優勢と劣勢は時に反転する


 二日目が開戦した。
 やはり雷土率いる左の平地は初日とはうって変わって両軍動かず、密林を挟んで睨み合いとなっていた。前線はちょうど中央丘の“真横”――互角の位置である。

 そして黒羊の戦いの勝敗に直結するという中央丘では――二日目にして早くも丘の斜面に沿った陣取り合戦が始まっていた。夜中に摩論が伝えに来た通り、左半円の摩論VS.金毛の戦いは開戦と同時に激戦となったが、力は拮抗し前線は微動だにせず。

 しかし一方、黒桜が指揮をとる右半円の戦いは桓騎軍が優位に進め、前線を大いに押し込んでいた。その右側を任されていた瑛藍は、馬に乗ったまま丘の様子がよく見える崖上から眼下を眺めていた。その表情は依然として固く、桓騎軍が優位だというにも関わらず視線は鋭い。

「どうしたんだ、瑛藍サマ?」
「……わたしはこの状況をよく知っている。だからこそ油断しやすい」
「………?」
「かつてわたしは、殿にとっての“隠し玉”だった。秘匿されていたからこそ殿の最期となった馬陽での戦いで、あの李牧に不覚をつけた。それにわたしだけじゃない。李牧だって、あの戦いで初めて姿を現した」

 いつだって予測不可能な存在は現れる。瑛藍はその可能性を示唆していた。

「この形勢を逆転させることが出来る人物。そいつが出てきた時こそ、わたし達の出番だ」

 構えてろよ、と短く告げると、隊の者達はそれぞれ得物を持ち、注意深く丘を見つめる。すると何かの伝令を受けたのか、黒桜がついに総攻撃を仕掛けた。勢いに乗る自軍側に瑛藍が強く“隗月”を握りしめた――その時だった。

 ――ゴオオオオン!

「!?」

 鐘の音が鈍く、強く響き渡る。腹の奥底にまで届くような音の方向へ目を向ければ、自分達とは反対側の崖上に少数の騎馬隊がいた。肉眼では誰かまでは見えないが、鐘の音の余韻が完全に消えるよりも前に趙兵が歓声のような雄叫びを上げた。

「うーわ、まさか……」
「そのまさか、だね。――“隠し玉”が出た」
「瑛藍様、どうされますか」

 右舷に問われ、瑛藍は改めて戦場を見下ろす。その時、崖上に現れた男が自軍に向かって声を張り上げた。

「趙兵っ……いや、離眼の兵よ!」
「!!」
「……っ…」
「戦えェェ!」
「「「ウオオオオオ!!」」」

 たった一言檄を飛ばすだけで、黒桜率いる桓騎軍に圧されていた趙兵達は息を吹き返したように腹奥から声を出し、屈強な男達に刃を突きつける。それまで優勢だったはずの桓騎軍だが、予想外のことに反応できず殺されてしまう。男が『離眼の兵』と呼んだ趙兵達の目は血走り、まるで般若のような形相だ。

「失せろ! このっ……侵略者共がァ!」
「ごほァ!」
「ギャアア!」

 上から見ていればよく分かる。趙軍は守りの陣を解いて全兵総攻撃に出た。それを食い止めようと桓騎軍で守りの達人と呼ばれる角雲が前に出るが、とうとう崖から降りてきた騎馬隊の刃が彼の首を一瞬で刎ねた。
 まさかあの断崖を下ってくるとは思わなかった黒桜。目を見開いてどうするか思案するが、この窮地についに瑛藍が動いた。

 彼女は敵の騎馬隊が下る瞬間を見逃さず、ほぼ同時に崖を降りて左迅と右舷に道を作らせたのだ。突然の援軍に桓騎軍は驚くが、その声には応えずにどんどん前へ進み、やがて一瞬でこの場を支配してしまった男、紀彗の前へ躍り出た。

「何者だ!」
「っ……それは、こっちの、科白だ…っつーの!」

 休む間も無く降り注ぐ刃を退けつつ、瑛藍も攻撃に転じる隙を窺う。だが余程の手練れのようでなかなかその隙が無く、防戦一方だ。

「薄藍の髪に紺藍の瞳…。其方、あの王騎の狗と言われた、騰軍が瑛藍隊隊長、瑛藍だな」
「へぇ、わたしのこと知ってんの?」
「この戦国時代でその名を知らぬ者はいないだろう。それに将軍の地位に昇り詰めたにも関わらず、軍を率いず未だ騰の下についていると言うのも有名だ」

 まさかそこまで知られているとは思わなかった瑛藍は「わたしはお前のこと知らないんだけど?」と、わざと挑発する。それを分かっていて彼は乗った。

「俺は此度の趙軍の副将にして、離眼城の城主――紀彗だ」
「きすい…紀彗。わたしや李牧と同じであんな断崖を下ってくるなんて思わなかったよ。そのお礼に……わたしも全力で相手してやる!」

 紀彗が持つ矛と瑛藍が持つ斬馬刀がぶつかり合う。互いに拮抗した力で刃が音を立てるが、二人の距離は離れずに素早く得物同士が鬩ぎ合い、無数の傷を生み出していく。

「流石はあの李牧様から名指しで注意するように言われた女……。やはり一筋縄ではいかないか」
「お前こそ、そんなに強いくせに今まで名すら届いていないなんて」

 二人の瞳が交差し、細まる。ここが戦場だと分かっていても、紀彗と瑛藍はこの死合に高揚していく自分を止められないでいた。
 刃を打ち合いながら敵の一手二手先を読み、どちらが先に首を取るか分からない――正に命と命のやり取り。互いに背負うものがあっても、今この瞬間だけはそれを忘れていた。

 だが、終わりは不意に訪れた。

「瑛藍サマ、もうすぐ撤退が完了するぜ」
「離脱するための道は、既に整っております」

 彼女の両翼が甲冑を血で汚しながら、背後に控える。彼らの言葉に、瑛藍は迫り来る矛を強く弾いて退けさせることで応えた。

「悪いね、紀彗。勝負は一旦お預けだ」
「逃げる気か?」
「思ってもないことをよく言うなぁ。――決着は、また今度」

 血が頬につき、体は傷だらけ。斬馬刀を握ることさえやっとなはずなのに、それを包み隠してニッと口端を釣り上げて笑う彼女を、紀彗は不覚にも魅入ってしまった。


 ――正しく、雷光の如き速さの逆転劇であった。紀彗の出現で黒桜達は後退。逆に一気に紀彗軍に押し込まれる位置まで退げられてしまった。
 せめて拾うものがあったとしたら、黒桜の判断の早さと瑛藍の奇襲によって、失った兵数が多くなかったことと、紀彗という第二の存在に気付いたことである。

 中央丘を中心に戦場を左右に分けて見ると、右の平地は飛信隊が押し込み、丘は紀彗軍が押し込んだ。左は平地も丘も拮抗し、前線は大きく動かず。
 二日目の戦いは――ほぼ互角のような形で幕を下ろしたのである。

「瑛藍様が思っていた通りの展開となりましたね」
「張っていて良かったと言うべきか……。あんな手練れの男が秦国こっちに名前が届いていないのはおかしい」
「なら、さくっと調べてくる?」
「……いいや、今はいい。それより明日以降の動きがどうなるか、策を立て直さないといけない。紀彗なんて爆弾が出てくるなんて予想外過ぎた」

 馬を走らせながら丘を降り、そのまま今日の夜営地に急ぐ。わざわざ黒桜や摩論の所には行かなくていいだろうと勝手に決めつけ、瑛藍はふと思った。

 ――飛信隊は、無事に此方へ来れたのだろうか。

 その杞憂も海羅や河了貂が居るから大丈夫かと、すぐに心配することをやめ、夜営地に着くと馬から降りて部下から貰った水で喉を潤した。

「(……殿の狗、かあ)」

 久々にそう呼ばれたな。
 天幕の前で適当な高さの岩に座りながら、瑛藍は紀彗に言われたことを思い返していた。『王騎の狗』と呼ばれることは彼女の誇りであり、そうありたいと願ったものだ。その為に弛まぬ訓練を積み、いつも王騎の後ろに控えている騰にも憧れた。

 だからこそ、王騎の最期の戦となった馬陽での戦いは、どれだけの年月が経とうが忘れられない。王騎の最期でもあり、瑛藍が王騎と共に戦うことが出来た最初で最後の戦だったから。

「(紀彗のおかげで少し心に余裕が出来た……気がする)」

 桓騎と再会したことで、再び彼に首輪をかけられたかのように思ってしまっていたが、まさか敵から王騎の名が出るだけでこうも落ち着けるとは思わなかった。
 ぎゅう、と水の入った湯飲みを持つ手に力を込め、立てた膝に額を乗せる。ワイワイと兵士達の明るい声が夜に響く中、ぽつりと情けない声が落とされた。

「…かえりたいよ。……殿…騰…」

 か細いその声を、彼女の両翼だけが闇に紛れて聞いていた。