それは当たり前にある事実だ。
「趙の奴らには、素人丸出しの逃げに見えてるだろうな。…だが、何だかんだであの逃げ方が一番多く助かるんだよなァ」
「っスね」
今回も主要メンバーはおろか、他の兵達もそこまで死んでいないだろう。そんな確信を持って桓騎はまた暫く待つ。空が赤くなり、だんだんと暗さが空を支配しようとする頃、それは起こった。
目標としていた一つの丘が、轟々と赤く燃えたのだ。空よりも赤いそれに、桓騎はこれをやってのけた人物を思い描き、静かに口角を上げる。
「だよな」
それは信頼の現れから呟かれた一言だった。
――時は戻り、雷土、ゼノウ達から離れた瑛藍達は仲間と合流し、丘より少し下がったところで天幕を組み立てた。飛信隊に送った海羅が率いた小隊は帰ってきていない。
「やっぱり、海羅帰ってきてねぇのな」
「飛信隊の被害……というか、戦況が分からない以上、無理に戻ってこいとは言えないしね」
疲れた身体を火に当て、水を飲む。いつ敵が攻めてくるか分からない状況では甲冑も脱げず、側に立て掛けている斬馬刀を手入れしようと手を伸ばした。
「……アレは、いつも行われていることなのですか」
「――右舷」
「桓騎軍が元野盗で、非人道的だという話は聞いたことがあります。ですがあれ程とは……」
想像以上だったのだろう。兵士として歴は長いが、野盗の戦いを見たことは無かったらしい。であれば、拷問好きで死の一団と呼ばれる“
改めて桓騎軍の戦法がいかに惨たらしいかを自覚した瑛藍は、一刻も早くこの戦を終わらせて騰のところに帰りたいと強く思った。
「瑛藍様ー!」
「!」
「本軍から使者が来ました!」
「本軍から…?」
急いで本陣の天幕に駆け込むと、恭しく一礼する桓騎軍の参謀、摩論がいた。それだけで彼の用事を理解した瑛藍は、着いてきていた左迅と右舷を外に出し、二人きりになる。
「さすが、話が早いですね」
「摩論が来るってことは、明日……もう今日か。それの作戦でしょう?」
「ええ、そうです。やはり飛信隊とは違いますね」
「飛信隊にはもう行ったの?」
「彼らは後がないですから。早く作戦を伝えて策を練る時間があった方が良いと思いましたので」
では、と摩論が卓の方へ向く。それに続いて瑛藍も卓の上に広げっぱなしにしていた地図へ目を落とした。
「もう勘付いているとは思いますが、二日目の今日からいよいよ中央の“丘取り合戦”が始まります!」
「やっぱり始まるんだね…」
「ええ。ちなみに、初日に放った物見達の報告からこの黒羊を分析しますに。この巨大な中央丘を手にすれば、十中八九黒羊の戦いには勝利します。そこまではお気づきですね?」
気づいて当然、という言い方だが、瑛藍はこくりと頷いた。
「それじゃあ、明日は中央軍が進軍するんだね」
「そうです。そして丘の斜面のどこかでぶつかり、丘の“覇”をかけた領地合戦となるでしょう。丘の地形は様々で、複雑な戦いになると予想されます」
「それで平地で動いている雷土隊と飛信隊は、敵に下から丘へ進軍されない為に再び前線を押し上げる……」
「そういうことです」
「話が早くて助かります」摩論は紳士面の笑みを浮かべた。
「で、わたし達は?」
「飛信隊に貴女の隊の者を見かけましたが、援軍を送ったんですか?」
「……左右両方に送った。文句を言われる筋合い無いから」
「文句なんてとんでもない! 実に良い働きぶりだったと聞いていますよ」
「分かったから! 今日はどうすればいいのかって聞いてんの!」
こうして感情を素直に出すところも、昔と変わらない。摩論は笑いながら軽く謝り、飛信隊に送っている小隊はそのままにしてほしいと告げた。
「いいの?」
「何せ今日の飛信隊は首が飛ぶか飛ばないかの瀬戸際ですし、これ以上作戦を失敗されるとこちら側の被害も甚大ではない。正直瑛藍の小隊が居てくれた方が勝率も上がります」
「分かった。わたしは?」
「雷土のところはひとまず睨み合いから始まります。恐らく向こうもその手で来ると思いますので、こちらに援軍はいらないでしょう。なので瑛藍隊には、丘取り合戦に参加してもらいます」
トン、と指先で示された中央の丘。今日一番の激戦が繰り広げられるであろう場所に、瑛藍達も配置されたのだ。
「私はこの左側。予想ではあまり戦況は動かないだろうと思いますので、瑛藍には右側を注視していただきたい」
「右……指揮は誰?」
「黒桜です」
「黒桜?」
「貴女が喧嘩を買っていた女ですよ」
その科白にピンときた瑛藍は、途端に嫌そうな顔をして摩論を見た。それは『本当にわたしはこっち側に行かなければいけないのか』とはっきり書かれていて、思わず吹き出してしまった。
「本当に危なくなったらでかまいません。絶対に出ろとはお頭も言っていなかったので、そこら辺の判断はお任せします」
「……分かったよ。ただし、その人が死んでもわたしのせいにしないでね」
「そうなる前に突入して下さい」
結局摩論に散々釘を刺され、彼が帰った後もまだ機嫌が悪い瑛藍がいた。
――その頃、飛信隊。
「海羅さん、水持ってきました」
「ああ、すまない」
兵士から水をもらい、喉を潤す。激戦となっていた飛信隊と合流出来たはいいが、樹海での戦いは不慣れな自分達も苦戦を強いられた。
「海羅……さん、だっけ?」
「…飛信隊の軍師か」
「休んでるところごめん。ちょっと来てもらってもいい?」
連れて行かれたのは本陣。天幕に入って行った河了貂に続くように中に入ると、飛信隊隊長・信が座ってこちらを見ていた。
「何だ」
「いや、…昨日は助かった。ありがとな」
「……僕は瑛藍様の命に従ったまで。礼ならあの方に言え」
「それでも、お前らが来てくれなかったら俺達も危なかった」
どこまでも実直な信に海羅はそれ以上否定せず、礼を受け入れた。
その後今日からの動きを伝えると河了貂に言われ、卓に広げられた地図の周りに集まる。先程来ていた本軍からの伝者から『中央丘横まで軍を進める』ことが最低限の約束だと言われた飛信隊は、正直もう後がない。しかも今日も失敗すれば信と河了貂の首が飛ばされるらしい。
「そんなことになっていたのか…」
「だからこそ、今日も力を貸して欲しいんだ」
「もとよりそのつもりだ。瑛藍様もそれを見越して僕に飛信隊へ行くように指示をされたのだろう」
「瑛藍………!」
信と河了貂の二人は、強気に笑う瑛藍の姿を思い出した。特に河了貂は、開戦前に彼女に言われた科白が頭を過ぎる。
「今回はあまりわたしと関わろうとしないで」
そう言いながらもこうして自分達を助けてくれた。その事実が河了貂には何よりも嬉しくて、目に涙が浮かぶ。慌ててぐしぐしと乱暴に拭って、明日への作戦を伝えるために口を開いた。
「(…瑛藍様は無事だろうか)」
海羅は海羅で、己の隊長の身を案じることしか考えていなかった。